(3) バンザイ~好きでよかった~
息を切らしてこちらを見る崎田の目を、じっと見つめ返していた。
いつも収まるべきところにきっちり収まっているメガネが、少しだけ右上がりにずれている。
ありがちなコントみたいに。
「メガネ…」
「え…?メガネ…?」
「綺麗にずれてるね…」
あの告白以来、一週間ぶりに交わした最初の言葉がそれだった。
「そこかよ!!」
「ご、ごめんなさいっ」
ガラの悪くなった貴也が豪快にツッコんだ。
あたしはぺこっと頭を下げたが勢い余ってテーブルに頭をぶつけてしまった。
ゴン!!と鈍い音がして、一拍遅れておでこの中心に鈍い痛み。
「コントかよ!!!」
「ぶっ…もう、なんなんすか、いったい…」
ユカさん泣いてないじゃないすか、安藤さん。
苦笑いする崎田の息は、だんだん整い始め、こちらに近づいてくる。
まだテーブルの上で貴也に押さえられている腕が、びくっと震える。
貴也は、そんな私をちらっと一瞥しただけで、変わらずビールを飲む。
「ていうか早すぎじゃね?崎田」
「俺の家、会社から徒歩5分っすから」
「へーそいつはいい。じゃ、俺は帰るから」
「へっ!!?貴也帰っちゃうの!!!!!??」
「これ以上俺がすることも、言うこともねえし」
お願いだから帰らないで!!!!とすがる思いで貴也を見つめても、何も響いていないようで、
飲み干したグラスを置いて貴也はちょいちょいと指で崎田を呼んだ。
「あとは、お前が何とかしろ。この女は死ぬほどめんどくせえぞ。覚悟しとけ」
それに、こうやって押さえとかねえとすぐ逃げんぞ。
そう言って、私の腕を崎田に手渡した。
了解っす!オツカレしたー!といつものヘラヘラした笑いを見せる崎田は、何もなかったみたいにいつも通り。
まるで、何もなかったみたいに。
「で、この前のことなんすけど」
そんなわけなかったーーーーーーーーーー!!!
何にもないわけなかった!!
私、こいつのこと避けてたんだった!!!!
「ごめんなさいっ!!!」
謝り倒すしかない。もう考えもまとまらないし、逃げ場もないし、ほかに言う言葉がない!
怒られることを覚悟で頭を下げると、崎田はうんともすんとも言わない。
いつものような軽薄な笑いもない。
恐る恐る頭を上げると、崎田は泣きそうに苦しそうな顔をしていた。
何かを考えているように眉根を寄せて、しかし私のほうをじっと見て、崎田は言った。
「どういう意味?」
「…えっ、と」
「それはこの一週間無視し続けたことに対して?それとも、俺の告白をはずみで受けたことに対して?」
崎田は、すべてわかっているみたいだった。
私の迷いも、ずるさも、そういうどうしようもないところ丸ごと、全部わかっているみたいだった。
「どうしてわかるの…?」
「本当にそうなの!?」
「わかってたんじゃないの!!?」
「わかるわけねーだろ他人の考えてることなんて!!!
ユカさんに一週間無視され続けて、俺がどんだけ悩んだと思ってんの!?
その間死ぬほど考えたんだよ!ユカさんのこと考えて、それだけで頭いっぱいだったんだよ!!」
はー、まじかよ。
そう言うと、崎田は私の腕を押さえているのと反対の手で自分の眉間のあたりを押さえた。
でも、そうなんだ。
私がわからないのと同じように、崎田もわからないんだ。
「わかんねえよ、ユカさんの考えてることなんて。どんだけ考えても、わかんなかったよ。」
今の崎田の表情に、いつもの軽薄なところなんて一つもない、と言いたいところだけど、
平均よりも短い前髪や、細い赤縁の眼鏡や、何気なく来ている部屋着のこじゃれた感じが、
どうしても軽薄に見えてしまう。
「だから、教えてよ、ユカさんの考えてること。あと」
「あと…?」
「俺のこと、本当はどう思ってるのか、ってこと」
やっぱり心読めてない?崎田…。
「怖いの」
「俺が?」
「崎田も、怖いし、何より恋愛ってものが、怖くてしかたないの」
「なんで?」
「あたし、恋愛って、ほとんどしたことないの。23にもなって恥ずかしいんだけど、本当にダメなの。
昔、ちょっとあって、人にしてみれば大したことないっていうのもわかるんだけど、怖いの。
理屈じゃなくて、怖くて怖くていつも逃げ出したいくらいなの。
また人を好きになって、自分の心が自分のものじゃないみたいになって、
しかも粉々に壊れてしまうかもしれないと思うと、そんなに恐ろしいことなら近づきたくないって、そう思っちゃうの。それに…」
「それに?」
「崎田はたぶん、モテるから…」
「俺、モテないよ?」
「嘘だ!」
「いやいや光栄だけども…告白されたことなんか小学校の時に1回きりだし、まあ女友達は多いほうだと思うけど、それはたぶん姉ちゃんの影響だし」
「崎田、お姉ちゃんいるの?」
「いるよ。上に2人。俺なんかよりよっぽど怖えよー姉ちゃんは。百戦錬磨の恋愛ソルジャーって感じ」
「それは、怖いね…」
「そうでしょ。で、肝心のところなんだけど」
無意識にか、意識してか、私の腕をつかむ手の力が、少しだけ強まる。
「俺のこと、本当に怖いだけ?」
私を見つめる、崎田の目の強い力。
目を逸らすこともできない。
私の知らない崎田が、確かにそこにいる。
「ユカさんにとって、俺は、本当に怖いだけの存在?」
貴也の言っていた言葉がよみがえる。
『ユカは、傷ついても損しても、それでも知りたいと思うこと、ないの?崎田に1ミリも興味がないのか?』
「わかんない…」
「考えて」
「考えられない…」
「考えたくない?」
「崎田は、怖くないの?」
「そりゃあ俺だって怖いよ。怖くてちびりそう。ユカさんに告白した時も、足なんかがくがくだったし。
でも、俺は確信があったからね。もう大津波が起こって世界中が洗い流されて世の中がひっくり返っても間違いないってくらいのやつが」
「どんな確信?」
「俺が、ユカさんのことが好きで好きでしかたねえっていう、確信」
この男は、計算してるのか、バカなのか。
そういうこと、さらっというから軽薄に見えるのに。
でも、白けるどころか、私の心臓はドキドキと高鳴っている。
まるで自分のものじゃないみたいに。
「ユカさんが俺のこと、何とも思わないって言うならそれでもいい。邪魔だっていうなら近寄らない。
でももし、邪魔じゃなくて、いないよりはいるほうがいいって、その程度でさえ俺のことを思ってくれるなら」
過去の痛みが、一瞬ぶり返して、私の胸に広がる。
だけど、それは崎田がつかむ右腕のほうへ流れて、ゆっくりと体から抜け出ていった。
残ったのは、冬の夜を走ってやってきた、崎田の手の熱さだけ。
「ユカさんのそばに、いさせてほしい」
何も考えられなくなった頭で、崎田のことを考えた。
頭の中でそこだけ花が咲いたみたいに、明るい。
私は泣いて、自分をつかむ崎田の手に左手を重ね、くぐもった声でうなずいた。
うん。
うん。
ありがとう。
「泣いたって聞いて駆けつけたのに、俺が泣かすとはねー」
どこか満足そうな崎田の声が腹立つ。
こいつの余裕が気に食わない。
でも、私の知らない崎田が、まだまだいるに違いない。
腕の熱さと少しの好奇心が、私を外の世界へ押し出した。
もう戻れない、と思うと、やはり怖い。
だけど、そこには崎田がいる。
私の腕をつかんで離さない、崎田が。