第4話:『優しいお粥と、声を失った歌い手』
その料理店に、看板はない。
暖簾もない。名前も、住所も、この世のどこにも記されていない。
ただ、あるのは香りだけ。
米の甘い香りが、夜の裏路地を静かに包んでいた。
――それを嗅ぎつけたのは、三十代半ばの女だった。
かつては華やかだったであろうドレスは色褪せ、その喉元には、まるで歌いすぎたかのように痛々しい傷跡が走っている。しかし、その瞳には、かつて宿っていたはずの情熱はなかった。
女は店の扉を見つめていた。いや、目に入ったのは“扉”ですらない。
それは、扉の「ようなもの」でしかなかったのだ。
「……ここ、ね」
答えはなかった。だが、彼女は導かれるように、その「扉のようなもの」を押し開いた。
中には、少女がいた。
白いコックコート。黒檀のような艶やかな髪。まっすぐな、しかし感情の読めない眼差し。
無言で女を見つめ、少女は小さくうなずいた。
「優しいお粥、一つ」
女が言う。まるで、前からそう決まっていたかのように、掠れた声で。
少女はそれに答えるでもなく、ただ静かに、調理を始めた。
土鍋から、ふつふつと米が煮える音がする。湯気が立ち上り、米の優しい香りが広がる。
焦げ付かないよう、ゆっくりと、しかし淀みなくかき混ぜる。少女の手つきは、一切の無駄がない。
「……ここに来たのは、私の声が、もう誰にも届かなくなったからよ」
女が、ぽつりと呟いた。少女は手を止めない。
「私は、歌い手だった。世界中を飛び回り、私の歌は多くの人の心を震わせた。でも、ある日、気づいたの。私の声が、人を傷つけ、嘘を塗り固める道具になっていたことに……」
女は、細い指で喉元をそっと撫でた。
「……そして、気づけば、私の歌は誰にも響かなくなった。舞台に立てば、罵声が飛ぶ。歌えば、誰も耳を傾けない。私の声は、もう私のものではなかった……」
その声は、存在そのものを否定された者の絶望を宿していた。
少女は黙って、湯気の立つお粥を、女の前に差し出した。
――優しいお粥。とろりとした米に、控えめな塩気。
一切の飾り気のない、素朴な一杯。
女は匙を取り、お粥を一口食べた。
その瞬間、彼女の脳裏から、
「歌い手としての声」が、すうっと消え去った。
女の目から、静かに涙が溢れ落ちた。それは悲しみでも、絶望でもない、どこか穏やかな安堵に満ちた涙だった。
「……あぁ、これで……もう、何も歌わなくていい……」
彼女は泣きながら、お粥を飲み干した。温かい粥が、乾いた魂に染み渡る。
歌い手の名を失った女が、店を出ていく。
少女はただ、黙って空になった器を見つめていた。
ふと、壁の奥で、小さく「ユク」と声が響いた。
それが彼女の名だと、知っている者はもういない。