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第2話:『甘い卵焼きと、忘れられた姉』

その料理店に、看板はない。


 暖簾もない。名前も、住所も、この世のどこにも記されていない。

 ただ、あるのは香りだけ。


 出汁と砂糖の甘やかな香りが、夜の裏路地を漂っていた。

 ――それを嗅ぎつけたのは、二十代半ばの女だった。


 流行りの服はくたびれ、化粧も崩れている。スマートフォンの画面には、誰もいない家族写真が映し出されていた。

 女は店の扉を見つめていた。いや、目に入ったのは“扉”ですらない。


 それは、扉の「ようなもの」でしかなかったのだ。

「……ここ、ですか?」

 答えはなかった。だが、彼女は引き寄せられるように、その「扉のようなもの」を押し開いた。

 中には、少女がいた。


 白いコックコート。黒檀こくたんのような艶やかな髪。まっすぐな、しかし感情の読めない眼差し。

 無言で女を見つめ、少女は小さくうなずいた。

「甘い卵焼き定食、一つ」

 女が言う。まるで、前からそう決まっていたかのように、震える声で。

 少女はそれに答えるでもなく、ただ静かに、調理を始めた。


 銅製の卵焼き器が、コンロの火で温められる。ジュワッと油が馴染む音がする。

 溶き卵が、静かに流し込まれる。チリチリと焼ける音。出汁と砂糖が混ざり合った甘い香りが、店内に満ちていく。

 幾重にも折り重ねられていく卵の層。少女の手つきは淀みなく、一切の無駄がない。


「……ここに来たのは、姉の名前が思い出せなくなったからです」

 女が、ぽつりと呟いた。少女は手を止めない。

「私には、姉がいました。優しくて、いつも私を助けてくれた、大切な姉が……」

 女は両手を握りしめ、俯いた。声が、途切れ途切れになる。

「……でもある日、姉の存在が曖昧になっていって。誰も、姉のことを覚えていなかった。家族も、友達も、私自身も……。アルバムから姉の顔だけが消えて、部屋にあったはずの姉の物も、全部……」

 その声は、途方もない喪失感を宿していた。

 少女は黙って、焼き上がった卵焼きを丁寧に切り分け、定食を女の前に差し出した。


 ――甘い卵焼き、艶やかな白米、湯気の立つ味噌汁、そして香の物。

 一切の飾り気のない、素朴な定食。


 女は箸を取り、卵焼きを一口食べた。

 その瞬間、彼女の脳裏から、


 「姉という存在」が、すうっと消え去った。


 女の目から、静かに涙が溢れ落ちた。それは悲しみでも、絶望でもない、どこか諦念に満ちた涙だった。

「……あぁ、これで……もう、何も思い出さなくていい……」

 彼女は泣きながら、味噌汁を飲み干した。温かい汁が、凍えた心に染み渡る。


 姉の記憶を失った女が、店を出ていく。

 少女はただ、黙って空になった皿を見つめていた。

 ふと、壁の奥で、小さく「ユク」と声が響いた。


 それが彼女の名だと、知っている者はもういない。

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