第9話:『素朴な梅干しおにぎりと、名を失った導き手』
その料理店に、看板はない。
暖簾もない。名前も、住所も、この世のどこにも記されていない。
ただ、あるのは香りだけ。
炊きたての米と、仄かな塩気の香りが、夜の裏路地を静かに漂っていた。
――それを嗅ぎつけたのは、六十代半ばの男だった。
かつては多くの者を率いたであろう、堂々とした体躯は痩せ衰え、その手には、使い込まれた手帳が握られている。しかし、その瞳には、かつて宿っていたはずの揺るぎない信念の光はなかった。
男は店の扉を見つめていた。いや、目に入ったのは“扉”ですらない。
それは、扉の「ようなもの」でしかなかったのだ。
「……ここか」
答えはなかった。だが、彼は吸い寄せられるように、その「扉のようなもの」を押し開いた。
中には、少女がいた。
白いコックコート。黒檀のような艶やかな髪。まっすぐな、しかし感情の読めない眼差し。
無言で男を見つめ、少女は小さくうなずいた。
「素朴な梅干しおにぎり、一つ」
男が言う。まるで、前からそう決まっていたかのように、力なく。
少女はそれに答えるでもなく、ただ静かに、調理を始めた。
炊飯器の蓋が、カシュッと音を立てて開く。湯気がふわりと立ち上り、米の甘い香りが広がる。
温かい白米が、薄く塩を振られた手で、丁寧に握られていく。真ん中には、真っ赤な梅干しがそっと置かれる。
湯気とともに立ち上る、どこか懐かしい香り。少女の手つきは淀みなく、一切の無駄がない。
「……ここに来たのは、私の導きが、もう誰にも届かなくなったからだ」
男が、ぽつりと呟いた。少女は手を止めない。
「私は、かつて多くの者を導いた。私の言葉に、人々は希望を見出し、未来を信じた。だが、いつからか、私の言葉は空虚になり、私の示す道は、ただの迷路になった……」
男は、握りしめた手帳のページを、指でなぞった。
「……そして、気づけば、私の名は、導き手の名ではなかった。私の後を追う者はいなくなり、私の言葉は、誰の心にも響かなくなった。私の名は、もう私のものではなかった……」
その声は、存在意義を失った者の深い絶望を宿していた。
少女は黙って、湯気の立つおにぎりを、男の前に差し出した。
――素朴な梅干しおにぎり。白い米の中に、鮮やかな赤。
一切の飾り気のない、素朴な一品。
男はゆっくりと、おにぎりを一口食べた。
その瞬間、彼の脳裏から、
「導き手の名」が、すうっと消え去った。
男の目から、静かに涙が溢れ落ちた。それは悲しみでも、絶望でもない、どこか穏やかな安堵に満ちた涙だった。
「……あぁ、これで……もう、何も導かなくていい……」
彼は泣きながら、おにぎりを食べ終えた。温かい米が、乾いた魂に染み渡る。
導きの重荷を失った男が、店を出ていく。
少女はただ、黙って空になった皿を見つめていた。
ふと、壁の奥で、小さく「ユク」と声が響いた。
それが彼女の名だと、知っている者はもういない。