Prologue…悪い朝
久しぶりに、良い夜を過ごした。
良い酒も飲んだし、良い話もした。
本当に良い気分だった。良い明日、良い朝を夢見る程に。
良い朝
それは、神父がやって来ない朝だ。
(…枕を、取れ…)
けたたましい音響が部屋中を揺さ振る。おんぼろベルは今にもその音を擦り切れさせて朽ちそうなのに、意外な耐久力と無駄な大音量を誇っていた。
ドアのベルで叩き起こされる生活を長年してきて判ったが、人間−−俺だけかもしれんが−−、うるさくされると余計に起きたくなくなるものだ。
(…枕で、耳を塞げ…)
頭の中で何度も指令が繰り返される。寝起きは頭が働かないと言うが、それは違う。人間−−俺だけなのか?−−、寝起きだって起きているには違いないのだから、頭は働く。ただ、身体が働かないだけのこと。
(……枕を、取る……)
今朝も例に違わない。
望む行為を実行するどころか、指一本動かせないまま大音響に耐える。いやに規則的な断続を繰り返すそれは目指し時計に似ているが、目覚まし時計の方がまだ労りのある音を立てるというものだ。
(……………)
瞼すら上げるのを拒否していた俺の身体は、さして長くもない防衛の後、これまた例に違わず観念した。
枕を取ることはしない。皺だらけのシーツに未練たっぷりなまま、ベルに急かされてなんとか起き上がる。擦れてぼやけた藍色のジーンズを履き、くたびれてよれよれのシャツを羽織る。
ドアノブを捻ると、漸く音響はおさまった。そのまま開く。
出来れば見たくない顔が、こっちこそ好きで会いに来てるわけじゃないと全面的に訴えてきた。
「お早ようございます。まあ、昼近いですけど」
いつものことですが、そう付け加えるなら何故、毎度毎度言及するのか。
「……今日もか」
声がしわがれる。昨夜の酒は良い酒だったが、少々飲み過ぎた。そんな頭を大音響に揺さ振られて、気分はまったくもって良くない。
「仕方がありません」
実に真摯に言い切った。というのは他でもない、自分がわざわざこのおんぼろアパートにやって来なければならないことについてだ。
くたびれてよれよれの殺人鬼に会いに。
「…それ以上の格好が出来ないなら、せめてボタンを留めて、帽子でも被って下さい」
俺の出で立ちを冷めた目でざっと確認して言い渡すと、下で待っていますと言い残して向こうからドアを閉めた。
硬い靴の底が床を踏みならし、階段を降りていく。高らかに響く音をドア越しに聞いていた。
「……………………」
俺もこのまま出ようとは思っていない、これは部屋着だ。言い返し損ねた言葉を飲み込んだままドアに背を向け、ベッドを通り過ぎ、洗面台に向かう。
汚れた鏡に映る姿は確かに褒められたものではない。常日頃からさして小綺麗にしているわけでもないが、アクロバティックですらある寝癖はガキでも自分から直してもらいたがるだろう。一晩で伸びた無精髭のせいで五歳は老けて見えるに違いない。
まずは顔を洗って、寝癖直しに髪も濡らそう。シャワーなど浴びてあまり神父を待たせると、また冷ややかな嫌味を投げ付けられるのは必至なので、どちらも狭い洗面台で済ませることにした。
蛇口を捻る。
神父の視線よりも幾分温い水が吐き出された。