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第1話:『焼き魚定食と、名前をなくした父親』

その料理店に、看板はない。


 暖簾もない。名前も、住所も、この世のどこにも記されていない。

 ただ、あるのは香りだけ。


 焦がしバターと柚子胡椒の香ばしさが、夜の裏路地を撫でていた。

 ――それを嗅ぎつけたのは、五十代後半の男だった。


 スーツは皺だらけで、酒にまみれた体臭が痛いほどに漂う。足元はふらつき、瞳には濁りが宿っていた。

 男は店の扉を見つめていた。いや、目に入ったのは“扉”ですらない。


 それは、扉の「ようなもの」でしかなかったのだ。

「……ここか?」

 答えはなかった。だが、彼は何かに導かれるように、その「扉のようなもの」を押し開いた。

 中には、少女がいた。


 白いコックコート。黒檀こくたんのような艶やかな髪。まっすぐな、しかし感情の読めない眼差し。

 無言で男を見つめ、少女は小さくうなずいた。

「焼き魚定食、一つ」

 男が言う。まるで、前からそう決まっていたかのように、迷いなく。

 少女はそれに答えるでもなく、ただ静かに、調理を始めた。


 炊飯器の蓋が、カシュッと音を立てて開く。湯気がふわりと立ち上り、米の甘い香りが広がる。羽釜から、しゃもじで丁寧に白米がよそわれる。

 次に、魚。銀鱈ぎんだらの切り身が、熱された鉄板の上に置かれる。

 パチン、パチンと油がはぜる音が、静かな店内に響く。香ばしい焦げ付きの匂いが、先ほどの柚子胡椒の香りと混じり合う。

 少女の手つきは淀みなく、一切の無駄がない。


「……ここに来たのは、娘の名前が思い出せなくなったからだ」

 男が、ぽつりと呟いた。少女は手を止めない。

「三年前の事故で、あいつは死んだ。オレは酔って運転してて……助手席にいた娘は……」

 男は唇をかみしめ、鼻をすすった。肩が、わずかに震えている。

「……それで、気づいたら“あの子の名前”だけが思い出せなくなってた。写真も、記録も全部消えた。妻も……オレのこと、もう覚えてなかった」

 その声は、乾いた砂のようだった。

 少女は黙って、焼き上がった銀鱈を皿に乗せ、定食を男の前に差し出した。


 ――銀鱈の西京焼き、艶やかな白米、湯気の立つ味噌汁、そして香の物。

 一切の飾り気のない、素朴な定食。


 男は箸を取り、銀鱈を一口食べた。

 その瞬間、彼の脳裏から、


 「自分の名前」が、すうっと消え去った。


 男の目から、大粒の涙が溢れ落ちた。それは悲しみでも、絶望でもない、どこか安堵に満ちた涙だった。

「……あぁ、これで……これでいい。せめて、オレだけが消える……」

 彼は泣きながら、味噌汁を飲み干した。温かい汁が、乾いた体に染み渡る。


 誰の記憶にも残らない男が、店を出ていく。

 少女はただ、黙って空になった皿を見つめていた。

 ふと、壁の奥で、小さく「ユク」と声が響いた。


 それが彼女の名だと、知っている者はもういない。

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