第四章5
「なぜできないの律。明美さんはあなたの年にはこの曲を弾きこなしていましたよ」
扇子で腕をはたかれる。よくつまずくところで弦の抑えを間違えたからだ。何度練習しても、この曲はなかなか上達しなかった。
「もうしわけありません、おかあさま」
すぐに謝ってもう一度初めからやり直す。真剣な瞳で事に向かう幼い私を、少し離れたところから見ている。
今度はうまく弾き切った。喜びとほんの少しの期待が浮かんだ顔で母親を見上げる。けれど母親は当然だと言う表情で、褒めたりはしなかった。気落ちして顔を伏せる私に新しい楽譜が渡される。
そんなやり取りをぼんやり見ながら、母はいつも他人と私を比べていたなぁと思った。
「この子には、他人を助けられる人間になれるよう教育していますから」
父親が主催のパーティーで客の一人が私のことを褒めたとき、彼はこう言って私の肩に手を置いた。私はおとなしく頭を下げる。
パーティーは頻繁にあったけれど、この日のことは特別に覚えている。小学生でありながら、交通事故にあった人に適切な応急手当てをして表彰された。このことを両親は自分たちの評価を上げるために利用していた。
父はわが子が非の打ちどころのない人間であるのは当然だと思っていた。称賛を受けるべきは育てた自分であるとも思っていた。私に対しては一言もなく、自分の手柄のごとく誇示していた。
海で私の足がつった時は、助けに来なかったどころか監視員の手を煩わせ恥ずかしい思いをさせたと叱ったくせに。
幼い私の顔にはよく訓練された笑みが張り付いていて、こんな風に見えていたのかと気持ち悪く思う。無邪気に見えるよう、天真爛漫に見えるよう、練習させたのは母親だった気がする。
「三番手だなんてまだまだですわ」
不満そうな母親の声を、中学生の私が廊下で聞いている。これはたぶん全国テストと陸上の全国大会でどちらも三番目だった時の記憶だろう。テストの方は一番をとった科目もあったのだけれど、総合順位だけが母の関心だった。
文武両道で素晴らしい謙遜しなくてもと、他の親や教員に言われている。だが一緒に暮らしていれば顔を見ずともわかる。彼女は今すぐ私を叱責したいと思っているのだ。
思った通り帰宅後になぜ一番をとれないのかと怒られ、眠れるか怪しいほどの課題を課されたことも思い出す。
自分ができなかったからって……。
「その小汚い犬は戻せと言っただろう。捨てなさい」
父親の冷たい声を聞いて、血の気が引くと言う体験を初めてした。呼吸がうまくできなくて苦しい。この後の記憶を見たくはない。
「嫌です」
この両親の恐ろしさをまだ知らない昔の私は、二人を睨むように見上げていた。腕の中にいるのは雑種の子犬で、笑顔で元気に動き回るから名前はチャッピイとつけた。
二か月前の大雨の日、捨てられていた子犬がかわいそうで連れて帰った。あった場所に捨てて来いと、生き物をモノのように扱うことが衝撃だった。何を言っても捨てろの一点張りで、ついには殺そうと手を伸ばした。
泣く泣く雨の中捨てに行くふりをして、こっそり一人で飼うことにした。彼らは中学生には不相応なほどの大金を小遣いとして渡していたから、予防接種やシャンプーをしてこっそりと飼っていた。
「捨てなさい」
「嫌です」
稀にしか帰らない両親より、チャッピイの方がよほど私の家族だと言えた。そもそも今日までばれなかったのは、両親が家に帰らなかったからだ。小さいチャッピイをさらに深く抱いて、彼らの視界から隠すようにする。
父親はため息をつきながら近づくと、上げた腕を何のためらいもなく私に振り下ろした。平手が思い切り耳に当たって派手な音がする。大きく回った首も痛い。
「お前は会社のため、一族のために完璧でなくてはならない。他のことに気を取られている暇はない。言われた通り勉強と習い事に励み、それを捨ててきなさい」
「嫌です」
もう一度振り下ろされる。肩に当たってよろめくが、チャッピイを抱えたまま中腰で踏ん張って耐えた。
「なぜ飼ってはいけないのですか。こっそり行動したことは卑怯でしたから謝ります。けれどこの子は何一つ粗相をしていませんし、あなた方が求める水準を私が下回ったことはありません」
三度目の衝撃は耐えられなかった。無様な格好で厚い絨毯の床に倒れ伏す。チャッピイを抱え込ん蹲った私の背中を父親は執拗に叩く。
「私たちを困らせるものではありませんよ、律。言うことを聞きなさい」
「チャッピイを飼ってはいけない理由を説明してください」
背中がじんじんと痛む。服の下は確実に赤くなっているだろう。叩き続ける父親とは反対の方向から母親が私を覗き込む。
「悪い子ね、律」
靴の先で思い切り私のお腹を蹴り上げた。チャッピイが苦しそうに鳴き声を上げ、体勢を崩した私は仰向けに床に転がった。まだお腹の上にいるチャッピイもろとも母親が踏みつける。吐き気とともに変な音がのどから漏れる。
一人と一匹が動けなくなったところで、父親が心底汚らわしそうな顔でチャッピイをつかんだ。雨粒が吹き込むのも気にせず窓を開け、花壇のレンガに叩きつけるように落とす。
「チャッピイっ」
「顔は避けたから感謝なさい。そして三日間の謹慎を言い渡します。まったく親の言うことをきかないなんて」
私の悲鳴を彼らは聞いていないようだった。食事抜きと外出禁止を言い渡されるが、私はそれを聞かずに階段まで走った。玄関からではなく窓から外へ出る。一刻も早く手当てをしなくては。
チャッピイの血は雨に流され始めていて、見た目は不自然にきれいだった。けれど抱き上げたとき、呼吸も鼓動も感じられなかった。手足は折れ、頭は砕けていた。
雨の中チャッピイを葬って私の体は冷え切っていた。服と両手は泥だらけで、足もひどく汚れていた。玄関から戻った私に、ちょうど食事を終えた彼らは、汚いとだけ言った。体を洗って服を着替え、汚した床を掃除しながら涙が止まらなかった。
今の私も涙が止まらなかった。チャッピイに何もできなかったし、結局両親を恐れて何も言えなくなったのだから。
この夏以降、私はおとなしく日々を過ごすことに決めた。彼らの期待に応えることに疲れ癒しを求めた結果、子犬を一匹死なせてしまったことが理由の一つ。二つ目は彼らに恐怖を感じたからだ。あのあと何日も背中が痛むので、病院に行ってみると肋骨にひびが入っていた。私もチャッピイと同じようにいつでも殺されるのだろうと思った。
息抜きは公立図書館で漫画を読むことに変わった。勉強の合間にしていたからばれることはなく、理想のキャラクターが私をここではないどこかへ連れて行ってくれたらいいのにと空想していた。
そうしているうちにオーブに出会った。チャッピイの件から懲りもせず拾って、結果的に助けた。お礼をと言う話になった。そうして私は素敵な恋愛を望んだけれど、本当の願いは……。
×××××××
「律、大丈夫カ」
心配そうなオーブの顔が視界いっぱいに広がっている。目を見開いたまま静かに涙を流していたようだ。
「問題ないわ」
悲しみが律の心を覆ってはいたが、しっかりとした声で答える。本当の望みを思い出したからだ。そして自分の刀の能力に見当が付いた。あとはこの世界をどうやって去るかを考えるだけだ。
「辛くはないカ? もう一度隠した方がいいカ」
「問題ないったら」
律は自分より背の低いオーブの両肩に手を置いた。顔を覗き込んで清々しそうに微笑んでみせる。すっきりとした気分だった。
「ありがとう。私のこと守ってくれて」
オーブは驚いて律を見つめたがにやりと笑った。
「願いを叶えるのが俺の仕事だからナ。それはそうと記憶意外に何かわかったのカ」
「ええ。思い出した私の性格からすれば、刀の能力は吸収と放出だと思うのよ。覚えて真似するのは得意になったもの。でも二つ持ってるなんてことある?」
「その二つなら同じものサ。しかしなぜそう思っタ」
律の疑問にオーブは平然と答え逆に質問した。昔からお手本の通りに、できるようになればそれ以上を提供してきたからだと律は答える。
「それにね、もし無効化なら相手の力がない限り刀は普通の刀でしょ。でもみんなを守ったりもできていたわ」
「その通りダ。魔王城から逃げるときも刀に貯められていた力を使っタ」
オーブは律の成長を喜ぶように目を細めた。
「これで次に進めるわねっ」
すっきりした顔で目を輝かせながら律は言う。オーブもつられて笑みを浮かべた。




