第8話:『清らかな湯豆腐と、名を失った裁き手』
その料理店に、看板はない。
暖簾もない。名前も、住所も、この世のどこにも記されていない。
ただ、あるのは香りだけ。
昆布出汁の清らかな香りが、夜の裏路地を静かに漂っていた。
――それを嗅ぎつけたのは、七十代前半の男だった。
かつては威厳を湛えていたであろう背中は丸まり、その手には、使い古された六法全書が握られている。しかし、その瞳には、かつて宿っていたはずの公正な光はなかった。
男は店の扉を見つめていた。いや、目に入ったのは“扉”ですらない。
それは、扉の「ようなもの」でしかなかったのだ。
「……ここか」
答えはなかった。だが、彼は吸い寄せられるように、その「扉のようなもの」を押し開いた。
中には、少女がいた。
白いコックコート。黒檀のような艶やかな髪。まっすぐな、しかし感情の読めない眼差し。
無言で男を見つめ、少女は小さくうなずいた。
「清らかな湯豆腐、一つ」
男が言う。まるで、前からそう決まっていたかのように、乾いた声で。
少女はそれに答えるでもなく、ただ静かに、調理を始めた。
土鍋の中で、昆布がゆっくりと開いていく。湯が沸き、白い豆腐がそっと沈められる。
湯気とともに立ち上る、混じりけのない香り。少女の手つきは淀みなく、一切の無駄がない。
「……ここに来たのは、私の正義が、もう誰にも信じられなくなったからだ」
男が、ぽつりと呟いた。少女は手を止めない。
「私は、裁判官だった。法と真実のために、生涯を捧げたはずだった。だが、いつからか、私の下す裁きは、私自身の保身や、誰かの思惑に染まっていった……」
男は、握りしめた六法全書を、指で擦った。
「……そして、気づけば、私の名は、公正な裁きを下す者の名ではなかった。判決文を読んでも、それが正しいことなのか、もう分からない。私の名は、正義の名ではなかった……」
その声は、自らの信念を裏切った者の深い絶望を宿していた。
少女は黙って、湯気の立つ湯豆腐を、男の前に差し出した。
――清らかな湯豆腐。白い豆腐が、澄んだ出汁の中で揺れる。
一切の飾り気のない、素朴な一杯。
男は箸を取り、湯豆腐を一口食べた。
その瞬間、彼の脳裏から、
「正義の名」が、すうっと消え去った。
男の目から、静かに涙が溢れ落ちた。それは悲しみでも、絶望でもない、どこか静寂に満ちた安堵の涙だった。
「……あぁ、これで……もう、何も裁かなくていい……」
彼は泣きながら、湯豆腐を飲み干した。温かい出汁が、凍てついた魂に染み渡る。
正義の重荷を失った男が、店を出ていく。
少女はただ、黙って空になった器を見つめていた。
ふと、壁の奥で、小さく「ユク」と声が響いた。
それが彼女の名だと、知っている者はもういない。