第3話:『温かいきつねうどんと、名を失った絵描き』
その料理店に、看板はない。
暖簾もない。名前も、住所も、この世のどこにも記されていない。
ただ、あるのは香りだけ。
出汁の優しい香りが、夜の裏路地を静かに満たしていた。
――それを嗅ぎつけたのは、四十代半ばの男だった。
くたびれたキャンバス地のトートバッグを肩にかけ、指先には絵の具の染みがこびりついている。しかし、その瞳には、かつて宿っていたはずの光はなかった。
男は店の扉を見つめていた。いや、目に入ったのは“扉”ですらない。
それは、扉の「ようなもの」でしかなかったのだ。
「……ここか」
答えはなかった。だが、彼は吸い寄せられるように、その「扉のようなもの」を押し開いた。
中には、少女がいた。
白いコックコート。黒檀のような艶やかな髪。まっすぐな、しかし感情の読めない眼差し。
無言で男を見つめ、少女は小さくうなずいた。
「温かいきつねうどん、一つ」
男が言う。まるで、前からそう決まっていたかのように、乾いた声で。
少女はそれに答えるでもなく、ただ静かに、調理を始めた。
寸胴鍋から、琥珀色の出汁が湯気を立てる。湯が沸き、うどんが投入される。
ジュワッと、甘く煮付けられた油揚げが、出汁の中に沈められる。
湯気とともに立ち上る、どこか懐かしい香り。少女の手つきは淀みなく、一切の無駄がない。
「……ここに来たのは、自分の絵が、もう誰にも認識されなくなったからだ」
男が、ぽつりと呟いた。少女は手を止めない。
「俺は、絵描きだった。名前も、評価も、全て手に入れた。だが、ある日、手が動かなくなった。筆が、キャンバスが、ただの道具に見えた……」
男は、震える手で顔を覆った。
「……そして、気づけば、俺の作品は全て、他の誰かのものになっていた。美術館からも、画廊からも、俺の名前は消えた。誰も、俺が描いたとは言わない。俺の絵は、俺のものではなくなった……」
その声は、存在を否定された者の絶望を宿していた。
少女は黙って、湯気の立つきつねうどんを、男の前に差し出した。
――温かいきつねうどん。透き通った出汁に、ふっくらとした油揚げ。
一切の飾り気のない、素朴な一杯。
男は箸を取り、うどんを一口啜った。
その瞬間、彼の脳裏から、
「絵描きとしての自分」が、すうっと消え去った。
男の目から、静かに涙が溢れ落ちた。それは悲しみでも、絶望でもない、どこか解放されたような涙だった。
「……あぁ、これで……もう、何も描かなくていい……」
彼は泣きながら、出汁を飲み干した。温かい汁が、凍てついた魂に染み渡る。
絵描きの名を失った男が、店を出ていく。
少女はただ、黙って空になった丼を見つめていた。
ふと、壁の奥で、小さく「ユク」と声が響いた。
それが彼女の名だと、知っている者はもういない。