愛し子
どんなに寒くなっても、煙草というものはなかなかやめられない。もし家に帰れなければ、寒風吹きすさぶ中を延々歩いてでも、その一服を確保する。実際には、そう熱心に歩かずとも喫煙所があるにはある。が、その狭さといえば、少し余裕のある物置程度しかない。他人の吐き出す煙が充満するそこはどうにも息苦しく、煙草をやめろと言う人々の気持ちも、少しは分かるような気がする。とはいえ、そんな気分でアパートの自室に戻っても、窓枠に凭れてそっと吸い込む煙は美味しいのだから、やはりなかなかやめられない。
部屋中に染み付いた煙草の匂いは、少なくとも三代前の住人からのものだという。その人物はかなりのヘヴィスモーカーだったらしい。彼だか彼女だか、恐らくは男性なのだろうが、その人物が去った後も煙の匂いは柱にまで染み込んで抜けず、根負けした大家は、遂にこの部屋を喫煙者専用とするに至ったのだという。女の子の部屋にはちょっと、と彼女は渋っていたけれど、匂いだけで少しばかり安くされたこの部屋を、私は隅々まで気に入っている。恋人を連れ込むのは少しばかり申し訳なさを伴うが、やはり物好きというのはどこにでもいるもので、「煙草の匂いなんて気にしない」どころか、「むしろ好きだ」などと言って笑うような人もいる。何度も、そして何人もにせがまれて、遂に私は、彼女たちの潜めた呼吸を聞きながら煙草を吸うことが、習慣になった。時折、彼女たちは一口吸ってみたいと私にねだったので、吸いかけのものを彼女たちの柔らかな唇の隙間に差し込んでやった。その半数は咳き込んだが、多くは美味しいと言った。彼女たちのその臆病さが、私は好きだった。カクテルを傾けている時には魅惑的で挑戦的なのに、私が煙草を吸う傍らで、彼女たちは小さな子供のように、私の腕を抱きしめて離そうとしない。まるで、何か不安を忘れようとでもするように。
煙草を吸うのは母親の乳首が恋しいからだ、とどこかで聞いた。母の記憶というものは随分と苦いのだな、と思った覚えがある。今更母の胸などこちらから願い下げだが、確かに女性の胸には形容しがたい魅力が感じられる。その包み込むような優しさは、母性という概念を煮詰めた後の煮こごりのようなものだ。煙草を求める女性の姿は可愛らしく、その一方で、気だるげに煙草を咥えた彼女たちは、言わば既に母の姿をしている。その身の内に隠した消えない炎を、彼女たちは煙草の先にそっと灯す。私はその煙草の煙を深々と肺に満たし、縋り付く子供の手と、柔らかな母の眼差しに溺れて、眠りに落ちていく。
ゆっくりと煙を吐き出すと、宛先のない恋しさがもわりと広がった。もう何週間も、この部屋には私しかいない。
* * *
彼女の名前は、ナナセといった。
ほんの一週間前に行った古本屋で、私が気まぐれに買った古書を、随分と前から買おうとしていたらしい女性だ。当の本を持って店を出たところでナナセは私を呼び止め、その本を貸してくれないか、と持ちかけてきた。訊けば、この本を研究に使いたくて随分と探したが、他の本屋には見当たらず、これが知りうる限りのただ一冊なのだ、と言う。代金は今稼ぎ出している最中なのだと、不安に顔を顰めながら教えてくれた。私はナナセに興味を持った。ほっそりとした顔に、幼さと、そして諦観の様相とが滲んだような女性だった。
一週間の期限でその本を貸し、代わりに連絡先と、一週間後に同じ古本屋で待ち合わせる約束をした。明日、ナナセは件の本を持って、あの古本屋の前に来るだろう。
フィルターのギリギリまでちびた煙草を、灰皿にしっかり押し付ける。
右手がその作業をしている間に、左手は胸ポケットから煙草の箱を取り出し、新たな一本を取り出す。それを右手がつまみ出し、左手は箱を仕舞って、入れ替わりにジッポライターを掴む。かち、と小気味良い音を立ててジッポは炎を差し出し、私は火が付いた煙草を咥える。肺の中に優しさが満ち、それはどこへともなく吐き出されて漂った。部屋の時計は生真面目に時を刻んでいたが、私はそれに応じる気にもなれず、ただ書きかけの原稿があるな、ということを思い出したまでだった。窓の外にはうっすらと影を帯びた曇り空が広がり、寒風が高く低く騒ぎながら吹きすぎていく。
煙草を咥え直し、右手を窓に当てる。
じわりと私の体温は溢れ出し、ガラスを少しずつ曇らせていった。手の平が恐ろしく冷たい。外はきっと、雪が降るような寒さだろう。出掛ける用がなくてよかった。煙草は好きだが、メンソールは好まない。たった一度きり吸っただけで嫌になってしまった。冬になると、出来れば出かけたくはない。とにもかくにも、冷たい物全般があまり得意ではないのだ。紅茶もコーヒーも、出来る限りホットがいい。そこにほんの少しの砂糖と、出来ればミルクも入っていれば最高だ。それがまろやかに喉を伝っていく感覚には、どこか官能的なものがある、と私はいつも思う。
コーヒーでも入れようかと、ガラスから手を離した。持っていた一本をギリギリまで吸いきり、灰皿にしっかり押し付けてから、ふらりとキッチンへ向かう。
ナナセは煙草の匂いを嫌うだろうか、とケトルに水を入れながら思った。ナナセから、煙草の匂いはしなかった。勿論、あの日に限って吸っていなかったということもあるだろう。真相はまだ、分からない。もしもナナセが煙草を嫌わない女性だったら、その時はこの部屋に招待したいと思う。そしてその暁には、ほんの少しの砂糖とミルクを入れたコーヒーでもご馳走しよう。唇の端が、ほんの一ミリ上がった。
* * *
待ち合わせの十八時から、遅れること五分。私は例の古本屋に着き、更にその十分後に、ナナセはやってきた。カーキ色のフレンチコートは何やら高級そうな雰囲気だったが、背負っているリュックサックは三分も街を歩けば容易に見られるようなもので、そのちぐはぐさが何となく面白かった。着くなり、ナナセは遅刻してきたことを詫び、私が先週ここで渡したものを差し出した。全く同じ状態だった。その繊細さを私は気に入った。手渡された袋には本とは異なる感触もあったが、今は訊かないことにした。その代わりではなかったが、出会いの記念に食事でもどうかと誘うと、驚いた素振りも見せずに微笑んで、是非、などと嘯く。断られることなど最初から想定しなかったが、その予想通りの大胆さも、私は気に入った。
同じ通り沿いにある小さなイタリアンで、私とナナセは軽い食事をした。
真っ先に自分で頼んだカプレーゼを見て、あ、パンじゃなかった、とナナセは小さく呟いた。どうやらブルスケッタと勘違いしていたものらしい。ブルスケッタを頼むと、今度はサーブされたそれを見るなり目を見開いて、そっかこっちか、と笑いだした。心底楽しげに、私の目には映った。写真がないメニューの、洒落た曲線を描く文字列を指差しては、これは何、と訊く。私はひとつひとつナナセの質問に答えていった。アペリティーヴォ、アンティパスト、プリモピアット、セコンドピアット、フォルマッジョ、ドルチェ、ベヴァンダ、とひとつひとつ読み上げる。それを逐一繰り返しながら、イタリア語を取ればよかったかな、とナナセは言う。ブルスケッタをつまみ上げて、専門に直結するからと中国語を履修したが、飽きてしまった、などと続けた。私はイタリア語に詳しいわけではなかった。ドイツ語だったら少し分かるけど、と伝えると、へえ、考えとく、とナナセははにかんだ。その表情は照明のせいか少し陰りを帯びて、左の目尻の泣きぼくろが奇妙に寂しげだった。
ナナセは、食後にコーヒーを頼んだ。私もコーヒーを頼み、例の如く砂糖とミルクを入れる。意外、とナナセは笑って、何も加えずにブラックで飲んでいた。何が意外なの、と訊くと、煙草吸う人ならブラックかなって思った、と返ってくる。それはただの先入観でしかなかったが、そんなただの先入観を持っているナナセもまた、酷く魅力的だった。まだ磨かれていない原石を思わせる、不安定さ。強さ。美しさ。そして、影、とでも言うべきもの。それは、まだミルクも砂糖も知らないコーヒーの色をしている。
店を出ると、ナナセは一度だけはっきりと頭を下げて、そのまま踵を返すと、振り返りもせずに行ってしまった。私はその場に佇んで、しばらくその背中を見つめていた。カーキ色の背中はコーヒー色の闇に沈み、角を曲がって見えなくなった。
* * *
一晩よく眠って目覚め、あまりの寒さに床暖房をつけた。指先がかじかんで、上手く力が入らなかった。寒さには滅法弱いのだ。どうにかベッドを抜け出し、寝ぼけながらコーヒーを淹れようとして、ナナセから渡されたものが本だけではなかったことを思い出した。唐突な閃きだった。重く、温かくなったマグを手にキッチンを離れ、昨日帰ってきて放り出したままの袋に手を伸ばす。中身を掴んで袋を引き抜くと、例の古書と、それから、縦長の封筒に入った手紙が出てきた。そこにあった便箋は三つ折りにされ、三枚重なっていて、整ってはいるものの恐ろしく小さい文字が並んでいた。拝啓、に始まる手紙は和式の書き方に完全に準拠していて、追伸はないようだった。
文字を追っていく。表現の仕方は最早無骨とすら言っていいものだったが、独特のリズムを伴って、目に心地いい。作文のセンスがあるようだった。だが、読み進めるにつれて、雲行きが怪しくなってくる。
ナナセは、何を思いながらこの文章を綴っていたのだろう。カフェオレの優しさが喉を伝っていくのを感じながら、私はぼんやりとそんなことを考えた。一文字一文字、読み落とさないように辿っていく。それは、傷口に滲んだ血を拭き取ったような、或いは溢れる涙を拭ったような、そんな紙だった。文字は病み、文面は傷ついている。
もしよかったら、私を飼って。
ふとそんな文字列が飛び込んできて、私は思わず眉間を押さえた。堪らずマグを一旦置き、慌てて煙を肺に送る。吸い込み過ぎたせいか、あっという間にその一本は灰になり、また新たな一本に火をつけた。少しずつ気分が落ち着いてきて、私は四苦八苦しながら、煙草をチェイサーにどうにか全文を読み終えた。昨晩、メニューを指さしながら笑っていたナナセを思い出した。その姿はひどく眩しく、強く、美しかった。しかしそこには、言いようのない影も同居している。磨き上げられる前の原石の、鋭い切っ先。或いはこびりついた岩。それは最も強い輝きを放ちながらも、脆く、欠けやすい。
ナナセの、左の目尻にある泣きぼくろを思い出した。
あれはきっと、彼女の本物の「泣きぼくろ」なのだろう。私の印象が膨らんでいく。泣きぼくろの下のうっすらと温もりの色をした頬、すっきりとした顎のライン、オリーブオイルに濡れた唇、艶かしく蠢く喉元、さらにその下、黒いセーターの下に隠れた白い肌と、その上に並ぶいくつもの……。
コーヒーを、ぐっと飲み下す。
* * *
ナナセに電話をかけた。
話を聞きたいからもう一度会ってくれ、というと、バイトがあるから今日はダメ、と断られた。明日なら夜から空いているというので、私の家の最寄駅の名前を教え、二駅前で連絡を入れるように、と伝える。
ナナセは何も訊かなかった。それでも、ナナセには何もかも分かっているのだろうと、私は理解していた。
明日ナナセは私の家を訪れ、しばらく話をして、それから私は、ナナセの泣きぼくろに唇を落とすかもしれない。そうなれば、ナナセは私に煙草をねだり、私は吸いかけのそれをナナセの唇の隙間に差し込む。朝を迎えたら、砂糖とミルクを入れたコーヒーを飲むだろう。それは優しい温かさで私の喉を伝い、流れ落ち、ナナセの切っ先を撫でて、そこに優しい曲線を描き出すはずだ。
となれば、ナナセをもてなさなければならない。入用のものを書き出してみると、案の定足りないものが多く、私は少し出かけることにした。とはいえ駅前のデパートと、その二本ほど裏にあるスーパーマーケット、煙草屋、その数軒隣にあるコーヒー豆専門店と、四ヶ所も回れば用は足りる。駅までは片道十五分ほどだから、本当に散歩程度のものだった。私はすぐに家を出た。道行く人がみな膨れたように着込み、顔の半分ほどまでをすっぽりと覆い隠しているのが、少し残念だった。それでも買い物は順調に進み、最後に立ち寄ったコーヒー豆専門店では、今日売り出した新商品の試飲までさせてもらった。渋みは少なく、苦味ははっきりと立っていて、私の好きな味だった。その商品の、挽く前のものをひと袋買った。
ナナセはコーヒーミルを見たことがあるだろうか。インスタントのものしか見たことがないなら、それは余りにも寂しいような気がした。ナナセは、もっと多くを知るべきだ。
女性を成熟させるのは、その身の内に取り込んだ多くのものだ。それを彼女たちは受け取って、笑ったり、泣いたり、多くの感情の流れにその角を削っていく。だから、少女が少女たり得るのは、内に受け入れるはずのものを、その前で跳ね返しているからだ。自分の内側を自分自身で満たしているからこそ、彼女たちは、その純粋無垢な鋭さを保ち得る。そしてその鋭さは脆く、折れた欠片は時に、彼女たち自身に突き刺さる。
随分大きくなった荷物をぶら下げて、私はふらふらと家に向かって歩いている。女性たちは受け取ったものを内に吸収していくのに、私はこうして買ったものを両腕にぶら下げて歩いている。恐ろしく厚着をして帽子を深く被り、どこまでも卑屈に背中を丸め、所在無く肩を竦めて……。
私にナナセを飼うことは出来るだろうか?
* * *
ナナセから連絡が来たのは、二十時を少し過ぎた頃だった。真っ赤なマフラーと帽子、手袋をつけて、随分大きなリュックサックを背負っている。それはやはり、顔の下半分をすっぽりと覆っていた。行こうか、と声をかけると、ナナセはただ頷いて、私の心持ち後ろについてきた。その速度は緩慢だった。私もまた、ゆっくりと歩きたい気分だった。
何も食べたくないんだ、と歩きながらナナセは謝り、それから、もし構わないなら私の好きにさせて、と、消え入りそうな声で続けた。私が小さく頷くと、ナナセは目元だけでにっこりと笑って、それから、私の手を取った。手を繋いだまま、ゆっくりと夜の街を歩いていく。ナナセも私も、何も話しかけようとはしなかった。その沈黙は、どことなく神聖な雰囲気を帯びていた。これはきっと、何かの通過儀礼なのだ。何かが変化していく、その瞬間なのだ。寒さの中を早足で進む人々、その流れから外れたところを、私とナナセとは歩んでいた。見慣れた街並みの平凡さが、吐息のように薄れ、消えていく。あっという間に、私のアパートが見えてくる。
どこか浮いたような感覚の中で、無機質な階段を上がり、錆びた扉を開けた。私は先に入った。ナナセがその後から入ってきて、丁寧に扉を閉めた。扉を閉めるなり、ナナセはリュックサックを無造作に置き、俯いたまま、ベッドに腰掛けるよう私に指示した。言われるがままにそうすると、ナナセはまるで自分の部屋のように、今しがたつけたばかりの部屋の電気を、一息に全て落とした。何も、見えない。家具や延長コードの配置は分かっても、そこにいるはずのナナセは、見えない。見えないどこかから、衣擦れの音がする。
煙草を吸って、とどこかから声がする。
シャツの胸ポケットから、箱とライターとを取り出した。最後の一本だった。ライターの炎は明るく、煙草の先に残る熱は淡い。唇の間に挟んでゆっくりと吸い込み、煙を肺に送り込んで、それから溜め息のように吐き出す。体の強張りが、ふっと溶けていくのが分かる。
眠りにつきそうなほど、深く静かな呼吸。その向こう側に、ひた、ひたと、一歩一歩足元を確かめるような、押し殺した足音が聞こえる。やがて、ベッドが右側に沈み込み、それは軋む音と共に、私の背後に回った。そして、酷く華奢な両腕が私の肩の上を過ぎ、胸の前まで降りてきて、つと止まった。服越しに触れてくるナナセの右手は、恐ろしく冷え切っていた。私の右胸をなぞり、右肩をなぞり、右腕をなぞり、私の右手首を掴む。淡く光るそれはゆっくりと導かれていき、私は振り返る。
ナナセは、私が持ったままの煙草を咥えた。
微かな光に照らし出されたナナセは、まるで熱に浮かされたような目をしている。ふう、と吐き出された煙は私の顔に当たり、ほわりと広がって、私とナナセとを包み込む。拡散する煙の中で、ナナセは私の手を引いた。淡く光る煙草の先端は、そのまま、ナナセの胸元に吸い込まれていく。私は逆らうことなく、その軌跡を見つめていた。
光が、消える。
短くなりそこねた煙草が、無理やりに押しつぶされて、醜く短くなった。ナナセが小さく呻き、手首を掴む力が引きつったように強くなる。奇妙な匂いがした、ような気がする。
背筋に走った、震え。
ナナセの右手が、するりと離れていった。
私はナナセを抱きしめ、煙草の触れていたそこに、私の唇を押し当てた。ナナセは強く体を仰け反らせ、やがて、震えを伴った息を、長々と吐いた。それは、官能的な振動となって私を撫で、それに導かれるように私は、離した唇を、ナナセのものに重ねた。ナナセのくちづけは甘かった。ナナセは煙草を吸わない人間なのだと分かった。ナナセが跳ね返していたものを私は知り、その内に受け入れていたものを私は知った。ナナセは泣いていた。その涙の温かさを、私は自分自身のうちに受け入れたいと、そう願った。
私はナナセの頭を抱き、そして、そのままでいた。
* * *
嫌な夢だった、と言ってもいいかもしれない。思い出せば、ため息が出る。目覚めると、隣にナナセはいなかった。その静かな寝息の代わりに、洗面所の方から水音がしていた。私は、何も聞こえなかったことにした。
ナナセはその後、決して照明をつけようとはしなかった。だから、実際のところは分からない。けれど私は昨日、暗闇の中でナナセの体をなぞり、その曲線を辿り、ひとつひとつに唇を落としたことを覚えている。新しい箱を開けて交互に煙を吸い込み、吐き出し、限界までちびたそれを、彼女の体に落としたこと。その、奇妙に波打って強ばった皮膚の、つるりとした感触。覚えている。それは、紛れもなくナナセの傷だった。ナナセ自らが、その手で刻みつけた傷だった。
人から愛されることを、求められることを、心の底から求めた少女は、成熟した女性になろうとはしなかった。それどころか、少女は自らに傷を刻み、自ら壊れていくことで、狂っていこうとした。或いはそのまま、人で無くなろうとした。
今、ナナセはコーヒーを淹れている。
薬缶で沸かした湯を、フィルターに盛ったコーヒー豆に、ゆっくりと注ぎ込む。静かに立ち上る香りは、目には見えないながら、確実に私の鼻腔をくすぐった。家中に染み付いた煙草の匂いと相まって、それは、いつも通りの朝の訪れを演出する。それがいつも通りでないことなど、既に知っている。
私はベッドに転がったまま、ほとんど無意識にサイドボードに手をやった。灰皿を引き寄せがてら、取り出した煙草に火をつける。体は布団の中で温かかったが、唇だけがどうにも寒いように思われた。吹き上げた煙は広がり、私の視界を優しく覆う。唇は、冷えたまま戻らない。
もしも煙草が母の愛なら、ナナセの傷は、何なのか。そして押し当てられる煙草が母のくちづけなら、私がそこに落としたのは……。
あれは、本当に嫌な夢だっただろうか。
あの時感じた震えは、ナナセが傷つく度全身を揺さぶったその震えは、本当に嫌なものだっただろうか。
そこには何か、何かしら異質なもの、それは例えば、快感、のようなものが、混じってはいなかったか。
ナナセを傷つけるという行為に、私はどこか、快感を覚えていた。のでは、ないか。
それらの推測は、疑問符の形をした追及は、私を酷く不安にさせた。そしてまた、同時に、私をどこかで納得させたような気もした。その親しさは、遠い昔に聞いた歌のワンフレーズにも近いものだった。きっと私は、それを知っていた。
女性としての彼女たちが、子供のように甘えるのを、私は好んだ。ナナセは、私に飼われたいと言った。美しくも幼く、理性的でありながら無邪気。私に心から愛されたがり、また私を心から愛してくれる、そんな存在が現れたなら、私が惹かれないはずがない。何故なら、私もまた、愛し愛されることを望んでいたのだから。彼女の愛が痛みの姿を取るなら、私の愛もまた、痛みの姿を取っていけない謂れがあるだろうか。私は彼女に愛を与えねばならないのだ。それはさながら、母が子に食事を与えるように、親鳥が口にのたくる虫を突っ込み、雛鳥がそれを嬉々として飲み込むように――――。
ナナセがコーヒーを運んでくる。ひたり、ひたり、と足音がする。
これを飲み終えたら、ナナセの首に似合う、チョーカーを買いに行こう。コーヒーのように黒い、私のナナセによく似合う首輪。ナナセは多くを知るべきだ。まろやかな甘味に笑い、焼ける苦味に咳込み涙を零しながら、私を愛し、私を啄んで、そして。
そして。