葉月
いつの間にか8月になっていた。この所、私の病も小康状態になり体調のよい時は私の実家の織物問屋の仕事を手伝っている。手伝いといってもこんな身体であるから大したことはやっていない。最近、始めた異国との交易の為に異国の文献を読む。私が暇だろうからと智香子が提案して私のために作られた仕事らしい。急がなくても、やらなくてもいい仕事だが、文章を読むのは好きだから嬉しかった。ふと本から目をあげるとセミの声が聞こえる。ここはそれほど暑くはないが、智香子によれば、街はとても暑く溶けてしまいそうらしい。
「あまり、根を詰められると、お体に触りますよ。」
智香子は団扇で優しく扇ぎながらそう言った。あの夢を見てから少しだけ智香子と距離がある。病を得ると考えが悲観的になるというがこういうことなのだろうか。私は頷いて本を閉じた。
「ところで、うちの方はどうだった。兄貴も母上も皆、息災だったか。」
智香子は月に一度、私の病状を伝えるため家に帰っている。
「旦那様も大奥様もどちらもお元気でした。」
智香子はいつものようにそっけなくそう答えた。ここから店までは30分ほどだろうか、もう少し帰って息抜きをしてもよいと思うのだが、智香子は帰りたがらないし、あまり店の話をしたがらない。
私のそばにいるということで店の同僚から爪弾きにあっているようからのようだった。医者の見立てだと伝染らない病とのことだが、やはり病者の近くにいるものが帰ると避けるものもあるのだろう。
私の兄の妻はそれが顕著で智香子が来ると部屋に篭って出てこないらしい。
「なぜ、私にそこまで尽くしてくれる?」
「いつぞやの夢の話ですか?」
私は頷いた。少し不機嫌な顔になった智香子はなぜ、そこまで気にするのですかと聞いた。
「私は今まで、常に誰かが側にいるのが当然だった。しかし、あの夢をみて考えた。奉公人にとって、それは『仕事』だ。休みも欲しかろう?」
なるほどと智香子は言った。それから、これからいうことは内緒にしてくださいねと前置きした上でゆっくりと話し始めた。
「旦那様も大奥様もよくしてくれます。でもお店は私には息苦しかった。奉公人の皆さんに表と裏があるというか。そんな時、平賀山に連れていってくださったのです。」
連れていったという表現には語弊がある。私は妾腹の子で家業も継げず元来、病弱であったから婿にもいけず、たぶん一生、家を出ずに過ごすのだろうと思っていた。私に家業を継ぐ意思も体力も無かったから、兄と義母は優しかった。それでも、充てがわれた離れにしか居場所はなく、だからといっていつも離れに篭って本を読むのも飽きる。そんな時、自然と足が平賀山に向いていた。普段であれば見咎めるものなどいない。しかし、その日はたまたま女中がいた。私が病弱だと知っていたその女中がついてきた。それが智香子だったというわけだった。話の内容は私の意図とは少しずれているような気もしたが、それでも智香子が自分の事を話すのは貴重なので黙って話を聞くことにした。
「あの時、私は息苦しさに耐えかね、田舎に帰る算段をしておりました。幸い、頂いた支度金にはほとんど手をつけていませんでしたし、毎月のお給金も残っておりました。でも、田舎に帰った所で両親はもうおりませんし、女手一つ、こんな奉公口が見つかるとも思えません。どうしようかと思案する所に離れの若様が出てらっしゃった。そして平賀山へ。あの山で私は救われました。ああ、裏も表もないこんな方もいらっしゃるのだ。もう少しこのお店で頑張ってみようと。」
離れの若様ねと私は笑った。まるで時代劇にでも出てきそうな名前だ。でも、下の者は皆そう呼んでおりましたと智香子は大真面目に言った。
「まぁ、私は妾腹だしご覧のとおりの病弱者だ。家督やら出世などとは無縁だからね。」
「あの山でおっしゃいましたね。『山に登れば何やら悩みが小さく見える。それは自分がいる世界が客観視できるからなのだと私は思う。だから街にあっても常に自分を客観視することが重要だ。』と。その一言に私は救われたのでございます。だから、この度、長くご療養に入られる由を聞きましてご恩返しをと思いまして。私もお店にいるよりよっぽど、ここの方が良いのです。」
なるほど、智香子も居場所がなかったのかと私は思い、妙に納得して安心した。しかし、智香子はそうかと納得顔の私に、これでこの話はお終いですという一言を忘れなかった。
「そんなこと心配するより、病人はお体のことを第一に考えてください。」
智香子のほうが一枚上手だった。




