第6話:『温かい出汁茶漬けと、真実を失った語り部』
その料理店に、看板はない。
暖簾もない。名前も、住所も、この世のどこにも記されていない。
ただ、あるのは香りだけ。
煎茶の香ばしさと、漬物の仄かな酸味が、夜の裏路地を静かに漂っていた。
――それを嗅ぎつけたのは、五十代半ばの男だった。
かつては鋭敏な眼差しを宿していたであろう顔には深い皺が刻まれ、その手には、使い古された取材ノートが握られている。しかし、その瞳には、かつて宿っていたはずの真実を追う炎はなかった。
男は店の扉を見つめていた。いや、目に入ったのは“扉”ですらない。
それは、扉の「ようなもの」でしかなかったのだ。
「……ここか」
答えはなかった。だが、彼は引き寄せられるように、その「扉のようなもの」を押し開いた。
中には、少女がいた。
白いコックコート。黒檀のような艶やかな髪。まっすぐな、しかし感情の読めない眼差し。
無言で男を見つめ、少女は小さくうなずいた。
「温かい出汁茶漬け、一つ」
男が言う。まるで、前からそう決まっていたかのように、諦めたような声で。
少女はそれに答えるでもなく、ただ静かに、調理を始めた。
炊き立ての白米が、丁寧に茶碗によそわれる。その上には、細かく刻まれた海苔と、鮮やかな三つ葉が添えられる。
そして、土瓶から、熱く澄んだ出汁が、ゆっくりと注ぎ込まれる。米粒が出汁の中で踊り、香ばしい湯気が立ち上る。
少女の手つきは淀みなく、一切の無駄がない。
「……ここに来たのは、私の言葉が、もう真実を語らなくなったからだ」
男が、ぽつりと呟いた。少女は手を止めない。
「私は、ジャーナリストだった。ペン一本で、不正を暴き、弱き者の声を拾い上げてきた。真実こそが、私の全てだった。だが、いつからか、書けば書くほど、真実が歪んでいくのを感じた……」
男は、握りしめたノートの表紙を、指でなぞった。
「……そして、気づけば、私の記事は、誰かの都合の良いように書き換えられ、私の言葉は、真実から遠く離れていった。もう、何を書いても、それが真実だとは言えない。私の名は、真実を語る者の名ではなかった……」
その声は、信念を裏切られた者の深い絶望を宿していた。
少女は黙って、湯気の立つ出汁茶漬けを、男の前に差し出した。
――温かい出汁茶漬け。ふっくらとした米に、澄んだ出汁、海苔と三つ葉。
一切の飾り気のない、素朴な一杯。
男は箸を取り、出汁茶漬けを一口啜った。
その瞬間、彼の脳裏から、
「真実を語る者としての名」が、すうっと消え去った。
男の目から、静かに涙が溢れ落ちた。それは悲しみでも、絶望でもない、どこか静寂に満ちた安堵の涙だった。
「……あぁ、これで……もう、何も語らなくていい……」
彼は泣きながら、出汁茶漬けを飲み干した。温かい出汁が、乾いた魂に染み渡る。
真実の重荷を失った男が、店を出ていく。
少女はただ、黙って空になった茶碗を見つめていた。
ふと、壁の奥で、小さく「ユク」と声が響いた。
それが彼女の名だと、知っている者はもういない。