エリエ 19歳
身体がばらばらになりそうな痛みだった。実際、僕の左腕は可動域外にへし折れており、骨こそ飛び出てはいないが骨折しているのは明らかだ。頬に砂利が食い込んで痛みを感じる。擦りむいているのだろう。血も出ているかもしれない。
交通事故が起きたのは明白だった。しかし、このご時世になぜ? 相手はアクセル、ブレーキ、ハンドル付きの車でも運転していたとでもいうのか。
足に強い痛みが走って動かせない。僕は首を精一杯動かして、エリエを探した。エリエ、どうか無事でいてくれ。
見回せど、知覚にエリエの姿は見えなかった。どうやらここは、郊外の非生活区画らしい。大きな音がしただろうに、周囲には誰の気配もなかった。
エリエはきっと先に目覚めて、助けを呼びに行ったのだ。そうに違いない。僕は動く方の腕を仰向けになって空を見た。痛みで熱を帯びた表皮に、夜風が涼しい。アンドロメダを探そうとしたが、視界が霞んで何も見えなかった。辺りには街頭もない。月明かりだけを頼りに、目を精一杯動かして、周囲を再度見渡す。
ひっくり返った白の高級車。僕の車だ。その向こうに、大きな有人トラックが横転していた。この馬鹿野郎、と怒鳴ってやりたかった。しかし、それは無意味だ。倉庫か工場と思しき建物に正面からぶつかっているのがわかった。おそらくコックピットは潰れている。
僕は折れた左手を引き寄せた。激痛が走ったが、歯を食いしばって左手首のサイクロを操作し、エリエにコールした。ピッピッ、という電子音の後で、昔ながらのくぐもったコール音が鳴る。1秒、2秒と時間が経過する。応答はない。僕は焦りを感じた。右腕と腹筋だけを使って、激痛に耐えながらひっくり返った愛車に這って行く。この目で見て確かめるまでは、何一つ信じない。科学者の習性だ。エリエ、無事でいてくれ。
アドレナリンが出ているのだろう、車にたどり着く頃には、痛みは誰か他人のもののように感じていた。右腕がびちゃり、と水たまりを踏んだ。水たまりは赤く、一瞬息を呑んだが、それは車内で二人で開けていた飲みかけのワインだと気がつく。
「エリエ」僕は呼びかけた。自分でも驚くほどにかすれて覇気のない声だった。
「エリエ、そこにいるのか?」返事をしてくれ、頼む。事故の衝撃で原型を失ったドアの隙間から、車内に身体を滑り込ませる。暗くてよく見えない。奥に身体をねじ込もうと腕を遠くにつくと、鋭い痛みが走った。ガラスが刺さったのだ。それでも奥へ這い進む。
「……おい、返事をしろ」車内にエリエはいた。気を失っているようだった。こちらを向いている顔が見えた。安らかな寝顔だった。僕は右手を伸ばして、彼女の腕をとって引っ張った。
「しっかりしろ、今から救急車を呼ぶから」喋りながら、起きてすぐ呼んでおくべきだったな、と思った。僕は再度歯を食いしばって左手を引き寄せ、サイクロのライトをつけてエリエを照らした。エリエのケガの様子を調べようとして、違和感に気がついた。エリエは今日、シャツを着ていたはずだ。しかし、こちらを向くエリエの身体の正面に、ボタンはなかった。そこでようやく、僕はエリエの首が、あってはならない方向にねじれてしまっていることに気がついた。
「エリエ……そんな」僕は体中の温度が一気に下がるのを感じた。ようやく、今の状況に恐怖を感じた。呼吸が浅くなる。涙が滲む。いやだ、エリエ、死なせたくない、死にたくない。左手首を引き寄せ、レスキューダイヤルにコールする。すぐに繋がった。
「はい、こちらレスキューセンター。火事ですか、それとも、救急ですか?」
「妹が、死んでしまう、早く来てくれ」僕は声を絞り出した。
「端末から位置情報を特定しますがよろしいですか?」
「あたりまえだ、早くしてくれ!」
レスキュー隊員は続けて何かを話していたが、やるべきことはやったという安心感からか、出血多量のせいか、僕の意識は遠のき始めていて、何を言っているのかが聞き取れなかった。
エリエは助かるだろうか。僕は、助かるのだろうか。僕はまだ、生きてやらなければならないことが、山ほどある。こんなところで、死ぬわけにはいかない。エリエも死なせるわけには……。
宵闇が意識に入り込んでくる。瞼が開いているのかしまっているのかも、もうわからない。痛い、苦しい、怖い。置いてけぼりになっていた感情が一気に僕を捉えた。歯が、かちかちと鳴る。寒い、いやだ、死にたくない。根源的な恐怖から身を守るように身体を縮める。そして、僕の意識は闇に溶けていった。




