第10話:『温かいおでんと、名を失った信じ手』
その料理店に、看板はない。
暖簾もない。名前も、住所も、この世のどこにも記されていない。
ただ、あるのは香りだけ。
出汁の奥深い香りが、夜の裏路地を静かに満たしていた。
――それを嗅ぎつけたのは、七十代前半の男だった。
かつては多くの民衆を熱狂させたであろう、その顔には深い疲労が刻まれ、その手には、色褪せた演説原稿が握られている。しかし、その瞳には、かつて宿っていたはずの揺るぎない確信の光はなかった。
男は店の扉を見つめていた。いや、目に入ったのは“扉”ですらない。
それは、扉の「ようなもの」でしかなかったのだ。
「……ここか」
答えはなかった。だが、彼は吸い寄せられるように、その「扉のようなもの」を押し開いた。
中には、少女がいた。
白いコックコート。黒檀のような艶やかな髪。まっすぐな、しかし感情の読めない眼差し。
無言で男を見つめ、少女は小さくうなずいた。
「温かいおでん、一つ」
男が言う。まるで、前からそう決まっていたかのように、力なく。
少女はそれに答えるでもなく、ただ静かに、調理を始めた。
土鍋の中で、様々な具材がゆっくりと煮込まれている。大根、卵、ちくわ、そして練り物。
澄んだ出汁が、具材の旨味を吸い上げ、あたりに温かい香りを広げる。
湯気とともに立ち上る、どこか懐かしい香り。少女の手つきは淀みなく、一切の無駄がない。
「……ここに来たのは、私の言葉が、もう誰にも信じられなくなったからだ」
男が、ぽつりと呟いた。少女は手を止めない。
「私は、かつて多くの者に希望を与えた。私の言葉を信じ、人々は未来を夢見た。だが、いつからか、私の言葉は嘘で塗り固められ、私の示す理想は、ただの欺瞞になった……」
男は、握りしめた原稿の端を、指で擦った。
「……そして、気づけば、私の名は、信じる者の名ではなかった。私の後を追う者はいなくなり、私の言葉は、誰の心にも響かなくなった。私の名は、もう私のものではなかった……」
その声は、自らの存在意義を根本から揺るがされた者の深い絶望を宿していた。
少女は黙って、湯気の立つおでんを、男の前に差し出した。
――温かいおでん。様々な具材が、澄んだ出汁の中で静かに息づく。
一切の飾り気のない、素朴な一品。
男は箸を取り、大根を一口食べた。
その瞬間、彼の脳裏から、
「信じる者の名」が、すうっと消え去った。
男の目から、静かに涙が溢れ落ちた。それは悲しみでも、絶望でもない、どこか穏やかな安堵に満ちた涙だった。
「……あぁ、これで……もう、何も信じなくていい……」
彼は泣きながら、おでんをゆっくりと食べ終えた。温かい出汁が、乾いた魂に染み渡る。
信じる重荷を失った男が、店を出ていく。
少女はただ、黙って空になった器を見つめていた。
ふと、壁の奥で、小さく「ユク」と声が響いた。
それが彼女の名だと、知っている者はもういない。
お試し版なので、ここで完結済みにしておきます。