メイストリームデー
去年の5月に書いたものをちょこっと手直しした物ですので、季節?外れです。
「あのさ、」
いつもの部屋で、
いつものコーヒーを飲みながら。
「別れてほしいんだけど」
いつもと違う、言葉を聞いた。
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「え、あ」
「それと砂糖もう少し入れて欲しい」
「あ、うん」
いつもと同じ声の調子に、戸惑いを隠せない。なんだかよくわからないままに、キッチンに行ってシュガースティックを鷲掴み、それから慌てて元に戻して、一本だけ持って行く。
そっと、手元にそれを置いてから、それから、何とか声を絞り出す。
「今、なんて・・・?」
「砂糖ありがと。今日は帰り遅くなるから。それまでに考えておいて」
こちらをちらりとも見ずに、乱暴に砂糖をカップに入れて、かき混ぜもせずに、そう言った。
シャワーから上がって、濡れた髪を乾かすのも忘れて、ただ呆然とその言葉を聞いていた。聞いていたというより、耳を素通りするみたいだった。
「じゃあ、先に行くから」
いつの間にかコーヒーを飲み終えた彼女はそう言ってさっさと出て行ってしまった。
そこにぽつんと残されたカップの底には、まだ溶け切らない砂糖が溜まっていた。
******
朝の講義には少しだけ遅刻してしまったが、そんなに出欠にうるさい教授ではないので、後ろの方の席でぼーっとホワイトボードを眺めていた。教授の言葉も、周りの生徒たちのざわめきも、何一つ頭に入ってこない。
この講義が終わると、午後まで予定がない。どうせなら今日一日、サボろうかとも考えたが、今までそんなことしたことなかったし、サボったところで何をしていいのかわからなかったのでやめた。
ただ、どちらにせよ時間を持て余すことになりそうだ。
「由樹、お前大丈夫か?」
学生用のテラスで廊下を行き交う人たちを眺めているところに、上から声が降ってきた。
「陽介・・・大丈夫って、何が?」
顔を上げれば、心配そうに見下ろす顔があった。大学に入ってからゼミが一緒で、なんやかんや遊んだりする、友人の顔だ。
「真面目なお前が講義遅刻してくるし、話聞いてんのか聞いてねーんだかぼーっとしてるし、心配するだろ」
どかっと向かいに座った彼はそう言って頬杖を付いた。
「心配か・・・。朝、ちょっとね。ゆうちゃんに言われたことが、よくわかんなくて」
素直に朝の出来事を友人に話す。陽介は、眉間にシワを寄せたり、首を傾げたり、上を向いたり唸ったりしながら、話を聞いていた。
「突然だったし、聞き間違いかもしれないんだけど・・・聞き間違いじゃないとしたら、どういう意味かな、って」
「由樹ぃ、お前本当にわかんないの?」
友人は訝しげな顔を向けてきた。
「お前ってさ、頭いいけど、そういうところ抜けてるっていうか…わかんねぇんだな」
「別に頭は良くないよ。陽介の方が、なんか色々知ってるじゃん」
いつも相談に乗ってくれるし、とは言わずに心に留めておいた。なんとなく。
「夕菜はさ。言った通りのことをしてもらいたいだけだと思うぜ?」
ー別れてほしいんだけど
朝のゆうちゃんの言葉がゆっくりと頭の中で繰り返される。
「えっと、言った通りのこと?それって、寮で同室なのが嫌だから部屋を変えたいとか?でも今の時期になったらもう多分無理なんじゃないかな」
「いやいやそうじゃなくて」
「なんか、なんか悪いことしたかな・・・」
「だから違うっつの!」
パシンっと、パニックになりかけた頭を軽く叩かれる。少しだけ戻ってこれた。でも違うって何が?
「はぁ。マジ言ってんのか?要は、一ノ瀬と別れてくれってことだろ?」
和哉と?
「なんで?」
ますますわからなくなってきた。
******
はぁあ。と大きな溜息が向かいから聞こえた。
「でもま、ちょうどいいんじゃねーの。最近ロクに会ってないんだろ?」
「それは・・・向こうは社会人だし、忙しいから」
「ちなみに明日は何の日か知ってるか?」
「明日?5/13でしょ?5月の祝日はだいたい終わったと思うけど」
はぁあ。
また溜息。幸せが逃げる音。
そんなに呆れられることなんだろうか。
「祝日じゃねーけどな。メイストリームデーって言って、別れ話をするのに最適な日なんだよ」
「なんで?」
「んー、と、あれだ。八十八夜の別れ霜ならわかるか?」
「その年最後の霜が降りる日でしょ?」
「多分それ。それに引っ掛けて、バレンタインデーから88日目の5/13を、メイストリームデーっつって、別れ話をしても後腐れなく・・・って日なんだと」
やっぱり私なんかより物知りな気がするんだけどなぁ。
「付き合ってんだか付き合ってないんだかわかんねぇんなら、別れちまえよーぅ」
確かに、最後に会ったのがいつかも、正確には思い出せないけど。
相手は忙しいし、仕方ないって思ってたし。
でも、急に別れる、なんて。
「んー、やっぱりなんでゆうちゃんがそんなこと言ったのかわかんないや」
はぁあ。
聞こえる溜息に、そろそろ謝らなきゃいけないかもしれないなんて思ってしまう。
「んなもん、同じ部屋に居るんだから直接聞けばいいだろ」
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時間を持て余す、という予想は溜息の多い友人のお陰で外れた。午後の講義にも、しっかり出席はした。ただ、やっぱり頭の中には何も入ってこなくて、気が付いたら全部終わっていた。
「ーただいま」
21時を回る頃、ルームメイトが帰ってきた。おかえり、と声を掛けるけれど、いつも通りの声が出せたかわからない。
「ゆうちゃん、ご飯食べてきた?」
「うん」
「じゃあお風呂入る?」
「明日朝入るからいい。もう遅いし」
「あ、そっか。じゃあ私ちょっと入ってくるね」
一緒にお風呂に入りながらだったら、色々お話出来るかと思ったんだけどな。朝に入るとは予想外。いや、普通はそうするかな。
パタパタと支度をしている私の背中に声が掛かる。
「由樹、まだ入ってなかったの?」
「そうなの。ゆうちゃんと入ろうと思ってね?」
「・・・今日遅くなるって言ったけど」
あれ?怒らせちゃったかな・・・
やっぱり、私と同室なのが嫌だったりするのかな・・・
「うん、遅くなるって言ってたからさ。遅くに1人で入るの嫌かなぁって、思って。でも、そうだよね、朝でも入れるもんね」
にへら、といつも通りに笑ったつもりだった。でもなんか、ちょっと変で。泣き笑いというか、困り顔というか、なんかダメだった。
自分で気が付いて、慌てて下を向く。
「だから、ちょっと。お風呂、行ってくるね!」
タオルや着替えなどを抱えて、半ば顔を隠すようにそう言った私の腕を、細い指が掴む。
「一緒に、行くよ。遅くに1人で、入りたくないでしょ」
こちらを見ずに、ルームメイトはそう言った。この時私が、自分の顔を隠すのに気を取られていなければ。
ゆうちゃんの顔が、頬が、いつもより赤いのに気が付いたかもしれない。
******
気まずい。
お互いに、無言のまま髪を洗って、身体を洗って。
そして無言のままに湯船に浸かる。
「あ、あのさ」
勇気を出して声を掛けるけど、相変わらずこっちを見て貰えない。
「朝、ゆうちゃんが言ってたことなんだけどね」
無言。
「あの、陽介に相談したんだけだけど・・・」
「はぁ!?」
おずおずと話をする私に、初めてゆうちゃんは反応を示した。すごく恐い顔でこっちを見てるけど。
「ご、ごめん。駄目だったかな・・・?」
思わず謝ると、また顔をそらされてしまった。
何か言わなきゃ…?
「ちょっとさ、意味がわからなかったの。ごめんね…だから、相談したんだけど。その」
ゆうちゃんは黙って聞いてくれてる、みたい。
「明日、和哉に話をしようかなって。思って」
「え・・・」
「ずっと先延ばしに、してたから」
ざばぁ、と音が立つほどに勢い良く、ゆうちゃんが立ち上がる。不思議そうに見上げる私に、何も言わずに彼女は浴室を出て行った。
******
部屋に戻ると、とても静かで、誰居ない部屋のようだった。ルームメイトはもう寝てしまったのだろうか。
湿った髪をそのままに、ドライヤーはうるさいかもしれないと思い、机の前に座り込む。
手に持ったスマートフォンの見つめて、指先が、画面に触れたり触れなかったりしつつ、迷っていた。
目と画面に映っているのは、ひとつの連絡先。『一ノ瀬 和哉』
メールは苦手だ。表情がうまく伝わらないから。すれ違って、勘違って、間違ってしまうから。
呼吸を整えて、受話器マークをタップする。一瞬の沈黙、響く呼び出し音。
一回、二回、と呼び出し音が続く中、妙に自分の鼓動がうるさい。
「はぁい?」
「え・・・あ、れ?」
スマートフォンの向こうからは、聞き慣れない女性の声。喉が張り付いたようになって、うまく声が出ない。なんだろう、誰?
がさ、がさっと向こうから音がして、やがて聞き慣れた声が響く。
「由樹?すまない、驚かせたか。仕事が立て込んでてな、まだ職場なんだ。席を外してる間に同僚が出てくれたらしい」
妙に、急いたような声だ。それに息が切れているのを、抑えているというか隠しているような。
「個人携帯を、職場の人が勝手に出るの・・・?」
「今の取引先で、こっちに連絡してくるところがあるんだよ」
「社用携帯があるのに?そもそも、私の名前表示されるはずだよね?取引先って、だからって、他の人が出るの?」
向こうは、淡々とした口調で平静を装ってる。私は、徐々に声が震え出すのを止められない。
「色々な、職場の方にも事情があるんだよ。学生のお前にはわからないかもしれないけど」
その言葉に、
プツンと何かが切れた気がした。
「そう、そうだよね。ごめんね、忙しいのに。明日、話したいことがあるから、少しでいいから時間作って欲しかったの」
「なんだ、そんなことか。メールで良かっただろう」
「そうだね、ごめん。口で言った方が、早いかと思って」
「明日なら、そうだな。仕事が終わったら連絡するよ」
「わかった。待ってる」
「ああ、それじゃ」
それからは何処か事務的な会話だった。声の震えは治まっていた。ただ、通話が終わって、スマートフォンを下ろした時に、画面が濡れていることに気が付いた。ひとつの水滴が、ぽた、ぽた、と増えていく。
拭いても拭いても、意味がなくて、
そのうち喉の奥と胸の辺りが苦しくなって、気が付いた時には声を押し殺して泣いていた。溢れてくるものが、自分では止められなくて、ただ声を押し殺して泣いていた。
******
扉の前で、立ち尽くす。
この薄い板を押し開けて、今すぐに隣に行きたい。そっと肩を抱いて、優しく頭を撫でて、慰めたい。
でも。
声を押し殺しているあの子が、泣いているのを悟られまいとしているあの子が、それを気付かれた時に、どうするだろう。
強がって、泣くのをやめてしまうかもしれない。
それでも。
ここで黙って見ていることは、これ以上耐えられない。例え私のエゴだとしても。
******
声を押し殺すの必死だった私は、泣き止もうと必死だった私は、静かに開いたドアに気が付かなかった。
気が付いたのは、そっと優しく抱き締められた時だった。
ハッとして涙を止めようしても、すぐには止まらなくて、とにかく目元を拭おうとする私の手を、彼女は静かに制止した。
「大丈夫だよ。泣いていいから」
そう言って優しく頭を撫でられる。その言葉に、その行為に、堰を切ったように涙と声が溢れ出した。
ひとしきり泣き切って、私が落ち着くまで、彼女はずっと優しく頭を撫でてくれていた。時折うわ言のように出てくる言葉にも、うん、うん、と優しく頷いて聞いてくれた。
泣き止んだ頃には、目は真っ赤に腫れてしまっていたけれど、何とか気持ちは落ち着いていた。スッキリしたというよりは、まだ呆然としたような状態ではあったけれど。
「ごめんね、寝てたのに。こんな遅い時間まで付き合わせちゃって・・・」
「謝らないの。気にしなくていいから。大丈夫?眠れる?」
彼女は柔らかく笑みを浮かべて、そう問いかけてきた。
私はゆっくりと首を縦に振る。
「うん、ありがと・・・。あの、一緒に、寝てくれる?」
自分でも驚くくらい甘えたような声に、ゆうちゃんは、一瞬だけ身を強張らせた気がした。
その日は、ゆうちゃんと同じベッドで寝た。あったかくて、ふわふわした。
明日、明日になったら。
私はあの人と会って何を話すんだろう。
そんなことを考えていたのに、泣き疲れたせいもあってか、気が付いたら眠っていた。
******
見慣れた喫茶店。
和哉と待ち合わせをするのはいつもここだった。
もしかすると、この店に来るのは今日で最後かもしれない。
そんなことをぼんやり考えていると、私の向かい側の椅子が引かれた。
「今日も早く着いてたんだな。それで、話って?」
和哉はスーツ姿で、いつもと同じビジネスバッグを持っていた。仕事帰りだから当然、なんだけど。
どうして、時間を気にしてるんだろう。
「ちょっとね、直接会って話がしたかったから。和哉も何か頼みなよ」
「いや、俺はいいや。由樹の話聞いたらすぐ帰るつもりだし。で、何?」
さっさと済ませろ、ってことかな。
私はぬるくなったココアを一口飲んでから、和哉を見る。
「あの、ね。私と、その。別れて欲しいの」
私が意を決して言ったのに対して、和哉は素っ気なかった。
「わかった」
それだけ言うと、伝票を持ってさっさと立ち上がる。一人カウンターへ向かう和哉を追うように、慌てて席を立つ。
「あの、ごめんね。突然こんな話、しちゃって。あの」
「いや、ちょうどよかったよ。俺もお子様相手はちょうど飽きてきたし」
「え・・・」
「そっちから言ってくるなら、後腐れもなくていい。あ、会計は気にしなくていいよ。そのつもりだったから」
呆然とする私をよそに、手早く会計を済ませた和哉は「じゃあな」と振り返りもせずに言っただけで店を出て行った。
かなしい?さみしい?
私はよくわからない気持ちで、また泣きそうになっていた。
引き止めて欲しかったのかな。別れたくないって言われたかったのかな。
でも、別れたいって伝えて。
お互い合意の上で別れたなら、これでよかったのかな。
一人でカウンターの前に立っていることを思い出して、恥ずかしくなった私はそのまま逃げるように喫茶店を後にした。
******
なんだかよくわからない気持ちのまま、私は部屋に帰った。
今日はゆうちゃんの方が先に帰ってきていたようで、私を見て「おかえり」と言ってくれた。
「ただいま。ゆうちゃん、あのね。別れた」
「ふうん」
ゆうちゃんはそう言って私を見た。
「なんかね、私から別れたいって言ったんだけど。和哉の方も、ちょうどいいって言っててね。それで、ね。そのまま。別れた」
私の方を見たまま、ゆうちゃんは黙ってる。
「なんかほら、よく別れ話がこじれて苦労する話とかあるけどさ。私きっとラッキーっていうか、そういうのなくってさ、よかったんだよね」
「由樹」
「そういえば、今日ってメイストリームデーって言うんだって。ゆうちゃんは知ってた?私は知らなくって、昨日陽介から聞いたんだけど」
「由樹っ!」
ゆうちゃんが、言葉を遮るようにして私の名前を呼んだ。
私はびっくりして、話すのを止めた。その時初めて、自分が泣いていることに気がついた。
「あ、れ?ごめんね、なんでだろ。私また泣いちゃってるね。別にかなしいとかさみしいとかじゃないのに、えっと・・・」
言い訳みたいに言いながら、それでも涙は止まってくれない。
「由樹。それ、悔しいんだよ。そんな扱い受けるなんて、由樹のこと、そんな風に扱う男のことなんてさ!ふざけるなって怒っていいんだよ!!」
そうか。私は。
かなしいんじゃなくて。
さみしいんでもなくて。
悔しかったんだ・・・。
ないがしろにされて、子ども扱いされて、浮気までされて。
私は声をあげて泣いた。
それこそ子どもみたいだったけど、ゆうちゃんにすがりついて、大声で泣いた。
泣いている間、ずっとゆうちゃんは私を抱き締めて、黙ってそばに居てくれた。