村の洋菓子店ホワン
私がギニギル村に来たのは17年前。
馬車の事故に遭い、王都にほど近いプロッドルゴーデン川の下流の沢で倒れていたところを、偶然通りがかったマロアと、彼女のお父様に助けられた。
介抱してくれた上に家まで送ると言ってくださったけれど、私には帰る家がなかった。
いえ、家はあるけれど帰ってよいかどうかわからないというのが正解だった。
このまま一人で大丈夫だと強がる私を見かねて、マロア達は私を半ば強引にギニギル村の家まで連れていってくれた。
マロアのお父様は私がマロアと歳がそれほど離れていなかったこともあって「とても見捨てておけなかった」と後になって話してくれた。
マロアの家は農家で、主に家畜の飼料になる米を栽培していた。
周りの畑のほとんどが小麦や芋などの食用の作物の中で、家畜の餌を生産するのはマロアの家と親族を含め数える程しかいなかった。
そのうち飼料は別の土地で生産される牧草などが国中に安価で流通するようになり、マロア達が作ったものは需要がなくなっていった。
危機感を覚えたお父様は、長年受け継がれた技術を生かし、今度は食用の米を栽培できないかとマロアを連れていろいろな地域を訪れ、調査が一段落したときに私を見つけた。
お父様はようやく見つけた食用の米の苗を持ち帰って育て、栽培に成功した。
けれど収穫した米を小麦のように挽いて粉にし、王都に報告へ行くと「こんなものは食べられない」と門前払いされてしまったらしい。
らしい、というのは、私はその事実を手紙でしか知らないからだ。
酷く悔しい思いをしたお父様が「もっと良いものを作れるように調査をしてから村へ帰る」と手紙をくれたその2ヶ月後、お父様は亡くなった。
運の悪いことに訪れた先で大雨が続き、人の良い彼はその土地の農家の手伝いをしていた。
そして土砂崩れに巻き込まれ、助け出された時には息をしていなかった。
突然の訃報に、信じられない気持ちと悲しみがない交ぜになって、私もマロアもしばらくは脱け殻のようになっていた。
それでも幾度も陽が昇り、沈んでいくのを見る内に、このままではいけないと思い直した。
このまま何もしないでいることは、これまでお父様が苦労して成し遂げてきたことを無駄に捨てるということ。
生きている私達で、私達にできることで、お父様の夢を叶える。
そう決意してから、私とマロアは米の粉で何ができるか試行錯誤を始めた。
パンを作ってみたが、何度やっても米の粉だけでは小麦のパンのようにはならなかった。
パンがダメならとお菓子を作ってみた。
お菓子も初めは小麦のものと同じように作ることができなかったが、私もマロアも諦めずに試行錯誤を繰り返した。
毎日毎日、米の粉を使っていろいろなお菓子を作った。
プレーンクッキー、ナッツや紅茶を入れたクッキー、カスタードパイ、スコーン、スポンジケーキ、パウンドケーキ…
何度も失敗して、色々な方法を試して、ようやく美味しいと自信をもって言えるものが作れるようになった。
そうして、お父様――ホワンが亡くなってからおよそ2年。
私達は村で初めての、米の粉を使った洋菓子店・ホワンを開店した。