AIの網膜に映らない影
8時間。
ニューラルドープによる浅い意識レベルでの待機状態から、俺の意識はゆっくりと浮上した。発進時の凄まGが嘘のような、完全な静寂と無重力。ポッドの窓の外には、インクを流したような闇に、青く輝く地球の輪郭が浮かんでいた。俺たちは今、高度28キロの成層圏を、音もなく航行している。
『――全員、覚醒しろ』
ユキの鋭い思念が、首筋のレゾスキンを通じてチーム全員の意識を戦闘モードへと引き上げる。
ポッド内の戦術AIが、俺の聴覚神経に直接、冷静な情報を送り込んできた。
《目標エリア、深圳経済特区中心部までの推定到達時間、9分。これより先、敵性AIによる監視パターンの不規則変動を確認。航行モードをレベル3へ移行》
メインディスプレイに、戦術マップと3つの推奨侵入経路(アルファ、ブラボー、チャーリー)が、それぞれの成功確率予測と共に提示される。
《オプション・アルファが最も成功確率が高いと判断されます》
「AIの推奨は合理的だ。だが……」ユキの言葉に、俺は意識を集中させた。俺の役割は、この合理性の裏に潜む、敵AIの“思考”を読むこと。
俺は目を閉じ、《思考同調者》の感覚を研ぎ澄ます。眼下に広がる巨大都市を覆う、敵AI『天網』の広大な意識のネットワーク。その思考の奔流に、そっと自分の意識を同調させていく。
(……おかしい)
AIが推奨するルート・アルファ。データ上は最も安全なはずのその経路が、『天網』の意識下では、まるで蜘蛛の巣の中心のように、静まり返って感じられた。獲物を待ち構えるような、不気味なほどの静寂。
「ユキさん、待ってください」俺は《レゾスキン》で強く念じた。「ルート・アルファは、罠だ」
『何? アキトくん、データ上はクリーンよ!』ナオミさんの困惑した思念が響く。
『俺のセンサーにも異常はない。何を根拠に言っている、アキト』カンザキさんの冷静な問い。
「根拠は……俺の“直感”です。でも、わかるんです。『天網』は、俺たちがその最も合理的なルートを選ぶと“思考”している。そして、そこに全ての意識を集中させている。これは、誘い込み(ルアー)だ」
数秒の沈黙。この作戦の成否が、俺の非論理的な感覚に委ねられようとしていた。
『――わかった』沈黙を破ったのは、ユキだった。『アキトを信じる。アキト、我々が通るべき道を探せ。『天網』の意識の、本当の“死角”を』
「……了解!」
俺は再び『天網』の意識に深く潜る。蜘蛛の巣の、僅かな隙間。思考の流れていない、空白地帯。――あった。事前計画ではリスクが高すぎるとされていた、微弱な『成層圏シアライン(風境線)』。物理的には危険だが、『天網』の意識はそこに向いていない!
「シアラインです! そこを抜けます!」
『正気か!? だが、面白い!』イソベさんの興奮した思念が飛んでくる。
『了解。イオンエンジン、スタンバイ。アキトの“勘”とAIの補正値を統合して、最高のルートを引いてみせる』カンザキさんの思考は、既に実行へと移っていた。
ポッドの外部で、イオンエンジンが微細なプラズマを噴射し、俺たちはAIが推奨しなかった、危険な、しかし唯一の活路へと静かに滑り込んでいく。俺の“直感”が、チーム全員の命運を握っていた。
眼下には、メガシティ深圳の壮大な夜景が広がる。
やがて、イソベさんの驚愕の思念が響いた。
『おいおい、マジかよ…『天網』のドローン編隊が、俺たちのすぐ下を素通りしてやがる…! こっちには気づいてすらいねえ!』
俺の“読み”は、正しかった。
『ステルスバルーン切り離し、10秒前』
『全員、衝撃に備えろ』
鈍い金属音と共に、ポッドはバルーンから解き放たれる。重力が牙を剥き、俺たちは目標地点へと吸い込まれるように、自由落下に近い滑空を開始した。
高度4100メートル。
漆黒のステルスパラシュートが、音もなく夜空に花開く。
眼下には、目的地の研究施設の屋上が、暗い影として浮かび上がってきた。
『周辺ドローン、動きなし…気づかれていないわ。奇跡的ね』ナオミさんの安堵の声。
『……さあ、ショータイムの始まりだぜ』
ほとんど衝撃を感じさせない、猫が闇に降り立つような静けさで、ポッドは目標地点の屋上に寸分の狂いもなく着地した。
『外殻、ナノ分解開始。30秒以内に装備を整える』
ポッドの漆黒の外殻が、微細な粒子となって闇に溶けていく。中から現れた俺たち五人は、音もなく装備を最終確認する。
AIの網膜に映らない影たちが、今、動き出す――。




