表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

7/10

第7話:『滑らかな茶碗蒸しと、名を奪われた発見者』

その料理店に、看板はない。


 暖簾もない。名前も、住所も、この世のどこにも記されていない。

 ただ、あるのは香りだけ。


 卵と出汁の繊細な香りが、夜の裏路地を静かに漂っていた。

 ――それを嗅ぎつけたのは、六十代後半の男だった。


 かつては知的な光を宿していたであろう眼鏡の奥の瞳は濁り、その手には、色褪せた学会誌が握られている。しかし、その背中には、かつて世界を変えようとした情熱はなかった。

 男は店の扉を見つめていた。いや、目に入ったのは“扉”ですらない。


 それは、扉の「ようなもの」でしかなかったのだ。

「……ここか」

 答えはなかった。だが、彼は吸い寄せられるように、その「扉のようなもの」を押し開いた。

 中には、少女がいた。


 白いコックコート。黒檀こくたんのような艶やかな髪。まっすぐな、しかし感情の読めない眼差し。

 無言で男を見つめ、少女は小さくうなずいた。

「滑らかな茶碗蒸し、一つ」

 男が言う。まるで、前からそう決まっていたかのように、諦めきった声で。

 少女はそれに答えるでもなく、ただ静かに、調理を始めた。


 小さな蒸し器から、白い湯気が立ち上る。器の中では、卵と出汁がゆっくりと熱され、滑らかな塊へと変わっていく。

 震えるような繊細さで、表面に気泡一つ立てぬよう、少女は集中している。

 湯気とともに立ち上る、優しい香り。少女の手つきは淀みなく、一切の無駄がない。


「……ここに来たのは、私の発見が、もう誰の名にも刻まれなくなったからだ」

 男が、ぽつりと呟いた。少女は手を止めない。

「私は、科学者だった。生涯をかけて、一つの真理に辿り着いた。私の発見は、世界を大きく変えるはずだった。だが、ある日、全てを奪われた……」

 男は、握りしめた学会誌のページを、指で擦った。

「……そして、気づけば、私の研究は、他の誰かの功績として発表され、私の名は、その論文から消えていた。誰も、私がその真理を発見したとは言わない。私の名は、発見者の名ではなかった……」

 その声は、存在そのものを否定された者の深い絶望を宿していた。

 少女は黙って、湯気の立つ茶碗蒸しを、男の前に差し出した。


 ――滑らかな茶碗蒸し。透き通るような表面に、控えめな具材。

 一切の飾り気のない、素朴な一杯。


 男は匙を取り、茶碗蒸しを一口食べた。

 その瞬間、彼の脳裏から、


 「発見者の名」が、すうっと消え去った。


 男の目から、静かに涙が溢れ落ちた。それは悲しみでも、絶望でもない、どこか静寂に満ちた安堵の涙だった。

「……あぁ、これで……もう、何も証明しなくていい……」

 彼は泣きながら、茶碗蒸しを飲み干した。温かい味が、凍てついた魂に染み渡る。


 功績の重荷を失った男が、店を出ていく。

 少女はただ、黙って空になった器を見つめていた。

 ふと、壁の奥で、小さく「ユク」と声が響いた。


 それが彼女の名だと、知っている者はもういない。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ