第7話:『滑らかな茶碗蒸しと、名を奪われた発見者』
その料理店に、看板はない。
暖簾もない。名前も、住所も、この世のどこにも記されていない。
ただ、あるのは香りだけ。
卵と出汁の繊細な香りが、夜の裏路地を静かに漂っていた。
――それを嗅ぎつけたのは、六十代後半の男だった。
かつては知的な光を宿していたであろう眼鏡の奥の瞳は濁り、その手には、色褪せた学会誌が握られている。しかし、その背中には、かつて世界を変えようとした情熱はなかった。
男は店の扉を見つめていた。いや、目に入ったのは“扉”ですらない。
それは、扉の「ようなもの」でしかなかったのだ。
「……ここか」
答えはなかった。だが、彼は吸い寄せられるように、その「扉のようなもの」を押し開いた。
中には、少女がいた。
白いコックコート。黒檀のような艶やかな髪。まっすぐな、しかし感情の読めない眼差し。
無言で男を見つめ、少女は小さくうなずいた。
「滑らかな茶碗蒸し、一つ」
男が言う。まるで、前からそう決まっていたかのように、諦めきった声で。
少女はそれに答えるでもなく、ただ静かに、調理を始めた。
小さな蒸し器から、白い湯気が立ち上る。器の中では、卵と出汁がゆっくりと熱され、滑らかな塊へと変わっていく。
震えるような繊細さで、表面に気泡一つ立てぬよう、少女は集中している。
湯気とともに立ち上る、優しい香り。少女の手つきは淀みなく、一切の無駄がない。
「……ここに来たのは、私の発見が、もう誰の名にも刻まれなくなったからだ」
男が、ぽつりと呟いた。少女は手を止めない。
「私は、科学者だった。生涯をかけて、一つの真理に辿り着いた。私の発見は、世界を大きく変えるはずだった。だが、ある日、全てを奪われた……」
男は、握りしめた学会誌のページを、指で擦った。
「……そして、気づけば、私の研究は、他の誰かの功績として発表され、私の名は、その論文から消えていた。誰も、私がその真理を発見したとは言わない。私の名は、発見者の名ではなかった……」
その声は、存在そのものを否定された者の深い絶望を宿していた。
少女は黙って、湯気の立つ茶碗蒸しを、男の前に差し出した。
――滑らかな茶碗蒸し。透き通るような表面に、控えめな具材。
一切の飾り気のない、素朴な一杯。
男は匙を取り、茶碗蒸しを一口食べた。
その瞬間、彼の脳裏から、
「発見者の名」が、すうっと消え去った。
男の目から、静かに涙が溢れ落ちた。それは悲しみでも、絶望でもない、どこか静寂に満ちた安堵の涙だった。
「……あぁ、これで……もう、何も証明しなくていい……」
彼は泣きながら、茶碗蒸しを飲み干した。温かい味が、凍てついた魂に染み渡る。
功績の重荷を失った男が、店を出ていく。
少女はただ、黙って空になった器を見つめていた。
ふと、壁の奥で、小さく「ユク」と声が響いた。
それが彼女の名だと、知っている者はもういない。