振り返りと謎
一週間の始まりは、雲ひとつない青空だった。朝の掃除も、鬼たちへの挨拶も、いつもどおりに順調だ。昨日の呪い鬼との闘いが、まるで嘘だったかのよう。けれども夢なんかではなかったということを、背中の痛みが証明している。
剣道の稽古に響かなければいいけれど、と思いながら、海は学校へ行くしたくをしていた。はじめに心配をかけないためにも、また門下生たちにけがの原因を探られないためにも、痛いなどとは言えない。何事もなかったように我慢して、普段と同じように振舞おうと決めていた。
はじめに見送られ、家を出る。学校でサトに会い、それほど重要ではない話を聞きながら、授業の開始を待つ。何も特別なことはない、変わらない朝だ。けれども、ふとした瞬間に思い出す。鬼を竹刀で叩いたときの感触や、地面に倒れこんで背中を打ったときの衝撃を。抱きついてきた春の涙や、海の頭をなでた大助の手の温かさを。その度にぼうっとして、サトに首をかしげられた。
これまでに何度か、鬼を追い払おうとして闘ったことはあった。しかし、昨日の闘いは今までのどれとも違う感じがする。何がそう思わせるのか、海は授業を受けながらじっくりと考えてみた。
昨日の呪い鬼は、これまでに対峙した中では最も大きかったかもしれない。普段の剣道の稽古では絶対にしない、飛び跳ねての攻撃をしてしまったくらいだ。動きも初めて見るものだった。飛び上がって襲いかかってくるような呪い鬼など、会ったことがなかった。相手が強敵だったことはたしかだ。
でも、未だに感覚が消えないのは、そのせいだけではないような気がする。これまでにはなくて、今回の鬼追いにあったことは何だろうか。
いや、そもそも「鬼追いをする」ということが、海にとっては初めての経験だったのだ。海の意識は呪い鬼を追い払うことから、食い止めることへと変わっていた。さらに、誰かがその場に一緒にいて、その人を守らなければならないという状況も初めてだった。終わった後で最も安堵したのは、春の無事が確認できたことに対してだ。そして春をけが一つなく無事に家へ帰せたのは、大助たちが助けに来てくれたからだ。その上、海が一人で闘っていたことを労い、褒めてくれた。
春を送り届けてから、大助は海に言ったのだ。「今日は海の手柄がでかかったな」と。呪い鬼と闘うことで人に褒められたのも、初めてのことだった。
「そうか。今までなかったことが一度に起きたから、印象が強いんだ」
海はようやく納得して、意識を授業へ戻した。このあともまだ、初めてのことが残っている。今回の鬼追いについての、振り返りだ。
鬼追いが一つ終わるごとに、大助と愛は神主とともに振り返りを行うのだという。呪い鬼がどのような性質のものなのか、なぜ呪いを溜めこんでしまったのか、それを話し合うことで今後の対策を練っているのだ。もっとも、呪い鬼が一向にいなくならないところを見ると、あまり役に立ってはいないようだ、というのが海の感想だったが。
今回の振り返りは海の都合を考えて、明日の放課後に行われることになっていた。今日は一旦鬼追いのことを忘れて、剣道の稽古に集中しなければならない。
しかし、背中の痛みや冷めない興奮が相まって、稽古に専念することはできなかった。
「海、何か無理をしていたでしょう。今日は姿勢もよくなかったし、集中力も切れやすいみたいだ」
稽古が終わった後、和人が厳しい顔で言った。必死で隠していたつもりだったが、先輩の目はごまかせない。どう答えたらいいものか、と考えていると、不意に背中を叩かれた。
「痛っ!」
「ほら、軽く叩いただけなのにこんなに痛がって。背筋がきちんと伸びていないから、おかしいと思ったんだ。何かあったの? けんかでもした?」
和人が心配しているのは伝わってくるのだが、本当のことは言えない。鬼追いのことを普通の人間に話すことはできないのだ。いくら和人が鬼や鬼の子に理解があるからといって、洗いざらい正直にうちあけるというわけにはいかない。
「……けんかといえば、けんかです。背中から倒れこんでしまったので、ちょっと打ってしまったんです。じきに治りますから、そんなに心配いりませんよ」
へらりと笑って返事をしてみたが、和人の表情は険しいままだ。けれどもそのうち溜息をついて言った。
「わかった。海がそう言うなら、そういうことにしておく。でも無茶はだめだよ。たとえ君がいいと言い張っても、他の子に影響を与えてしまうからね」
和人はそれ以上を追及しようとはしなかったが、海のことが気にかかってしかたがないようだった。ごまかしたことを、そうせざるをえなかったことを心の中で謝りながら、海は和人の帰りを見送った。
もう一晩もすると、海の背中の痛みはかなり治まってきていた。ただしその分、鬼追いの振り返りをするために顔を合わせた大助の、両腕が痛々しく見えた。捲り上げた袖の下は包帯が巻かれ、あのけがが範囲の大きなものだったことを思い出させる。
「俺は大丈夫だって言ったのに、うちの家族と亜子が大袈裟に包帯なんか巻いたんだよ。本当に大したことはねえからな」
大助はそう言うが、この傷は海を助けたときについたものだ。責任は感じてしまう。海がもう一度謝ろうとしたとき、神主と愛が茶と菓子を持ってやってきた。鬼追いの振り返りは、神社の社務所で行われるのだ。
「さて、始めましょうか」
神主が茶を一口飲んでから言った。
「先日の呪い鬼ですが、どうやら久方ぶりに鎮守の森を出てきたようです。周囲の環境が変わっていて、驚いたのでしょうね」
鎮守の森は、神社の本殿裏にある雑木林だ。普段は立ち入り禁止になっていて、神社に遊びに来る子供たちも、ここには決して足を踏み入れない。その表向きの理由は、草木を傷つけないようにするためということになっている。しかし本当のところは、この森が鬼たちの住処になっているからなのだ。森は常に鬼がつくりだす特別な結界が張りめぐらされていて、人間がうっかり入ると迷ってしまう。鬼たちが必死に誘導しようとしても、人間のほうが鬼の気配すらも知覚できない場合、永遠に森の中へ閉じ込められてしまう可能性もある。
そんな場所から、年月を越えて、一人の鬼が出てきた。外の様子は知らない間に変化していて、どこをどう歩いたらいいのかもわからない。周りにいる他の鬼たちと話をしながら、なんとか移動をしていたという。
「彼が遠川のあたりまで来たときに、ふと、とてつもなく悲しい気持ちになったのだそうです。変わってしまった町になのか、それとも自分が何も知らないことを情けなく思ったのか、よくはわからなかったらしいのですが。とにかく彼は、そうして呪い鬼になったようなのです」
神主の説明に、海は首を捻った。鬼が呪い鬼になる過程が、あまりにもあいまいすぎる。久しぶりに森の外に出たというが、おそらくは寿命の長い鬼のことだから、よほど長い時間が経っていたのだろう。町の様子が変わるほどだというからには、短くても十年近くの月日が流れていた可能性がある。しかし、他の鬼たちとやりとりをしているからには、町の情報は得られたはずだ。いくら知らない光景に不安を覚えたからといって、呪い鬼になるほどのストレスが一気に溜まるものだろうか。
「またそのパターンなんですね……」
愛が口元に手をあてて、ぽつりと呟いた。海が怪訝な表情でそちらを見ると、彼女はすぐに気づいて説明をしてくれた。
「遠川地区に出現する呪い鬼には、ときどきそういう子がいるの。不安を抱えてはいたけれど、呪い鬼に変化するほどではないはず。それなのに、急に堪えきれない悲しみに襲われてしまって、自我を失ってしまうみたい」
「原因は? それがわからなければ、また同じような呪い鬼が出ますよ」
すぐさま海が尋ねると、愛は黙り込んでしまった。何かを考えているようではあったが、明確な答えはなかった。海は眉を寄せ、溜息をついた。
「もしかして、このパターンの呪い鬼がもう何回も現れているんですか? それなのに原因を突き止めず、ただ惰性で鬼追いを続けてるんですか?」
責めるような口調になる海を、大助がじろりと睨んだ。海は思わず身をすくめる。
「海、惰性でってのは撤回しろ。こっちだってどうすればいいのか考えてんだ」
「……すみません、言い過ぎました」
とりあえずは謝ったものの、海には納得がいかない。なにしろ、昔から自宅付近、つまりは遠川地区で何度も呪い鬼を見ているのだ。ときに逃げ、ときに追い払い、なんとかやり過ごしてきた。これが神主や愛の言うものと同じパターンで出現している呪い鬼ならば、もう何年も原因が解明されていないままということになる。
いつ巻き込まれてけがをするかもわからない。遠川地区の住民は、そんな状況の中で暮らしているのだ。
「ある種の病気と同じです。原因となるものに手を出せない以上、対症療法で乗り切るしかない。今回のようなパターンは、そういうものだと思ってください。だからといって、原因の究明をおろそかにしているわけではないことも、どうか理解してほしい」
神主の言葉に、海はうつむく。とても納得できる話ではないが、今できることがそれしかないのならば、しかたがない。海たちはただ、鬼追いを続けるしかないのだ。できるかぎり人間を巻き込まないように。万が一巻き込んでしまったら、すぐに助けられるように。
先日、春を送り届けたときに、彼女はこう言っていた。
「鬼がこわくないことも、呪い鬼がつらい思いをしてしまった鬼だっていうことも、私はわかってるよ。だから、鬼を嫌いにはならない。今までどおりに接していくつもり」
鬼の子ならば、鬼の本来の姿を知っている。呪い鬼という影の姿を知っても、それがどういうものなのかを理解していれば、鬼に寄り添うことで問題を解決できる。春は優しい少女だから、きっとそうしてくれるだろう。
しかし、そうではない人間たちのほうが圧倒的に多い。鬼追いというものは、そのような人々のためにやるべきものなのだろうと海は思った。鬼の子にしかできないことが多すぎるならば、できることを絞らなければやりきれないだろう。