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第5話:『透き通ったお吸い物と、言葉を失った作家』

その料理店に、看板はない。


 暖簾もない。名前も、住所も、この世のどこにも記されていない。

 ただ、あるのは香りだけ。


 昆布と鰹の澄んだ香りが、夜の裏路地を静かに漂っていた。

 ――それを嗅ぎつけたのは、五十代前半の男だった。


 上質なツイードのジャケットは埃をかぶり、その指先は、かつて万年筆を握り続けた名残のように、わずかに歪んでいる。しかし、その瞳には、かつて宿っていたはずの知的な輝きはなかった。

 男は店の扉を見つめていた。いや、目に入ったのは“扉”ですらない。


 それは、扉の「ようなもの」でしかなかったのだ。

「……ここか」

 答えはなかった。だが、彼は吸い寄せられるように、その「扉のようなもの」を押し開いた。

 中には、少女がいた。


 白いコックコート。黒檀こくたんのような艶やかな髪。まっすぐな、しかし感情の読めない眼差し。

 無言で男を見つめ、少女は小さくうなずいた。

「透き通ったお吸い物、一つ」

 男が言う。まるで、前からそう決まっていたかのように、力のない声で。

 少女はそれに答えるでもなく、ただ静かに、調理を始めた。


 土鍋の蓋から、静かに湯気が漏れる。昆布と鰹節から丁寧に引かれた出汁が、琥珀色に輝いている。

 小さく切られた豆腐と三つ葉が、そっと椀に盛られ、熱い出汁が注がれる。

 湯気とともに立ち上る、清らかな香り。少女の手つきは淀みなく、一切の無駄がない。


「……ここに来たのは、私の言葉が、もう誰にも届かなくなったからだ」

 男が、ぽつりと呟いた。少女は手を止めない。

「私は、作家だった。私の書いた言葉は、多くの人の心を揺さぶり、世界を変えたとまで言われた。だが、ある日、気づいたのだ。私の言葉が、誰かの期待に応えるためだけの、空虚な記号に成り果てていたことに……」

 男は、皺の刻まれた手のひらを見つめた。

「……そして、気づけば、私の書いたものは、もう私の言葉ではなかった。原稿用紙に向かっても、何も書けない。書けたとしても、それはただの模倣。私の言葉は、もう私のものではなかった……」

 その声は、創造性を失った者の深い絶望を宿していた。

 少女は黙って、湯気の立つお吸い物を、男の前に差し出した。


 ――透き通ったお吸い物。清らかな出汁に、白い豆腐と鮮やかな三つ葉。

 一切の飾り気のない、素朴な一杯。


 男は箸を取り、お吸い物を一口啜った。

 その瞬間、彼の脳裏から、


 「作家としての言葉」が、すうっと消え去った。


 男の目から、静かに涙が溢れ落ちた。それは悲しみでも、絶望でもない、どこか澄み切った安堵に満ちた涙だった。

「……あぁ、これで……もう、何も書かなくていい……」

 彼は泣きながら、お吸い物を飲み干した。温かい汁が、乾いた魂に染み渡る。


 言葉の重荷を失った男が、店を出ていく。

 少女はただ、黙って空になった椀を見つめていた。

 ふと、壁の奥で、小さく「ユク」と声が響いた。


 それが彼女の名だと、知っている者はもういない。

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