#5
壁の中には、街が広がっていた。壁の外側からは廃墟の群れしか見えなかったが、その内側は生命の息づかいで満ち溢れていた。とはいえ、人間のそれではない。飲まず/食わず/交わらず=職務に盲従する擬肢体の三箇条――人類を主として仕える機械の命=擬肢体の息づかい。
街の外縁部にあった個人ネットワークの発信源らしき尖塔を通り過ぎ、メンストリートをゆっくりと進む。壁の内側に入ると、右の視界に個人ネットワークを示す蒼白い文字列が次々と表示され、ごく限定的に配信された違法ラジオの電波を拾ったカーステレオから擬肢体の奮起を促す演説が流れ始めた。
周囲の建物はいずれも天に届かんばかりにそびえ立ち、自己修復ナノマシンを含有した外装は滞ったメンテナンスによってすっかり傷んでおり、メキシコ湾から吹きつける潮風に晒されて赤錆の縞模様を浮かばせていた。
とめどない往来のなか、フォルテは努めて慎重にキャデラックを運転した。自己修復機能を有し、メンテナンス不要の半永久性アスファルトは、まるで前世紀の悪路のように至るところが抉れており、その上を重装甲のキャデラックが通過するたび、抉痕の広がるゴリっという音がした。
フォルテは人混みの外れにある空き地にキャデラックを停車させると、右の視界に浮かぶネットワーク一覧に目を走らせた。全世界を繋ぐ大規模通信網──ネットワーク一覧の最上部に表示されたその名は、使用不可を示す灰色の文字で表示されている。その下にずらりと並んだ街の個人ネットワークを目で追っていくと、最も帯域幅の広い《閉鎖的通信網》という名前があった。
焦点を合わせて選択/瞬きによって確定──社会保障番号による認証の要求が蒼白いモダンなフォントで表示される。19桁もの数列を視線操作によって入力するのは煩雑なため、視覚素子のモードを拡張現実へと切り替え、虚空に浮かび上がった幻影のキーボードを叩いて認証を進める。助手席のアニーからは、何もない空間を指で叩いているように見えているのだろうが、フォルテの視界には確かな質感を持ったキーボードが見えている。脳に埋め込まれた通信因子を持ったナノマシンと、視覚素子を注入した眼によるコンビネーション。
フォルテのような擬肢体なら、生まれながらにしてこれらの機能を実装されているが、生身の肉体を持つ人間の場合、脳の体積増加が止まる5歳になると注射針によって脳漿へ直截的にナノマシンの核が注入される。脳内に宿った核は時間の経過とともに成長・増殖し、10歳になる頃には端末を使わずに通信を行えるようになる。今年で11歳になるアニーも、昨年の春にようやく無端末通信を使えるようになったところだった。
IDを入力し終えると、右の視界に認証完了の通知が表示される。この街の中でのみ有益な情報──街の地図/ニュース/住人たちの掲示板──それらのローカルな情報が、立体的なタブ表示によって次々と浮かび上がり、その中の一つに埋め込まれた映像メディアが自動的に再生された。
《奴らは俺たち擬肢体を破壊し、その生体部品をぶん捕って、同族である俺たちを食い物にしてやがるんだ! 同族である俺たちをだ!》
映像──工事現場用のヘルメットを被った老年の擬肢体が熱弁をふるっている。背後には銅像らしきものが映り込んでおり、画面の外からは同意を示す聴衆の野次が聞こえている。映像が収められた情報タブの上には【注目の話題!】の表示が踊っていた。
男の語調がさらに熱を帯びる。
《武器だ! 俺たちも武器を取って戦うんだ! 街の外に立てられた死のカカシに奴らの死骸を打ち付けてやれ!》
聴衆──熱狂/万雷の拍手/歓呼の口笛が飛び交う。
画面の外──聴取の中/女の声=”倒すべきは、徘徊者だけじゃない。何も言わずに黙々と殺人を行う捕食者たちを忘れちゃいけないわ”
《もちろんだとも、マダム! 奴らも同罪だ。血祭りに上げてやれ! 連中は与えられた命令をこなすことしか能のない暗愚な無人機だ。俺は第五次中露戦争で人間たちと一緒に軍用無人機と戦ってきた。それと比べりゃ、あんな唐変木なんか屁でもねぇ! 今、俺たちを脅かしているのは大気浄化用のくそったれ無人機だ。奴らはめくらだ。動かずに、じっと息を殺してれば俺たちの姿を捉えることはできねぇ。その隙に背後から銃弾をぶち込んでやりゃぁ……ドカーンだ!》
革命家気取りの男が、両手で爆発のジェスチャー。幼稚な仕草に、聴衆たちがふたたび色めき立つ。映像に被さるようにして新たな情報タブが現れ、354年にわたる男の経歴が表示された。
フォルテはうんざりしたように息をつくと、視覚素子の表示をOFFにした。
「なに盛り上がっちゃってんだろーね。バカみたい」
アニーが蔑むように小さく鼻を鳴らし、臀部が露わになったホットパンツのポケットから煙草を取りだして火を付けた。どうやら、アニーも《閉鎖的通信網》にアクセスして同じ映像を見せられていたらしい。
「何度言えばわかる。煙草はやめ──」
「わかってるもん! やめるから!! 絶対! そのうちに‼」
アニーが一節ごとに区切って強調するように言った。それから顔をくしゃくしゃに顰めて舌を突き出すと、勢いよく扉を開け、車外に出て行った。
「おい、どこに行くんだ」
フォルテが慌ててエンジンを切って扉を開け、離れていく小さな背中に向かってボンネット越しに問いかけた。
てくてくと先行していたアニーがぴたりと足を止め、顔だけ振り返って煙を吐き出す。そして、ささくれ立った雰囲気を全身から発散させながら、1ブロック先まで届くほどの大声で叫んだ。
「お腹空いたの‼」
放恣きわまる娘に手を焼く父親のように、フォルテは盛大にため息をつき、足早に少女を追いかけた。
街の中心部には、ひときわ高い尖塔が屹立し、その足元には酸性雨防止ビニールで覆われた市場があった。露店や屋台がひしめき合い、まるで闇市のような様相を呈している。市場の通路は擬肢体たちでごった返しており、あたりはオイルと食べ物の匂いが混じり合った独特の異臭が漂っていた。
屋台に設けられた粗末なカウンターでは、擬肢体たちがホットドッグやハンバーガー、中東風の丼ものといった食べ物を忙しなくかき込んでおり、その光景にフォルテは違和感を覚えずにはいられなかった。どうして、食べる必要のない食事をわざわざ好んで摂取するのか。食し、眠り、排泄する──人間にのみ与えられた自然の摂理を、なぜ擬肢体たちが求めるのか。人間ですら、食事の時間すら惜しい多忙な時には、体調管理ナノマシンを含有した栄養ゼリーで、おざなりに摂食を済ませるという。食事を生命維持の根源に据えた人間ですら、その行為に少なからず煩雑さを感じているのだ。ましてや、その煩雑さとは無縁の擬肢体が、どうして自ら好んでそんな煩わしい行為に手を出そうとするのか、フォルテにはまったく理解できなかった。
人間を模した擬肢体が、より人間に近づくためにその習慣すらも模倣する。人間のまねごと。自分と人間の齟齬を埋めるように、少しでも人間らしさを獲得しようとする──その極限的にプラスティックな発想に、フォルテは嫌悪感すら抱いた。
ニューヨークを出て一月半、フォルテ以外の擬肢体と接する機会のなかったアニーは、鼻歌交じりに意気揚々と市場を進んでいたが、装飾品を扱う露店の前で足を止め、しげしげと商品を眺め始めた。ドラム缶の上に乗った金属細工。ネックレスや指輪、ブレスレットやイヤリングといった商品が煌びやかに並んでいる。その中の一つ──細い鎖のついた金色のイヤリングの上でアニーの目がぴたりと止まった。
「お嬢ちゃん、目が高いのぉ。それは本物の金を30%使った一級の模造品じゃ」
ドラム缶の向こう側で椅子に座っていた男が言った。薄汚れたジャージを着た老齢の男だった。全体的に痩せぎすで、骨張った頬の皮は人工皮膜が剥がれ落ち、中から鋼鉄の頬骨が覗いている。フォルテの左目──人工の眼球に埋め込まれた警護使用の戦闘支援システムが、赤い文字で男の擬肢体に関する情報を表示する。フランク・マクレガン社製、第6世代型アンドロイド。製造年月日は、フォルテのそれよりも半世紀前になっている。生体部品の劣化ぐあいから見て、おそらく400年は生きているに違いない。
「へぇ〜これ模造金なの? 全っ然、そんなふうに見えないね。そうだ、おじちゃん、これ着けてみてもいい?」
アニーがイヤリングを目の前に掲げ、紫色の大きな瞳を輝かせながら訊いた。
「もちろん、もちろん。気が済むまで着けてくれて構わんよ」
男は目を細めてにこやかに応じ、隣に立つフォルテへ目を向けた。
「あんたの娘さんかい?」
「いや、俺はただの警護要員だ。彼女の両親は、ここにはいない」
フォルテが、左目の視覚素子に浮かんだ男の製造情報を眺めながら答えた。
「あぁ、そうだったかい。えらく仲が良さそうに見えたもんだから、俺はてっきりあんたが父親だと思ったよ」
「仲が良さそう? あたしとフォルテが? おじちゃん、それマジで言ってんの?」
ネックレスを着け終えたアニーが、心外だと言わんばかりに眉をひそめた。
店主の男は朗らかに笑ってアニーの追及を受け流し、イヤリングを見て満足げに何度もうなずいた。
「よぉ似合うておる。えぇなぁ、若けえってのは無条件にええもんだ。ほれ、あんちゃんも、そう思うだろ?」
男がアニーへ手を向けて、感想を促した。
アニーがにこやかに微笑んで、その場でくるっと一回転してみせる。光彩を放つ金属のイヤリング。同じくらい眩い輝きを宿した紫色の瞳。ふだんは気怠げなアニーが見せる、年若い少女らしい天真爛漫な笑顔──透き通るような華美。
髪を掻き上げるその仕草──フォルテの脳裏で明滅する過去の情景=深い紫の瞳/大ぶり円形をあしらった耳飾り/甘美な歌声──胸によみがえる彼女の声=”あたし、しくじっちゃったのよね”。
目の前で惨殺され、なぶり殺しにされた最愛の女=VV──1世紀もの間、フォルテの胸を蝕み続けてきた過去。囚われた罪業──拭い去れない後悔/絶望/悔悟。心拍数が上昇し、全身を悪寒が駆け巡る。明滅するフラッシュバック/彼女の最後/フォルテの眼前で、殴られ、刺され、焼かれ、肉塊と化していく最愛の人──全身の人工血管が沸騰し、苦悶の雄叫びが口から零れそうになる。
「……ねぇ! フォルテってば! ねぇ、聞いてんの?」
右手に触れるひんやりとした感覚で現実に返る──目を落とすと、ふくれっ面のアニーがフォルテの手を引っ張って、こちらを見上げていた。不服さと心配が入り交じったような目つき。その瞳の奥から、咄嗟に目を逸らした。
「だ、大丈夫かい、あんちゃん……もし《体内浄化剤》を切らしてるなら、分けてやっても──」
「気にするな。たまに起きる不具合だ。そのうちに治まる」
店主の言葉を突っ跳ねて、市場の通りを歩き始める。じっと止まっていると、また幻覚に襲われそうな予感がした。
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ! コレ買ってもいいよね? ってゆーか、あたしの《ウォレット》残高少ないんだけど!」
背後からアニーの叫び声が聞こえてくる──無視。よろめく足を一歩ずつ前に出し、確実に地面を踏んで歩み行く。まだ意識が混濁していた。
「おじちゃん、コレぜったいにあたしが買うからキープしといて!」
アニーの切実な声──ドタバタと慌ただしい足音が背後に迫る──フォルテの脇からアニーが颯爽と現れ、進路を阻むように眼前で立ち止まる。華奢な両腕を組み、傲然とフォルテを睨みつけ、怒気をはらんだ声で言い放つ。
「ちょっと! シカトしてんじゃねーよ、おっさん!」
こちらを射抜く紫の双眸──目を逸らす/無視。
アニー──憤激/怒号。
「フォルテのバカ! もういいもん! 自分の《ウォレット》で買えばいいんでしょ! どんだけケチなわけ? パパから報酬は貰ってんでしょ? なのに、あたしにイヤリング一つ買うお金も無いっていうの? マジ意味わかんない。しね、ばーか‼」
ありったけの罵声/怒声──往来の擬肢体たちが足を止め、冷ややかに二人を凝視/ざわめきが起こる──無視。
「なんとか言いなさよ! ってか、そのバグ、いったいいつになったら治るの? 家を出るときにあたし言ったよね? ちゃんと検診受けろって。あんたは擬肢体なの! あたしの下僕なんだから、ちょっとくらい言うこと聞きなさいよ! このクソったれ──」
眼前で吼える少女──そのふっくらとした右頬へ、フォルテの左手で目にも止まらぬ速さで打擲──パンという乾いた音/往来のざわめきが静まる/咄嗟に動いた手──利き手とは反対の手──衝動的/無意識に動いた手。猛烈な後悔が込み上げる/初めてアニーの頬を打った己の左手を呆然と眺める──まるで他人の手のような錯覚。痛悔/自己嫌悪──”汚い言葉を使うんじゃない”──お決まりの文句で済ませられたはずだった。ただ、VVと彼女が重なって見えただけ──そんな恣意的で利己的な理由から、アニーに手をあげた。そんな自分に心底嫌気が差した。情けなかった。
思わず謝罪の言葉が口をついて出た──少女のほうをおずおずと見やった/目に映った彼女の様子に、胸が詰まる思いがした。
「最低……もうホンっト、マジで最低……」
アニー──涙声。紫色の瞳から涙が零れ落ち、小さな肩は小刻みに震えている。フォルテが護るべき少女は、屈辱と怒りに泣いていた。その泣き顔を見て、後悔が全身を駆け抜けた。
「なんなのよ……ホント……マジ意味わかんない。家を出てから、アレはやっちゃ駄目。煙草は吸うな。これはやるな。それも駄目……フォルテが口を開いたら、いっつも駄目駄目駄目駄目駄目駄目駄目駄目‼‼ せっかく、パパもママもいなくなったのに……もう誰にも縛られなくてもいいのに……どうしてあたしに命令するの……ホント最低。フォルテなんて、雇わなきゃよかったんだ。あんたは擬肢体なんだもん。代わりなんていくらだって居るんだから……しね、ばーか……」
消え入るような弱々しい声で放たれたアニーの口癖──野次馬が二人の一部始終を見守るなか、アニーはとぼとぼと歩み去っていく。露店とは反対の方向へ。
やがて、哀しみに震える小さな背中が見えなくなった。フォルテは踵を返し、もと来た道をゆっくりと戻り始めた。露店の前に戻り、店主に告げる。
「いくらだ」
「え……えぇーっと……本当は200ドルはもらいたいんだけどね;え……今日のところは──」
事の顛末を目撃していた店主──遠慮がちに/したたかな商売っ気を見せながら。
「いくらなんだ!」
フォルテの怒号──やり場のない後悔と自己嫌悪が苛立ちとなって吐き出される。
「ひひぇぇ──ひゃ、百ドルでいい! 百ドルでいいよ、あんちゃん!」
男が狼狽しきった様子で支払い端末に金額を入力/フォルテの右目に《ウォレット》から代金が自動で支払いされた通知が表示される/錆びついたドラム缶の上からイヤリングを引っ掴み、外套のポケットに突っ込むと、悄然とした足取りでフォルテは店を後にした。
アニーが消えていったのとは反対の方向へ──脳裏では、アニーの涙声がずっと残響していた。