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はれのひフレグランス

作者: 杜若 倫


 欠伸を噛み殺しつつ、玄関を開ければ快晴の空が広がっていた。

 こたつに引きこもり続けた冬を乗り越え、待ちわびた春の到来を感じる。

 ぴゅうと吹いた朝の風はまだ冷たいが、陽の光はほのかに暖かく、草木も先月よりも緑が濃くなっている気がする。


「今日もいい日になりそうだ」


 言葉にしてみるとますますそのように思えてきて、なんとなくさっきまで見ていたテレビ番組のBGMを口ずさむ。フンフン。


 ガーデニングが趣味の母さんが丹精込めて咲かせた沈丁花の匂いがこれまた気分を良くする。

 新学年も始まりオリエンテーションで潰れた先週とは違って、今日からまた毎週授業があることを考えると気分が落ち込みそうになるけど、こんなに良い気分なら少なくとも今月は頑張ってみよっかな。

 そんな風に考えられるまで今の僕の気分は上々だ。


 フンフンと鼻歌を歌いながら、家の敷地を出る。

 そこでなんとなく幼馴染が住むお隣さんである日比野家を見てみる。


 道路側からも見える位置に設置されたステンレス製の物干し竿に幼馴染がくの字(・・・)になって干されていた。


「ひぃ」


 小さな悲鳴が出た。

 それぐらいショッキングだった。


 嘘。僕は何も見ていない。

 僕は視線を隣の家から引きはがした。


 何も見ていなかったけどもちょっと悲鳴を上げてしまっただけ。

 きっと普段と違った気分だったから何か見慣れないものを見てしまったんだ。


「ねぇええ見捨てないでよ信吾ぉぉ」


 まるで地獄から響いてきたようなうめき声だった。


 まあ僕には何も聞こえなかったんですけどね。


 まだまだ朝礼の時間まで余裕はあったけども、ついつい駆け出してしまったのはすぐにでも学校に行って級友たちと昨日のアニメの感想を話し合いたかったからだ。

 鉄は熱いうちに打て。

 沸いたインスピレーションをすぐに他者に伝えようとするのはオタクの嗜みなのだ。


 ガッシャーン!!


 もはや何も見ていない、何も聞こえていないだなんて言い訳ができないほどの大きな音。

 どきりとした。

 硬質な何かをコンクリートの上に叩き落としたかのような音。


 好奇心だったのか、恐怖心だったのか。

 振り向いてはいけないと分かっていたのに振り向いてしまった僕は、隣の庭先で物干し竿が軒先に転がり落ちていたのと、そこに干されていたはずの幼馴染がユラリと立ち上がる姿を見た。


 昨年度もクラスメートたちから絶賛された黒くて長い美髪は遠目に見てもぼさぼさで、顔を隠している。

 けれども僕は目が合ったと分かった。理屈じゃない。本能だ。


 改めて僕は駆け出した。


「ねぇどうして逃げるのよ慎吾ぉぉおおお!」


 僕の鼻歌はいつの間にかジェ〇ソンのテーマソングに代わっていた。




「ひどいホラーだった」


 息を切らせながら学校に着くことになった僕はお冠である。

 面倒な登校すらも頑張れそうな、せっかくの良い気分をすっかり台無しにされた挙句、早朝ランニングをさせられたのだから当然だろう。

 このやるせない気持ちを、元凶である野乃花にぶつけても本人はケロッとした顔で櫛で自身の髪を梳いている。


「ごめんなさいって言ってるじゃない」

「いーや。ごめんじゃ済まさない。反省してほしい」

「そんなことより私があんなところで干されていたか気にならないの?」

「微塵も」


 気になりません。

 僕のお隣さんは天才気質というか、常人の考えが及ばない意味不明のやり取りを常日頃巻き起こしているのは身を以て知っている。

 どうせ教えられても理解できないのだから気にしてもしょうがない。


「えっ初野君、気にならないの?」


 そんなやる気のない僕の代わりに無駄な労力を割こうと申し出たのは、たまたま僕たちのやり取りを聞いていた、隣の席のクラスメート、立花さん。


「そうでしょそうでしょ立花さん。んふふ慎吾、これが普通の反応だよ。普通はね、人が物干し竿に干されてたら何があったのか気になるものなんだよ」

「…………」


 したり顔をする野乃花の顔にイラっとした僕はその手から櫛を奪い取る。


「慎吾何するのっ」

「黙ってなさい」


 出来損ないの日本人形を黙らせると、奴の真後ろに立ち、奴からは見えづらい真後ろ辺りの髪を梳いてやる。

 ほらまだぼさぼさじゃねえか。

 普段は手入れが面倒だけど大事な髪だなんだ言ってるくせに、こういうとき適当にごまかす癖があるのが気にくわないんだ。

 中途半端はいけない。

 僕は凝り性なのだ。


 黙ってされるがままの野乃花と僕を見て立花さんがはー、と感嘆の声を上げる。


「何か?」

「いーえー、なんでもありませんよ」


 立花さんだけでなく、たまたま近くにいたクラスメートたちも何やら含んだ顔をしている。

 なんだよ言いたいことがあるなら言えよ。


 立花さんの後ろから、野乃花の親友女子がニマニマ顔を隠すことなく話しかけてくる。


「それよりさノノちゃん」野乃花は親しい女子たちからノノちゃんと呼ばれている。「どうして今日はそんな奇行に走ってたの」

「奇行だなんてひどいよ」


 唇を尖らせたのが野乃花のつむじを見ていても分かった。


「あたしが今日ね、わざわざ朝の風が冷たい中、物干し竿に干されてたのはね、ひとえに慎吾のためなの」

「またアクロバティックな責任転嫁だな」

「慎吾ってさ、あたしが今みたいに髪ぼさぼさにしちゃった時、よく代わりに梳いてくれるじゃん。だったらさ少しでも梳いてくれる時に良い思いをさせてあげたいなって前から思ってて」

「まずしょっちゅう人前で髪をボサボサにするなよ女子」

「初野君はちょっと静かに」


 立花さんに注意された。ショックゥ。


「それでね。昨日パパに『女の子の髪を梳くとしてどんな髪だったら嬉しい?』って聞いたら、『いい匂いのする女子』って教えてもらったのよ」


 昨夜、お隣で日比野母が日比野父を折檻する音が聞こえたけど、原因これじゃね? 「ウチの旦那がキモい!」とか聞こえてきたし。


 立花さん含むクラスの女子たちも引いてるが、遠巻きで聞いている男子たちが頷いているのが印象的だった。


 その男女比に僕以外は気づかなかったようで、クラス内戦争は起きることはなかったが、しかし夫婦喧嘩の引き金は引いた張本人の自供は続く。


「じゃあ良い匂いって何だろう、って考えてね。そういえば昔、信吾が干した後の布団とか洗濯物の匂いが好きだーって言ってたのを思い出したの」


 はい。もうすっかりオチが見えてきましたね。

 クラスメートの何人かが、僕の方を見てくるのが非常に鬱陶しい。


「だからアタシからもお日様を浴びて慎吾に良い匂いだねって言われたくて干されてみました。――どうかしら信吾っ?」


 ぐるんと僕の方に向き直った野乃花が、ノンストップでタックルを仕掛けてきた。

 思わず耐え切れずに抱きしめる形になった野乃花からは、確かに陽だまりの匂いがした。


 次の瞬間、頭を床にぶつけて一瞬でそのことを忘れた。



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