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ケーキとコーヒー

作者: 秋空 夕子

 ケーキを片手に、私は家へ向かう。

 明かりがついているのを確認し、鍵を差し込めばカチャリと音がする。

 そのことにホッとして扉を開ければ、私が帰ったことに気づいたらしい妻が廊下に顔を覗かせた。

「ただいま」

「おかえりなさい」

 穏やかな声音で迎えてくれた彼女に口元が綻ぶ。

 今はそんな些細なことが嬉しくて仕方がない。

「ケーキ買ってきたよ。あとで一緒に食べようか」

「あら、ありがとう」

 彼女はそう言って微笑みながら私からケーキを受け取り、キッチンへと入っていく。

 その後ろ姿を眺めながら、私は洗面所へと向かった。

 手洗いとうがいを済ませてから居間に入れば、以前と変わっていない光景が広がっている。

 ふう、と息を吐いてソファへ腰掛けて天井を見上げていると、彼女がマグカップを持ってきてくれた。

 それを受け取って一口飲むと、コーヒーの苦味が口に広がる。

「ああ、美味しいよ」

「良かったわ」

 ふわりと笑う彼女の笑顔はいつも通りだ。

 その笑顔を見て、ようやく帰って来たんだと実感することが出来た。

「それじゃあ、ご飯の準備をするね」

「うん、頼むよ」

 妻はそう言うと立ち上がり、もう一度キッチンへと向かう。

 その様子をぼんやりと眺めていると、スマホが震えた。

 誰からだろうと思って画面を見て、そこに表示されている名前に思わす眉間にシワを寄せてしまう。

 妻が傍にいる手前、舌打ちはしなかったが心の中で盛大な溜息を吐き出した。

(全く……もう連絡してくるなと言ったのに……)

 とにかくこの電話に出るわけにはいかないので電源を落としてポケットの中に突っ込む。

「どうかした?」

 不思議そうな表情の妻に対して、「なんでもないよ」と答えておく。

「そう?なら良いけど……」

 それ以上追及してこなかった妻の気遣いに感謝しつつ、またコーヒーを飲む。

 安心して気が抜けたのか、少し眠気が出てきてあくびが出た。

 それに気づいたらしい妻がクスッと笑ったような気配を感じる。

「寝るならベッドに行っていいのよ」

「いや、大丈夫。久しぶりに君のご飯が食べたいんだ」

「……そう。分かったわ」

 私の言葉を聞いて嬉しそうに微笑む彼女を見ながら、私は眠気と闘っていた。

 それからどれほどの時間が流れただろう。

 いつの間にか微睡んでいた私に妻が声をかけてきた。

「ねぇ、あなた」

「んー……どうした?」

「さっきの電話の相手って……もしかして○○さん?」

「……え?」

 重くなった目蓋を持ち上げて妻を見れば、彼女は相変わらず優しい笑顔を浮かべている。

「なん、で……知って……」

 驚きすぎて上手く言葉が出て来ず、パクパクと口を開閉していると彼女はフフッと笑い出した。

「確か、今年入社してきたばかりの若い子よね?どう?楽しかった?世間知らずな女の子をいいようにするのは」

「……っ!」

 彼女の口から発せられる言葉があまりにも予想外で、思考が完全に停止してしまう。

 そんな私に向かって妻は尚も続けた。

「あなたはいつもそう……女は馬鹿な生き物だと思って、平気で嘘をついて、騙して遊んで踏みにじって捨てる」

「ち、違う!俺はそんな……っ」

 慌てて立ち上がろうとしたが、何故か体が動かない。

「その癖、面倒なことが起こるとすぐに逃げ出す……お腹の中の赤ちゃんが死んじゃった時もそう。私が一人で悲しんでいる時にあなたは仕事を理由に家に寄り付かなかった」

「それは……下手に慰めても、君を傷つけるだけだと思ったからで……」

「だから他の女の家に転がり込んでいたのよね」

 妻は相変わらず笑っている。

「今日、ここに戻ってきたのも、どうせ逃げてきたんでしょう?結婚でも迫られた?それとも両親に会ってほしいって言われたのかしら?もしかして、子供ができたとか?」

 彼女の顔からは感情が全く読み取れない。

 まるで仮面を被っているかのように、貼り付けた笑顔のまま言葉を紡ぐ。

「ねえ、わかる?一人で放っておかれて、それでもあなたのことを信じていたのに、結局裏切られてしまった私の気持ち」

「……あ、う……」

 何か言わねばと思うのに何も言えない。

 ただひたすらに冷や汗が流れていく感覚だけが鮮明だった。

「そうやって裏切っておきながら、ケーキを買っておけばそれで私がそれで機嫌が直ると本気で思ってる。本当に、馬鹿な人」

 今すぐこの場から逃げ出したいのに、体が動かない。

 意識が朦朧としていく。

「でも、もういいの……子供ができればあなたが変わってくれる。そう信じていた私が、一番馬鹿だったんだから……もう、いいの」

 妻は優しげな笑みを浮かべたままこちらに近づいてくる。

 その手には包丁が握られていた。


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