鬼追いと鬼の子
鬼追いをすることを申し出た、その翌日。海は返答を聞きに行くべきかどうか迷っていた。昨日、二年生の教室を訪れたときには、大助は忙しいようだった。今日もそうである可能性や、返事を急かしすぎてもいけないのではないかという思いが、海の行動を抑えていた。そうして結局、何もせずに昼休みを迎えた。
海は昼食を終え、サトと話をしていた。とはいえ海から話題を提供することはなく、ひたすらサトが昨夜観たというテレビ番組の内容や、野球部の再建計画の話を聞いていた。教室がにわかにざわついたのは、ちょうどサトが言葉を切ったときだった。
「なんだ? 何かあったか?」
サトが教室の出入り口に目をやる。海もつられてそちらを見た。生徒たちが「誰だ、あれ」「外国人?」などと口々に言うその向こう側に、見知った少女が立っていた。海が見ていると、彼女もこちらに気づいたようで、小さく手招きをした。こっちに来いということらしい。
「サト、ちょっと行ってくる」
「え、どうしてお前が? あれって噂の……」
サトの言葉を最後まで聞かずに、海は廊下へ出て行った。周りの生徒が注目する中、色素の薄い少女の前に立つ。彼女は昨日と変わらない様子で「どうも」と言った。
「進道君、大助から伝言を預かってきたよ」
視線やひそひそ話を気にするようなそぶりは一切なく、亜子は丁寧に折りたたまれたメモを差し出した。海はそれを一瞥してから、眉を寄せて相手を見た。
「どうして皆倉先輩が? 一力先輩が直接来ればいいじゃないですか」
「大助だと、先生方に変な誤解されちゃうから。そうすると、進道君にも迷惑がかかっちゃうかもしれないじゃない。だからわたしが代わりを頼まれたの」
「これだけ注目されれば、どっちでも変わらないと思います」
海は亜子の手に触れないようにしてメモを受け取ると、会釈だけして、すぐに教室に引き返した。ちらりと振り返ると、亜子が不思議そうに首をかしげているのが見えた。けれども用事が済んだらしい彼女は、そのうちどこかへ行ってしまった。二年生の教室へ戻ったのだろう。
メモをポケットに入れて、再び席についた海に、視線はまだ注がれていた。それを避けるようにしてサトのほうへ向き直ると、彼もまた興味深そうにこちらを見ていた。
「おい、今の人って、噂の金髪美人だろ? 進道に何の用事だったんだよ?」
海の返事を待っているのは、サトだけではない。教室中の人間が、どんな答えが返ってくるのかと耳をそばだてていた。海がメモを受け取った場面を見た者もいるだろう。大勢の好奇を一身に受けながら、海は適当な答えを探していた。
「……落し物を届けてくれたんだよ」
「何か落としたのか?」
「うちの門下生から預かったメモ。俺の名前が書いてあったから、わざわざここまで持ってきてくれたんだ」
これでサトには通じただろう。彼には亜子との会話は聞こえていないはずなので、これでいい。しかし周囲の人間の一部は怪訝な顔をしている。話が聞こえていれば、今の言葉が嘘だということは明らかだった。
「そういえば進道、昨日二年生の教室に行ったらしいけど……」
「このあいだから二年生に目をつけられてるみたいだし、呼び出し状でももらったんじゃねえの?」
飛び交い始める好き勝手な憶測に、海はうんざりして溜息をついた。ほら見ろ、結局誰が来たって変わらないじゃないか。そう思うも、口にはしない。時間が経てば忘れてくれるだろうし、他の話題ができればそちらへ飛びつくだろう。噂など、放っておけば自然と収まるものだ。
午後の授業が始まってから、海はこっそりとポケットからメモを取り出した。ぴったりと二つ折りになっていたそれを開くと、きれいとは言いがたい、むしろ乱暴な文字が目に入った。なんとかそれを読んで意味を理解すると、海はメモを千切り、ペンケースの中に入れた。そして授業が終わってから、消しゴムのカスと一緒にゴミ箱へ捨てた。まさかゴミ箱をあさりパーツを拾い集めてまで、中身を見たがる者はいないだろう。
次の日は学校が休みで、剣道教室も午前だけだった。午後になると、海は自転車を走らせ、礼陣神社へと向かった。自転車をとめ、境内へ続く石段を上ると、慣れ親しんだ景色が見える。メモの差出人は、そこで待っていた。
「おっす、進道」
大助はこちらへ右手を振りながら、左手は子供の姿をした鬼たちに遊ばせていた。鬼たちも海に気づくと、手をめいっぱい振って迎えてくれた。
「こんにちは。俺が来るまで、鬼と遊んでたんですか?」
「ああ。こいつらがはしゃぎまくって、もう疲れたぜ」
『大助は力持ちだから、おんぶもだっこもしてくれるよ』
『たくさん遊んでくれるんだよ』
どうやら大助は鬼たちにとても懐かれているようだ。調べたとおりなら、彼は六歳になる前には鬼の子になっていた。鬼たちの扱いには慣れているのだろう。とはいえ、子供の姿をした子鬼たちの相手をすることは、人間の子どもに対するそれとあまり大差はない。同じく幼い頃から鬼の子として生活してきた海も、そのことはよく知っている。
「それじゃ、俺は海と話があるからな」
『うん、また遊んでね』
『今度は海も一緒に遊ぼうね』
大助が優しく鬼を離すと、彼らは一目散に駆けていった。それを見届けてから、大助は海を見て、社務所を指差した。
「話はあっちで。姉ちゃんと神主さんが待ってる」
海が大助について社務所へいくと、神主はいつもののんびりとした調子で迎えてくれた。中へ通されると、ちゃぶ台の上に湯飲みが二つと、おにまんじゅうが入った浅い鉢が置いてあるのが見えた。ちょうど海たちが座ったところで、女性が湯飲みを二つ載せた盆を持って現れた。
「こんにちは、進道君。お昼はちゃんと済ませてきたかしら?」
快活そうな笑顔を見せる彼女は、この神社の巫女であり、大助の姉である人物だ。先日鬼追いをしていたときとは違った雰囲気を持っている。彼女は海と大助の前に湯飲みを置くと、自分も正座し、頭を下げた。
「あらためまして、大助の姉の愛です。どうぞよろしく」
「進道海です。こちらこそよろしくお願いします」
海も頭を下げ、それから真剣な顔で愛を見た。彼女はこれから、海の先輩になるのだ。
昨日海が受け取ったメモは、実に簡潔な内容だった。「姉ちゃんの許可が出た。鬼追いについて話があるから、明日神社に来い」という、たったそれだけ。時間の指定はなかったので、稽古が終わってから来ることにした。
すぐに鬼追いに参加する許可がおりるとは思っていなかったので、正直なところ、海はかなり驚いていた。ここに来るまでのあいだも、「やはり鬼追いはしなくていい」などという話をされるのではないかと疑っていた。けれども、愛は笑顔のまま言った。
「そんなに緊張しないで。鬼追いはもちろん真剣にやるけれど、ここではリラックスして、お茶でも飲みながらお話しましょう。これから協力していくんだから、まずは気軽にお喋りしたいわ」
「……では、お言葉に甘えて」
愛の口ぶりから、海はすでに自分が鬼追いの一人として扱われていることを確認した。もう疑う必要はないらしい。正座は崩さないまま、しかし淹れてもらった茶はいただくことにした。以前神主が愛の作る料理を褒めていたが、彼女は茶を淹れるのもかなり上手なようだった。
海が一息ついた頃を見計らって、神主が「それでは」と切り出した。
「海君に、あらためて鬼追いについてお話ししましょう。大まかなことは大助君から聞いているようなので、話が重複してしまうかもしれませんが、ご了承ください」
「かまいません。お願いします」
「……まず、鬼追いとはどういうものなのか説明しましょう。ひとことで言えば、これは鬼たちをなだめるためのものです」
大助もそう言っていた。鬼追いの対象となる呪い鬼は、感情が爆発している状態ではあるが、結局は礼陣にいる他の鬼と同じものだ。人間の喜怒哀楽と鬼の喜怒哀楽に、大きな違いはない。悲しみや怒りは、なだめてやればある程度は落ち着く。
「悲しみや怒り、憎悪などを抱え続けることは、人間にも鬼にも同じく毒となります。呪い鬼になるというのは、その毒を外へ放出しようとしていることです。けれどもそれが周囲に悪影響を及ぼしてしまう可能性もあるので、鬼追いによってなだめているのです」
「正確には、鬼追いでなだめ、神社へ帰してから鎮めているの。私たちの役目は、呪い鬼を落ち着かせて、神社へ導くところまでよ」
本来は、鬼が自ら神社へ行き、心を静めるのが最も良い。しかし呪い鬼になってしまうと我を忘れて町を徘徊し、自力で神社へ行くことができなくなってしまうのだという。そこで鬼追いが彼らを神社へ帰してやり、その後で神主が鬼の呪いを鎮める。そうして呪い鬼は、もとの無害な鬼に戻る。
「なだめ役である鬼追いを愛さんに任せているのは、彼女が鬼を癒すことのできる、強い力を持った鬼の子だからです。しかし彼女では、呪いを持って我を忘れ、凶暴化してしまった鬼に対抗することが難しい。そこで四年ほど前から、鬼を怯ませる役として、大助君が手伝ってくれるようになりました」
鬼追いの基本となる手順は、呪い鬼をなだめてから神社へ帰すというものだ。しかし多くの場合、呪い鬼は凶暴化してしまっている。そこでなだめる前に、衝撃を与えて怯ませる。それが大助の、そしてこれから海が負うことになる役目だ。つまりは鬼追いの中で、最も危険の伴う位置になる。
海は息を呑んだが、神主は緊張を和らげるように、ふんわりと微笑んだ。
「もちろん、鬼たちが呪いを溜めこむことのないよう、こまめに心のケアをしてあげることが重要です。鬼追いというのはそのケアが行き届かなかった鬼たちへの最終手段であり、心の痛みに気づいてあげられなかったことへの責任を果たすことなんです。呪い鬼になる前にそのもととなりそうな悩みや不安を解消してあげることが、大鬼である私の、そして鬼の子である君たちの、一番大事な役割です」
鬼の子が鬼たちと関わり、彼らの抱える心の痛みを和らげることができれば、鬼追いをするに至らなくて済む。望むべきはこちらであって、呪い鬼になってしまってからではむしろ対応が遅くなってしまったのだといえる。そして対応が遅れることは、普通の鬼たちや人間たちの生活にも影響を及ぼしてしまう。
「鬼追いをする必要がある場合は、速やかに行います。呪い鬼が自分の力をコントロールできずに他者を傷つけてしまうことも、悲しいことですがありえます。ですから呪い鬼の気配を感じたら、すぐに愛さんに報告してください。そしてできる限り、その暴走を食い止めてください」
鬼たちは不思議な力を持っている。それは空を飛んだり、とても重いものを簡単に持ち上げたりといった、人間一人では難しいことを容易にやってのけるものだ。
また鬼たちは、いずれも自分たちが自由にふるまうことのできる空間を周りに展開することができる。本来は誰にも邪魔されることなく休養をとるためなどに使われる力だ。呪い鬼はその空間をところかまわずつくりだし、その中で大暴れしてしまう。鬼の子ならばそこに入りこんでしまっても脱出が可能だが、そうではない人間は空間に巻き込まれると、その中で迷ってしまう。そうなってしまった人々を助けるのも鬼追いの一部だと、神主は言う。
「もしも人間が呪い鬼の力に巻き込まれてしまった場合、その人間には呪い鬼のことを誰にも言わないようにと伝えてください。大抵の人間は、これが鬼との初対面になってしまいます。恐怖の記憶ばかりが先行して噂になってしまったら、人間たちは怯えて、鬼たちは悲しんで自らの存在を恨みます。そうすると、呪い鬼は際限なく増え続けるでしょう」
神主の言葉に、海は眉根を寄せる。人間に口止めをするだけでは、解決できない問題があるということにすぐに気づいたのだ。黙っているわけにはいかなかった。
「じゃあ、呪い鬼のせいで恐怖を感じた人間はどうすればいいんですか? 一生その恐怖を誰にも話さず、抱えこんでいけっていうんですか?」
海の言葉を聞いた愛がうつむいた。大助は頭をかきながら黙っている。海は彼らを見て、溜息をつきかけた。
しかし神主はただ冷静に告げた。
「人間の心の傷を癒すのも、私や鬼の子たちにしかできません。君たち鬼の子は、本来の鬼が持つ優しさや朗らかさを知っています。そして私は当の鬼です。鬼たちに対するのと同じく、人間たちが不安や恐怖を抱えこまないようにしていくことも、私たちの役割です」
真っ直ぐに自分を見つめる神主の瞳を、海はじっと見つめ返した。そして小さく息を吐いてから、ぽつりと呟いた。
「鬼の子の役割は随分多いんですね」
神主は静かに返した。
「ええ、申し訳ないことですが」
神社からの帰り道、海は自転車を押して歩いていた。まだ夕飯の準備まで時間があったこともあり、ゆっくり帰ろうと思った。
すれ違う人々の中には顔見知りも多く、海の姿を見つけては挨拶をしてくれる。人間もいれば、鬼もいる。海は彼らに笑顔を作って返事をしながら、心の中では別のことを考えていた。
鬼追いは鬼の子にしかできない。鬼が呪いを持つことを防ぐのは、鬼と鬼の子にしかできない。呪い鬼によって傷つけられた人間を癒すことも、鬼の子にしかできない。この町には人間と鬼の二種類が住んでいると昔から認識してきたが、あらためて考えると、どうやらそうではないようだった。
海は思う。この町には人間と鬼と、そして鬼の子がいる。人間と鬼の両方の負の感情を、鬼の子が一手に引き受けている。それでは鬼の子を癒すものは、一体何なのだろう。
「好きで鬼の子になったわけじゃないのに……」
危うく声に出してしまいそうになったその言葉を、海ははっとして呑みこんだ。こんなことを考えていては、鬼追いはできない。鬼を癒す手伝いなどできない。理不尽に見えることも引き受けることができなければ、あるいは理不尽に目を背けてしまわなければ、この役目は負うことができないのだろう。それが海の出した、ひとまずの答えだった。
とにかくは、鬼追いをすると決めたのだ。それが自分を導いてくれると思ったから、そうしようと思ったのだ。もう後には引けないと、海は自転車のハンドルを握る手に力を込めた。