第二章5
「ここはどこ」
意識がはっきりとしたとき、律は自分がふわふわと浮いているように感じた。周りは白い霧で覆われていて、上下も左右も分からない。とりあえず泳ぐように体を動かしてみると、ゆっくりと進むことができた。
そのまま進んでいくと紫が見えた。近づいていくと、ラベンダーの香りに満ちた地面に降り立つことができた。ぐるりとあたりを見回すと、向こうの方に人が見える。
律がそちらへ歩いていくと、その人がウィル王子であることに気付いた。彼は膝を抱えて座り、ぼうっと遠くを見ている。
「こんにちは」
五歩ほど離れたところから声をかける。王子が何の反応も見せないので、もう一度声をかけてみようとしたところでびくりと肩が震えた。そして恐る恐るといった様子で律の方に顔が向けられる。
「はじめまして。私は律と言います。あなたはここがどこだか分かりますか?」
怯えた様子の王子に向かって律は普通に言葉をつないだ。
「えっと……ボクも、よく、わからなくて……。あっ、えと、はじめまして……メルリン国王子ウィル、です」
つっかえながら答えた声は、まだ高くてか細いものだった。律が次の話題を探していると、王子が目を泳がせながら話を続けた。
「あの、たぶんボクが儀式に失敗したから、それで、こんなことになってると思うんです。だけど、あの……リツさんは、どうしてここにいるんですか」
律からは目をそらして、消え入りそうな声でそう尋ねた。
「私は先日勇者になったのですが、魔王城へ向かう途中にあなたのことを助けてほしいといわれました。王様と王妃様にごあいさつした後、眠っているあなたに会いに行ったのですが、気づいたらここにいました」
ウィルの目を見て正直に話すと、彼は顔を正面に戻しうつむいた。律が近づいて隣に腰を下ろすと、またびくりと肩を揺らしたが逃げようとはしなかった。
「お二人とも心配していましたよ」
律は正面に広がる、どこまでも続く紫色を見ながら声をかけた。
「ウソです……。きっと呆れています。ボクが、こんなので……」
「簡単な儀式も、怖がって失敗する、落ちこぼれ……だから、情けないと思っているはずです」
うつむいたまま、ぽつりぽつりと言葉を紡ぐ。
「そういえば儀式ってどういうものなんですか?思えば名前も名乗らず、何も聞かずにここへ来てしまいました」
「名前は、知ってると思いますよ……」
首をかしげた律に、顔は伏せたままでウィルは話し始めた。
「儀式は……、この国には至る所に精霊たちとつながりを持てる場があります。継承権を持つものはいくつかの場を訪れて、精霊たちにこの国の王族としてふさわしいかどうか判断してもらうんです」
「でもボクは、その一つ目に……失敗しました。引き返してはいけないのに、後ずさりをして、こけて、……出口に来ないから、探しに来られました」
話が止まってすすり泣きが聞こえる。律は前を向いたまま、ウィルが話し始めるのを待った。
「できるようになりたいのに、できなくて……。母様や父様のあんな顔見たくなくて。勇者様はきっと何でもできるんでしょう?」
拳を握り締めて、ウィルは顔を上げ律の方を見た。可愛らしい顔が涙で濡れている。
「そうですね。言われたことはできました。ちょっと時間はかかっても、できないなんてことはなかった」
「やっぱり」
唇を噛んで、律の顔を睨むように見つめる。
「でも……、私はあなたのこと羨ましく思います」
「やりたいことがあるってすごく素敵。こっちの世界に来てからはみんな私の意思を聞いてくれますけど、前は言わせてもらえなかったし」
ウィルの目から力が抜けて、意外そうな視線が律に向けられた。
「それに、あなたのご両親もとっても素敵。私はとても羨ましい……」
吐息に乗せられた声は、律が思わずつぶやいた言葉だった。
「勇者様にも悩みがあるんですね」
「もちろん」
二人は顔を見合わせてくすりと笑った。律はゆっくりと腕を上げて背を伸ばし、そのまま後ろに倒れた。
「ここは居心地がいいですね。ずっといたいくらい」
ラベンダーの香りを胸いっぱいに吸い込みながら律は話しかけた。ウィルは、また悲しそうにうつむいて、小さく帰りたいといった。
「帰れますよ」
律の言葉を聞いてウィルがばっと顔を上げる。
「でも、ここはどこまで行っても花畑でした」
律は寝ころんだまま向きを変えて、自分の左側を指差した。ウィルがそちらに目を向けると、遠くに何か細いものが見えた。
「たぶん私の刀です。私はあれでここに来たようなものなので、きっと帰れます」
「さっきまで、ありませんでしたよね……」
不安そうに尋ねるウィルに向かって、律は笑顔で言った。
「気にしない、気にしない。さあ、行きましょう」
夜。星も月もない真っ黒な空が、部屋の窓から見ることができる。しかし部屋の中はろうそくに照らされ明るく、一人の少年がベッドに眠る者を心配そうに見つめている。
律が意識を失った時、オーブは強い怒りを感じた。自分の使命は律を無事に元の場所へ帰すことなのに、煩わしいことに巻き込まれてしまったと思った。けれど、律の望みを叶えると決めていたから、その怒りをもって行く場所がなかった。
律の身体が用意された部屋に運ばれて、王もシルベも何度も頭を下げてきたが、自分に対してあふれる怒気を抑えるのに精いっぱいだった。
「律……」
アルクは疲れたからと眠りに行ったが、オーブにそんな気は起きなかった。律の温度のない手をずっと握って、彼女の魂が返ってくるのを待つ。オーブには決して手の出せない領域へ彼女は行っていた。
そうしてずっと握っていると、律の刀が突然光り始めた。小さな明かりが徐々に強くなっていき、部屋の中が真昼のように照らされる。
その様子を見て、オーブは律が倒れる前にも刀が光ったことを思い出した。そして、勇者の剣は持ち主に影響を受けることも。ベッド横の机に置かれた刀に手を伸ばして触れてみる。
「律の心はここにあル。すべて持っていかれたわけじゃなイ、なラ……」
〖座標〗
ちゃんと帰ってこれるように、道しるべとして使えるように、オーブは刀に魔法をかけた。




