ゆうれい部員。
部室の床には、本棚に収まりきらない本たちが無造作に積まれていた。
ここは都立相徳高校、文芸部。
お情け程度のちっぽけな部室の真ん中に錆びと痛みが激しい長机が二つ並ぶ。
そして、それを挟んで向かい合う形で2人の男女が、それぞれ本を読んでいた。
季節は冬。厳密に言えば12月の10日。
部屋には慰め程度にしかならない小さな電気ストーブの、ジー……という音だけが聞こえていた。
パタン……
分厚いカバーを閉じた音。
「なるほど……こういう終わり方なのかぁ……」
美少女は少し腑に落ちない表情で呟く。
するとそれを向かい側の席で聞いていた男子がその表情を見て、自分の読んでいた本を閉じ、こう問いかけた。
「もしかして、微妙だったんですか? せっかくの最終巻だったのに……?」
「あぁ、うーん……、なんて言うのかなぁ。別に微妙ってわけではないんだけど……、十七冊も続けてきたのに意外と終わり方は呆気なかったかなぁ、と思って」
そう僅かながらに不満の色を覗かせる彼女は、この相徳高校の三年生であり、この文芸部の部長、雨夜桜歌。
清楚かつ整った顔立ちに、黒いロングの髪が良く似合ういかにも文学少女と言った感じの風貌だった。
彼女が今まで読んでいたのは、今から十七年前にシリーズの一冊目が発売された小説『確信』の最終巻だった。
内容は主人公が探偵で様々な怪事件の謎を暴くという物なのだが、ジャンルとしては『鬼畜サイコパスミステリー』で、毎回それはそれは惨たらしい形で人が死んでいく作品だ。
桜歌は数年前からこのシリーズの大ファンで、わざわざ作家のサイン会にも足を運ぶほどだった。
「それにしても、静かだね」
読み終えた本を長机の上に置き、桜歌は気付いた様に言った。
「まぁ、一応文芸部ですからね」
そう再度事実確認のように返すのは桜歌の向かい側に座る男子生徒、瑛充だった。
彼は桜歌の一学年後輩に当たり、この部の副部長でもある。
「2人っきりだね……」
桜歌はどこかからかう様な笑顔を浮かべて言った。
「一体、なにが言いたいんですか……?」
瑛充が軽いジト目でそう尋ねると、桜歌は「ん? 別に?」と、とぼけた様に言い、小さく微笑んだ。
「はぁ……」
瑛充は少し疲れた様に溜息を落とす。
2人がこの文芸部として活動を始めてから約1年半。当時、部員がおらず休部状態だった文芸部を再建させるため、2人ともそれぞれ帰宅部だった友人に名前を借りて、一応部員は4人になり、活動することになったのだが2人は幽霊部員の為、実質この部屋は桜歌と瑛充2人だけの空間になっていた。
そして立場としては、先輩と後輩。部長と副部長。そして、からかう側とからかわれる側という風に、明白に立ち位置は分かれている。
「さて……」
ふと時間を見て、桜歌は椅子から立ち上がり本棚に向かう。
部室の時計の針は現在、6時を少し回ったところだった。
桜歌は棚から適当に選んだ一冊を取り出し、それを積まれた本たちの上に重ね、開けたスペースに確信の最終巻を差し込む。
「うん……よしっ」
ここは別に誰に見せる予定も無いが、一応桜歌のおすすめ本コーナーになっている。気になるラインナップは主に鬼畜と、サイコパスがほとんどを占めていた。
そして、そんな桜歌の満足げな背中を見て、瑛充は、部室に鬼畜ミステリーを並べてこの人はどこを、どう良いと思っているのだろうか……。と、思ったが本人が楽しそうなので何も言わなかった。
そして、桜歌は本棚を見ていて「あっ」と何か気づいたように一冊の冊子を手に取った。
すると、
「これも、もっと目立つところに置いておこうかなぁ」
少し意地悪な笑顔で桜歌は振り返る。
「あっ、先輩っ! それは……!」
あからさまに瑛充の表情が苦いものへと変わる。
「ふっふっふっ、そうです。この去年作った部誌ももっと目立つところに飾っておこうかなぁ、と思って」
桜歌の手に握られていたのは去年の文化祭の時、顧問に言われて嫌々ながらに2人で作った文芸部の部誌だった。
コレは瑛充にとっては黒歴史以外のなにものでも無い。
確かに、昔から本は好きで読んではいたが、小説など書いた事は一切無く。2人とも本の趣味はかなり違うので、それぞれ好きなジャンルの短編を書き、それを載せることになったのだが、瑛充は試行錯誤を繰り返し一応完成はしたが超低クオリティで恥ずかしいものが仕上がってしまい、今となっては記憶ごと抹消してしまいたいくらいの黒歴史だった。
「ちょっと、先輩っ。変な物を引っ張り出してこないでくださいよ!」
「えぇ、わたしは面白かったと思うけどなぁ~。文章も別に下手じゃなかったし、大きな山場みたいなのは無かったけど、上手くまとまってたと思うし、設定はちょっとパクリっぽかったけど―――わたしは良いと思ったよ?」
「それ、どう聞いたって褒められてないですよね……。というか、元から褒める気は無いですよね」
「えぇ、別にそんなことはないよ?」と、桜歌はあえてわざとらしく言った。
そして瑛充は去年の文化祭を思い返す。
顧問の先生から文芸部は小説を書いて部誌を作るようにと言われた際、桜歌は瑛充と同じく、小説を書くのは初めてだと言っていたにも関わらず、とても学生のしかも処女作とは思えないレベルのミステリー作品を書き上げた。
しかし、文化祭に対し2人ともあまり乗り気では無かった為、部誌は学校のコピー機を使い十冊だけ作られた。
そして一冊の単価を100円に設定し、一冊は部室、一冊は顧問の教師に、そして残りの八冊は早々に売れたことにして2人が買い取り、文芸部の文化祭は終わった。
という訳で、一切世には出回らなかったのだが、もし仮にあの部誌が大勢の人の手に亘っていたとしたらきっと高く評価されていたと瑛充は思っていた。
だからこそ、そんな桜歌から見れば、自分の書いた小説が稚拙に見えるのは当然のことだと思う。
瑛充がそんなことを考える中、桜歌は「あっ」と何か思い出した様にこう付け足す。
「―――でも、ヒロインの女の子はちょっと瑛充くんの好みと願望が入りすぎてて、暴走しちゃってた気もするよね。あの、後輩の巨乳の女の子キャラ」
「え、いや、あれは別に僕の好みとかじゃないですからっ。あれはただ、話の内容的にああいう方がいいと思って……。―――というか、む、胸の大きさなんて一切書いてませんから! 勝手にイメージを捻じ曲げないでください!」
瑛充は少し怒った様に言った。
確かにあの部誌には挿絵などは無く、そういうスタイルについての描写はほとんど無かった。
しかし、桜歌は瑛充の少し慌てた様な反応を見て、
「えぇ、確かに書いては無かったけど……。でも、たぶん、そういうつもりで書いてたと思うんだよなぁ……。ほら、だってわたしくらい色々な本を読んでると、その作者がどういうイメージを持ってるかくらいは分かるし」
桜歌は決して冗談を言っている様子は無く、至って真面目に言った。
―――た、確かに……。先輩の言う通り、あのヒロインは少し胸が大きいイメージで書いてたのは事実だけど……。一体、どうして分かったんだ……。
瑛充がそんなことを考え、内心かなり動揺している中、さらに桜歌は追い打ちを掛ける。
「それに、もし読まなくても瑛充くんの考えてることなんて大体予想がつくよ? だって、瑛充くんは女子もいる部室でえっちな小説を、えっちな顔して読むような男の子だし……」
と、桜歌は目を細め、軽蔑の色を浮かばせた視線で瑛充を見た。
「ちょっと、変な言い方しないでくださいよっ。あれは普通のライトノベルですから!」
「でも、普通の女の子からしたら似たようなものだよ? すごい頻度で裸の女の子が出てくるし。ライトノベルも瑛充くんもえっちだよ?」
「さり気なく、僕まで混ぜないでください!」
「瑛充くんがえっちすぎて警察を呼んだ方がイイか迷っている件」
「ラノベのタイトルみたいに言わないでください……! あと、僕はえっちじゃないです」
「えぇ、だって、いつも胸の大きな子が表紙のラノベ読んでるし」
「べ、別にあれは、偶然ですし、それにいつもってわけじゃ……」
「あと、たまに発情して大きな声で叫んだりするし……」
「そんなこと、したことありませんよ!」
「それに本当にたまにだけど、表紙の女の子を舐めてたり……」
「だから、してませんって! それに、それはもうえっちとかいう問題じゃないですよっ!」
「あと、その流れでわたしまで舐めてきたり……」と、桜歌は疑いのジト目。
「だから、してませんって! あと、もしそれが本当なら迷わず警察呼んでくださいよ!」
そう強く言い、瑛充は「はぁ……」と少し疲れた様に溜息を落とす。
「というか、本の趣味に関しては鬼畜サイコミステリーが好きな先輩に、どうこう言われたくないです!」
そんな言葉が自然と出た。
すると、それを聞いた桜歌は今までと打って変わって、「むぅ……」と明らかに、不機嫌そうになった。
「え、あ、いや、今のはなんというか……」
桜歌の反応を見て、まずいと思い、すぐに弁解しようとするが言葉が詰まって上手く話せない。すると桜歌は、むくぅと可愛らしく膨れたまま、
「やっぱり、本当はそう思ってたんだね……。最初に話した時は、女子が鬼畜やサイコパスが好きでも変じゃないって、言ってたのに……」
「え、いや、あれは別に嘘じゃなくて……」
瑛充は、目下浮気を問い詰められている彼氏の様に分かりやすくたじろいだ。
「嘘つき……」
「うっ……」
瑛充のハートに桜歌のジト目と言葉が突き刺さる。
「えっち……。変態……。人でなし……。音楽の成績は2……。あと、ご飯食べるのちょっと遅い……」
「あの、最後のは悪口ですか?」
うつむき加減で黙って、桜歌の攻撃を受けていた瑛充が少し気になり尋ねてみた。すると桜歌は「うっ……それは……うん、そう。悪口……のつもり……」と小さく返した。
「そ、そうですか……」
そして桜歌は「うん……」と控えめに返す。そして一瞬沈黙が流れたあと、桜歌は、
「と、というか、えっちなのは本当だよっ。だってこの間、決して瑛充くんの好みにはそぐわないわたしの体とか触ったし……!」
恥ずかしそうに自らの控えめなシンデレラバストの辺りを抑える。
「えっ、いや、あれは……!」
瑛充はこの瞬間、一気に自分の顔が熱くなるのを感じた。
確かに瑛充は桜歌の言う通り、桜歌の胸にも少し触れてしまったという動かぬ事実がある。
それは先日『確信』の最終巻が発売される記念のサイン会の日。一人では早朝からの長い待ち時間が退屈だから、という理由で瑛充は話し相手として招集され、待ち合わせ時間の朝6時半。待ち合わせ場所に現れた桜歌に、居眠り運転の大型トラックが迫り、それから助けようとした時に、不可抗力で触ってしまったのだ。
しかし、あの件に関してはあれから一切話に出ていなかったので、てっきり気づいていないのかと瑛充は思っていたのだが、どうやら違ったらしい。
瑛充の表情は一気に暗くなり、「すいません……」と俯いた。
「で、感想は?」
「え?」
「感想次第で、これからの瑛充くんの処遇を考えたいと思います」
「そ、そんな……というか、そんなの覚えてないですよ……」
瑛充は明らかに動揺していたが、それを誤魔化す様にさり気なく視線を外し、言う。
すると、桜歌は少し寂しそうな顔になり、
「へぇ……そっか……。そうだよね……、そんなの覚えてないよね……。そんなの……そんなの……」
桜歌は、そんなの、という部分を強調して繰り返した。そして、視線は自分の貧相な胸元へと向けられ「はぁ……」と大きな溜息を吐く。
「いや、待ってくださいよ。別に、そういう意味で言った訳じゃないですからっ。だから、そのいじけた子供みたいな顔しないでください!」
瑛充がそう声を掛けると、桜歌はまた少し不満そうな顔になった。
「まぁ、もう別に、いいけどっ。それに元から別に体触られたことは全く全然、これっぽっちも怒ってないし」
「え?」
「ちょっと、聞いてみたら面白いかなぁ~、と思って言っただけだし。というか、あれだけ危機迫った状況で、後から体触られたどうこう文句言う人がいたら見てみたいくらいだよ」と、桜歌は早口に告げた。
「あの、僕、そろそろ怒っていいですか……?」
瑛充は額に怒りマークを滲ませ言った。
そして、「はぁ……」と呆れに疲れが混ざった様な大きな溜息を吐いた。
―――ほんと、先輩と話すと毎回こんな感じに、面白おかしくおもちゃにされてる気がする……。
2人はこの文芸部で活動を始めてから、ほぼ毎日この部屋で顔を会せている。
初めはお互いあまりコミュニケーション能力が高いほうでは無いので、若干の距離を感じていたが、次第に話す量も増え、今となっては遠慮もほとんど無く、日常的にこんなやり取りが行われていた。
「あっ、そうだ。じゃあ、こうしようよ。瑛充くんが何か恥ずかしい秘密を何か一つ教えてくれたら、わたしの体に触ったことは許してあげるよ」
桜歌は名案とばかりに大きな瞳を輝かせ、机に前のめり気味に言った。
「ちょっと、待ってくださいよ。許すも何も、全く怒ってないって今さっき言ってたじゃないですか!」
「あ、そっか……。じゃあ、やっぱり怒ってたことにします、はい」
「はい、じゃないですよっ。嫌ですよそんなのっ」
「えぇ、でも一つくらい何かあるでしょ? 瑛充くんのことだから」
「なんか、すごく気になる言い回しなんですけど……」
と、瑛充は前のめりな桜歌に対し、不満げなジト目で返す。
「えぇ、聞きたいなぁ、瑛充くんの秘密」
桜歌はどこか、わくわくと心躍らせる少女の様に聞いてくる。
瑛充はそんな美少女からの真っ直ぐなお願いの視線に、怯んだ様に一瞬黙った。
本来なら、ここですぐに「秘密なんてありませんよ」と言うべきだということは、瑛充も分かっていた。
しかし、そんなわけないのに、桜歌の眼を見ていると自分の考え全てを見透かされている様な気になって、言えなかった。
そう、瑛充はこの文芸部で活動を始める前からずっと桜歌に対して、たった一つだけ、言えずにいる秘密があった。
◆
あれは瑛充がまだこの相徳高校に入学して間もなくの頃。
昼休みに購買部へ行き、そこから教室へと戻る道中の中庭で、瑛充は桜歌に出会った。
人気の少ない中庭の隅のベンチに一人腰掛け、小説を熱心に読む美少女。そして、その足元には散ったばかりの桜の花びらがあった。
そんな絵画の様な光景に瑛充は心を奪われ、その日から気が付くと桜歌のことばかり考える様になっていった。
今になって考えてみれば、あれは間違いなく一目ぼれだったのだと分かる。
それから瑛充は昼休みには、特に用も無いのに何度も渡り廊下を行き来するようになっていた。
そして瑛充は名前も知らない桜歌のことをもっと知りたくなっていた。
しかし、瑛充にとっていくら同じ学校に通っているとはいえ、いきなり美少女に話しかけるというのはあまりにもハードルが高かった。
そこで瑛充はまず初めに自分の存在を認知してもらう為、いつも桜歌が座っている隣のベンチで本を読むことにした。
ベンチからベンチの距離はざっと6メートルほど。
この距離であればきっと、そのうち本好きの男子として認識され、もしかしたら向こうの方から「君も本、好きなの?」みたいな感じに話しかけてくれるかもしれない。
そう思った瑛充はできるだけ、中庭に通い本を読む様にした。
元から本は好きだったし、これはかなりの名案だと思っていた。
しかし、それから一ヶ月程中庭通いを続けたが、桜歌の方から話し掛けてくれることは無かった。
そろそろ間違いなく認知はされているはずだが、きっとシャイで奥ゆかしいタイプなのだろうと瑛充は思っていた。
そんなある日、瑛充がいつもの様に中庭に行くと、2人がいつも座っているベンチに『ペンキ塗りたて 注意!』と書かれた紙が貼られていた。
そして、瑛充これはチャンスだと思い、桜歌が張り紙を見つけたタイミングで、ありったけの勇気を振り絞り、
「今日は使えないみたいですね……」
と声を掛けた。すると、瑛充の声方に桜歌は顔を向け、一瞬黙ると、
「君……だれ?」
と、まるで変質者でも見るような眼を向けられた。
そう、桜歌は毎日、本に熱中するあまり隣のベンチに座っている瑛充の事など気付いてもいなかった。
思っていたのと全く違う反応が帰ってきた上に、ナンパ男の様な視線を向けられ、この時ばかりは消えてしまいたかった。
しかし、それから2人は少しずつ中庭で話す様になり、学校で落ち着いて本が読める場所を求めて、部員がいなくなり休部になっていた文芸部を復活させることになったのだ。
◆
そして現在。時刻は6時25分を回った。
僕は先輩のことが好きだ。
確かに初めは一目ぼれだったけど、一緒に話をして同じ時間を過ごした分だけ先輩のことが、どんどん好きになっていく。
それに、からかわれるのも、もしほかの誰かに同じことをされたら間違いなく、二度と口利かない自信があるけど、相手が先輩ならなにをされたとしても許せる。
それくらい僕は先輩のことが好きだ。
しかし、先輩は三年生。あと半年もすれば卒業してしまい、きっとその後は会うことも無くなってしまう。
だから僕は色々考えた上で後悔しない為に、あの日、10月22日のサイン会の日、先輩にこの気持ちを伝えようと決めていた。
瑛充はサイン会の会場近くで告白に最適な場所を幾つかピックアップして、もし言葉が詰まって頭が真っ白になった時の為にカンニングペーパーと、それも、もし失敗した時の為にと、ラブレターも用意していた。―――準備は万端。
そして、当日の朝。瑛充はあせる気持ちと緊張を胸に待ち合わせ場所へと向かった。
しかし、この日、瑛充が桜歌に自分の気持ちを伝えることはなかった……。
僕はあの日、初めて先輩の泣き顔を見た。
いつもは落ち着いていて、先輩が泣いてる顔なんて想像したことも無かったけど、何度も何度も僕に向かって、「ごめん……」と言いながら、まるで子供の様に泣きじゃくる先輩を見て、僕まで苦しくなった。
そしてこの時、2人には『残り 48日と20時間』という視界の隅の方にふわふわと浮かぶ、デジタル時計の様なものが見えていた。
見る度にその数字は一定のテンポで減っていく。
その数字が何を示しているのか、2人は早い段階で悟った。
その時、瑛充は、この気持ちは桜歌には言わずに自分一人の中に収めておこうと強く心に決めた。
現在2人の視界には『残り 6分』という文字が浮かんでいた。
そして、桜歌から秘密について尋ねられた瑛充は「はぁ……」と浅い溜息を吐いてから、
「僕にはそんな先輩の期待に応えられるような秘密なんてものは無いですよ? 残念でしたね」
喉の奥からそんな言葉を強引にひねり出した。
「ふ~ん、なぁーんだ。おもしろくないなぁ……」
桜歌はそう言って、不満を覚えた子供の様に軽く唇を尖らせた。
「もう、瑛充くん。えっちな上にそんなんじゃ、女の子にモテないよ?」
「いや、あと5分での時点で、もうモテとかどうでも良いですよ」
「あ、それもそっか、確かに」
「というか、僕はえっちじゃないですから」
「あ、そこは最後まで否定するんだ?」
「もちろんです」
瑛充は軽く微笑みながら返した。
そして、桜歌は窓から外を見て、
「うわっ、見て。雪降ってるよ……!」
と、嬉しそうに言い、窓の方へと向かった。
まだ日も登らない、真っ暗な朝の空から、小さな雪の粒たちがゆっくりと降りて来ていた。
桜歌は「おぉ……」と嬉しそうにしばらく外を見てから、
「あと、4分かぁ……」
と、静かに呟き、さっきまで座っていたパイプ椅子を持ち上げた。
瑛充は、桜歌が一体何を始めるのだろうと、不思議そうに見ていた。すると、そのまま瑛充の横までやって来て、「よいしょ……」と椅子を下ろし、
「瑛充くん、となり、座ってもいい?」と尋ねた。
瑛充はそんなセリフに一瞬驚いたが、すぐに、
「え、もちろん、別にいいですけど……」
と、返した。
「じゃあ、失礼します」
桜歌はそう言って、瑛充のすぐ隣に腰を下ろし、それからしばしの間、部屋全体を沈黙がつつんだ。しかし、それは決して気まずい物ではなく、どこか心地よさを纏っていた。
「―――手、握ってもいい?」
桜歌が尋ね、瑛充は一瞬躊躇いはしたが、黙って自分の手を桜歌の手に重ねた。
温かさの様なものは無かったが、瑛充は素直に嬉しかった。こんな時間が永遠に続けばいいのに、そう思った。
「はぁ……怖いなぁ……」
桜歌は瑛充の手を強く握り、震える声で言った。
普段は絶対に瑛充には弱みは見せた事の無かった桜歌の、初めての弱音だった。
瑛充は色々考えてから一言、「ですね……」と言い、手を握り返した。
あと少し、あと少し我慢すればきっと全て消える……。
この今にも押しつぶされそうな怖さも、先輩に対する気持ちも、想い出も、全て……。
それから間もなくして、2人は消えた。
ほんの数秒前まで、確かに2人はそこに存在していた。
しかし、それも数秒前までの話だ。