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僕の風船金魚

 六歳の夏、僕は父に連れて行ってもらった近所の縁日で、変なものを見た。

 夏の夜特有のねっとりとした紺色の中に輝く、提灯や屋台の灯り。その光を受けてそこここできらきらと輝くのは、小さな手に弾かれる水風船。しゃばしゃばと音を立てるそれが羨ましくて。父に強請って寄ったヨーヨー釣りの屋台は、小さな簡易プールに向かって並ぶ、小さな背中でごった返していた。

 握り締めた百円玉を、プールの向こう側でにこにこと笑っているおじいさんに手渡して、いかにも頼りなさそうな紙縒りを一本貰う。他の子供達に混じって、プールを囲む形で腰を下ろすと、所狭しと浮かぶ水風船が目の前に迫った。

 たった一本の紙縒り。どれを釣ろうかと悩んでいたとき、その“変なもの”は僕の視界に飛び込んできた。

 ぷかぷかと浮かぶ水風船の中に混じって一つだけ、明らかに変な動きをしているそれは、まるで動物が眠気の中で身じろぐように、色とりどりの風船の中でもぞもぞと動いていた。

 慌てて周りの子を見るけれど、不思議なことに誰一人、それに気づいている様子は無い。

 再び視線を戻す。透明で、青、黄色、白のラインが数本、ぐるりと球体を巡っているだけのシンプルなそれは、相変わらずもぞもぞと動きながら、他の風船に押し出されるようにして僕の前に流れてきた。紙縒りを水に垂らすのも忘れ、流れてきた風船をまじまじと見つめる。すると、中で何か赤いものが動いているのが見えた。更に目を凝らして、はっと、息を呑む。

 水風船の中に居たのは、真っ赤な金魚だった。それが中で動き回るものだから、もぞもぞと風船が揺れ動いていたらしい。

「ボク、早く釣ってくれないと」

 急に掛けられた声に驚いて顔を上げると、紙縒りをくれたおじいさんが、相変わらずにこにこと笑顔を浮かべてこちらを見ていた。どうやら待っている子が後にもたくさん居て、はやく順番を回せということらしい。急にその笑顔が恐くなった僕は、慌てて何度も頷き、目の前の金魚入りのヨーヨーを釣った。

 掌にしっかりと水風船を収め、立ち上がる。立ち上がると目の前におじいさんの顔があって、その皺に埋もれた目がヨーヨーと僕の顔を交互に見た。にんまりと一層深くなった笑顔に、父が子供の波を縫って迎えに来てくれるまで、僕はそこから動けなかった。

 父にはどうやら金魚が見えないらしかった。というのも、僕が両手で大切に持っているヨーヨーを見て、何故それで遊ばないのかととても不思議そうにしていたからだ。中に金魚が入っているのが見えていたのなら、それを弾いて遊べとは言わなかっただろう。屋台でも他の子供たちは気づいていなかったようだし、何故だか僕以外にこの金魚は見えないらしい。

家に帰るまでの道中、何度も手元のそれを確かめたが、やはり透明な水風船の中には鮮やかすぎる程に赤い金魚が居て、その身体を着物の袖を靡かせるようにひらひらと翻しては、微かにちゃぷンと音を立てていた。

 金魚の世話など、したことがない。まして僕にしか姿が見えていないこの状態で、どうやってこの金魚を飼おうか。僅かな思案の末、結局僕はそのまま様子を見ることにした。

 一週間程様子を見たが、金魚は一切の世話をせずとも、一向に弱る気配がなかった。どうやらこの不思議な金魚は特別世話をする必要が無いらしいとわかり、少しほっとする。

 それでも餌を与えないと流石に不安になるもので、一度だけ、風船を割ろうとしたことがある。両親の寝静まった夜に庭の真ん中で、前の年にカブトムシを飼っていたプラスチックケースに水を張った。その上にヨーヨーを垂らし、居間から持ち出したハサミの刃を水風船の口に当てる。

 当てた次の瞬間、僕はそれを後悔した。金魚が突然暴れだしたのだ。

 普段ちゃぷりと音をたてるくらいで、居るのか居ないのかわからないくらいに大人しいそれが、ばしゃばしゃとその尾で水面を叩いては激しく泳ぎ回る。その尋常でない様子が怖くて、慌ててハサミを下ろすと、今度はまるで何事もなかったかのように、金魚は再び風船の底に落ち着いてからふわりとひとつあくびをした。それ以来僕は、絶対に風船を割ろうとはしなくなった。

 本当に、何の世話も要らない。

 どこへ遊びに行くわけでもなく、一日飽きもせず風船の中の金魚を眺めて過ごした。少し風変わりだったとしても金魚を飼うのは初めてのことだったし、僕の元にこの赤くて小さな子が来たことが単純に嬉しかったのだ。手元に来たのは、世話が要らないだけで取り立てて他になんの特徴も無い金魚だったが、僕は僕なりに、そんな日々を楽しんでいた。

 金魚の様子がおかしいことに気がついたのは、蜩が鳴いていたから、もう秋口に近い頃だったのだろうと思う。

 元々大人しいとは思っていたが、その頃から目に見えてその動きが弱々しくなっていったのだ。それまでは弱る気配など微塵も見せなかっただけに、僕が受けた衝撃はかなりのものだった。

 翻る着物のように凛としていた尾が、力なく垂れ下がり、緩く水中で微かに震えたのを見た。どこか気だるげだったあくびが、その小さな身体に精一杯酸素を取り込もうとしているかのように苦しげなのを見た。上目遣いに僕を見上げていた澄んだ目が、徐々に光を失ってゆくのを、見た。

 誰にも見えない、僕にだけ見える金魚。

 ここに来て、素晴らしく特別だと思っていたそれが仇となったことを知った。誰に相談することも出来ず、ただただ弱りゆくその様子を見守るだけ。その作業は途方も無く苦しく、僕にとって、残酷だった。

 金魚が風船の底で殆ど動かなくなった頃、僕は、もう持ち出すことはやめようと決めたそれを手に取った。そしてあの日と同じように、月明かりの下、水を張ったプラスチックケースの上にヨーヨーを垂らした。泣きじゃくりながら、震える手でハサミの刃を風船の口に当てる。あの時の様にばしゃばしゃと音をたてて抵抗してくれはしないかと心の隅で願うけれど、金魚はもう殆ど見えていないであろう目を少し僕のほうに動かしただけで、そのまま静かに事が過ぎるのを待っていた。

 この風船を割っていけないことは解っていた。それでも僕は、他にどうすることも出来ず、その、風船を――――割った。

 もう萎みかけていたというのに、どういうわけか手元のそれは、きらきらと月明かりに輝く水を振り撒きながら、儚い声を上げた。弱りきった赤い身体がプラスチックケースの中へと堕ちてゆくのが見えて、思わず受け止めるように無意識に手を差し出す。

 刹那、全てを舞い上げるような突風。反射的にぎゅっと目を閉じる。一瞬にして遠くなる虫の声。耳鳴りがして、その煩さに一層堅く目を閉じた。そしてその奥から聞こえてきたのは、聞き覚えのある喧騒。これは――――

「ボク、早く釣ってくれないと」

 突然近くで聞こえたその声にはっとして目を開けると、にこにこと笑顔を浮かべたおじいさんの顔が目に入った。

 慌てて周囲を見回すと、周りには同じくらいの歳の子供達が、小さな簡易プールに向かって鉤の付いた紙縒りを垂らしている。彼らが狙っているのは、色とりどりの水風船。

 自分の手元を見ると、しっかりと握られた紙縒りが目に入った。促されるがまま、僕は他の子と同じように、簡易プールに紙縒りを垂らした。もぞもぞと動く風船も、透明で中の水が見える綺麗な風船も無いそのプールで僕が釣ったのは、何の変哲も無い、ベタ塗りの赤いヨーヨーだった。

 それからは別段、何も変わったこともないまま夏休みが過ぎ、特別な出来事も迎えないまま、僕は大人になった。大人になった今でも、夏になるとあの出来事を思い出す。あの金魚と過ごした日々は、いったいどこに行ってしまったのだろうか、と。

 浴衣の袖を引っ張られるのを感じて、ふと我に返る。視線を遣ると、心配顔の息子が僕を見つめていた。息子にヨーヨー釣りを強請られたのにつられて、過去の記憶にどうやら少しぼんやりしていたらしい。苦笑しながらごめんと謝ると、袖を掴んでいた小さな手が離れた。簡易プールに向かってうずくまる小さな背中が並ぶ、ヨーヨー釣りの屋台。そこを目指して、小さな手を引いて人ごみの中を歩いて行く。

 紙縒りを一本貰おうと、プールを挟んだ向こう側に腰掛ける、大きな麦藁帽に百円を握った手を差し出した。瞬間、麦藁帽が大きく動き、その下――――にこにこと笑顔を湛えたおじいさんが、僕を見上げた。どきりとして、少し身構える。

「夏の夜、一夜の興行。さァサお楽しみ」

 すとンと、僕の中で何かが嵌った音がした。

「楽しいばかりではありませんでしたが」

 そう言って苦笑する僕を見て、おじいさんはくしゃりと笑うと、再びその顔を麦藁帽の下に潜ませ、息子に紙縒りを手渡した。紙縒りを持って小さな背中が向かう先は、小さな簡易プール。そこに目を遣ると一つだけ、もぞもぞと不思議な動きをするヨーヨーが見えた。果たしてあの子には、あれが見えているのだろうか。それとも、今年は他の誰かが、あれを釣り上げるのだろうか。

 目を閉じるとそこには、透明な水風船の中、鮮やか過ぎる程に赤い身体を靡かせる、小さな姿。

 夏のあの日、忘れもしない。

 僕の、風船金魚。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 読み終わった瞬間、思わず大きく息を吐いて、そこでようやく息をひそめていたことに気が付きました。 提灯の輝くキラキラした屋台からの、静かな秋の夜更け、そしてまた賑やかな夜店。その空気を実際に…
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