#2
二年前──《大厄災》によって世界中で数百万人が命を落とした。
歴史的寒冷化現象──外気温が一年間で20度以上も低下/前年の異常気象では温暖化によって水不足が深刻化/常軌を逸した寒暖差によって世界中で作物が死滅/あまねく大地は不毛と化した。世界中で暖房が使用されたことによって火事が多発/水を巡って各国で暴動が発生/地球はその寿命を終えようとしていた。
一年半前──国連宇宙局の公表=”世界中の全人口一〇〇万人を《方舟》に乗せて成層圏を離脱。のちに惑星間航行へと移行し、移住可能領域《わし座領域》へと向かうことを合議/決議/採択──決定”。
アメリカ航空宇宙局が温めてきた火星移住計画=通称『プランB』をベースに、《人類移住計劃》を実施/施行。
人類移住計劃──通称=プランB/正式名称=地球規模の大厄災による惑星放棄決議およびそれに伴う神経系への転住計劃。
その詳細──主観時間=移住者の体感時間にして三年後には目的地に到達する予定。
その詳細──先遣隊が第二のホーム=コロニーを建設しており、許容量は問題なし。
その詳細──《方舟》へ搭乗した人類は三年間の凍眠へ入る/第二のホームに到着する直前、覚醒しコロニーへ移住/第二の生を獲得。
その詳細──不測の事態に備え、人口爆弾を用意/各国政府から無作為に選出された健全な男女=20歳以上35歳未満の精子・卵子を抽出/冷凍保存──宇宙環境に適合できず人口が減少したときの予防線。
その詳細──農作可能な土壌が育つまでの間、食糧はナノマシン化合物によって代用。
人類は地球を捨て去った。
あとに残されたのは、ついに生命体と認められることなく主人に見放された大量の擬肢体。
人間と相違ない外見を持ちながら、生命を認めれず、権利も主張できない、機械生命体。
地球に留まった《残留組》──個人的な信条から残った人間/擬肢体/大気浄化用無人機/動物たち/廃墟と化した都市群。
雇い主不在の擬肢体──長年、労苦を強いられ、隷属させられてきた機械たち/主人を喪失し、命令から解放され、得られた自由/地球という箱庭のヒエラルキー、その頂点に君臨すべく互いに力を誇示/相克/反目/対立──”徘徊者”の誕生。
誰がもっとも強いのか──子どもじみた、原初の闘争/逃走本能──街から街へ転々と流浪しながら獲物を探す徘徊者──勝者は擬肢体の生体部品をぶん捕り、自らの肉体/外殻を強化する=流用。
入力された命令を愚直に実行する無人機=大気浄化用無人機=人類が去ってもなお稼働し続ける聾唖の従士──”捕食者”の生誕。
昼間は空を飛翔する無人機/夜半は大地へ降り立ち、《方舟》を拒んだ《残留組》を狩り殺す。
天蓋を覆い尽くす灰色の薄雲──捕食者が散布する大気浄化用ナノマシン群/燦然たる陽光は灰色の雲に遮られ、大地は常に薄暗い。
キャデラックの車内──フォルテ=背後から追っ手が来ないか、バックミラー越しに警戒/夜闇に溶け込む廃墟群=フロントガラスを注視/時速90キロで徐行運転。
どこもかしこもプラスティックな世界──プラスティックな日々=追われ/逃げ続けるだけの空虚な毎日/刷り込まれた命令に従うだけの人生=300年という極大の虚無。
警護仕様に特化/製造されたフランク・マクレガン社製・第七世代型アンドロイド=フォルテ。
深更の荒野を進む──あてもなく。
車内には騒々しいパンクミュージック──大音響。
反骨精神の象徴=アビーの趣味/極めてプラスティックな彼女の生き方/振る舞い方──相反する信条の持ち主=最悪の警護対象。
喧しい車内に意識を戻す──そこでふと気づく/先ほどまで聞こえていたハミングが消えている。
首をひねって助手席へ目を転じる──すやすやと寝息を立てるアビー/ささくれだった少女/ドアに寄りかかり、小さな肩を上下させて安眠/惰眠。
ハンドルのスイッチを押す=自動運転をONに/最大搭乗者数7人分の車内──その後部座席へ移動/だらしなく散乱したアビーのトランクケースからクマのイラストがプリントされた毛布を発見/摘出。再び運転席へ戻り、めくれ上がったTシャツを直してやってから、華奢な身体を毛布で包む。
プラスティックなアビー=一月半前には黒色だった毛髪は今や派手な金色に染まっている/深い紫色の大きな瞳──今は瞼の裏に隠れたその虹彩/脳裏に甦る情景=過去の女。
VV=ヴェルヴェット・ヴォイス=愛した女/警護対象/護れなかった最愛の人。
絹のような肌/艶めく黒い長髪/天鵞絨のごとき妖美な歌声──耳を打つ幻聴=”あたし、しくじっちゃったのよね”。
深い紫色の目──VVの瞳=アニーの瞳──ときおり重なって見える二対の双眸/そのたびに哀切が胸を切り裂く/怒濤のように後悔が押し寄せる。
二度と聴くことのできない歌声──フォルテが喪った”ヘヴィネス”=この世界のどこにもないもの/誰にも与えられないもの/300年の人生に意義をもたらす祝福の輝き。もう手にすることのできないヘヴィな光彩──それは何にも増して崇高で/慈愛に満ちて/綺麗だった。
奥歯を噛みしめる/拳を握る──滾々と湧き出る後悔の波に終止符を打って立ち直る。
愛した女=VVはもう戻ってこない。
自分の失態/長いキャリアの中に染みついたゆいいつの瑕疵。だが、この娘だけは──どうしようもなくプラスティックで/最悪の警護対象であるこの少女だけは、何としても護らなければならない。そのために、今、俺は生きているのだ──震える魂魄/絶対的な宣誓=刷り込まれた命令。
雇い主=アニーの両親/今ごろは《方舟》の中で凍化されているであろう二人。
命令=”この子は私たちの一人娘だ。どんな手段を使ってもいい。必ず守ってやってくれ”。/想起される過去──初めてアビーの家に召喚された日の出来事。
「ああ。わかっているとも、我が主。俺が何としても護ってやる。こんな憎たらしい小娘でもな」
独りごちる──過去への返答。
追想を断ち切るように鳴り響く通知音/自動運転に任せきりだったハンドルを握る/操作権を奪取。
フロントガラスに浮かびあがるフォログラフィック=《長時間の運転が続いています。そろそろ休憩されてはいかがでしょう?》──時代錯誤なガソリン車に組み込まれた拙劣なサポートAI/その提案──無視。
人間を支え、職務に盲従する擬肢体の三箇条=”食わず・眠らず・交わらず”。
およそ生存への配慮を一切断ち切った功利主義の極北──この世に意識を定めてこのかた、フォルテに睡眠を貪る贅沢など許されなかった。
そんな事情も知らない旧世紀のAIを鼻で笑っていたフォルテの視界──右目の端がにわかに蒼い光を帯びた/暗闇の荒野ではなく、フロントガラスに描出された映像でもない。
それは網膜に描写/投影された映像だった。
大気中に散布された通信伝達因子を持つ微細機械群=《エーテル》──脳殻に注入/培養/着床させた生体融着式端末──両者が組み合わさることで実現した非接触・無端末の通信規格=ノン・デバイス・コミュニケーション。
込み上げる疑問──《方舟》が旅立ってから、徘徊者どもの破壊行為で大半のサーバーが死滅した/《クリティカル・ネット》はダウンし、今でも使える接続先といえば個人が運営するネットワーク環境下をおいて他にない。
仮説/推測──ともすれば、誰かの個人ネットワークの帯域に入ったということか。
視界──右側=意味を成さない蒼色の文字列が踊っている/左側=現実世界=前方に広がる暗闇/荒野/人気のないアスファルト。
視線を巡らせる──左側の向こう──遠く離れた場所/一面の暗がりの中で、ぽつんと光る施設らしき何か。
推測/結論──どうやらあれがネットワークの本丸らしい。
ハンドルを握り/アクセルを踏み込む──煌々と輝く光に向かってキャデラックは疾走する。