心道館と闘い
心道館道場の稽古の日には、人間も鬼もみんな一緒に集まってくる。小中学生の門下生たちに混じって、子供のような体格の鬼たちがわらわらとやってきては、人間と行動を共にする。はじめが号令をかけたならそれに従い、話をすれば元気な返事をする。ほとんどの人間には鬼たちの姿を見ることができないのだが、まるでそんなことはないというふうに振舞っている。
もちろん海にはそんな鬼たちが見えているので、彼らが道場に来れば、人間の子供たちにするのと同じように挨拶をする。他の子供たちには海が何もないところに声をかけたり、空中にタッチしているように見えるのだが、一向に構わない。鬼が見えない子供たちにも、鬼というものがこの町に存在しているらしいという認識だけはあるのだ。だから彼らは海の行動を当たり前のものとして見ている。
「今日も鬼がたくさん来ているみたいだね」
海の様子を見て、「普通の子供」である和人が言う。そしてその隣に立った小さな女の子が、海がうなずく前に胸を張って返事をした。
「そうだよ。今日はこのあいだよりもちょっと多いみたい」
女の子は海より三学年下の小学生で、根代八子という。昨年心道館に入門した鬼の子だ。鬼を見ることができるとあって、海とは話が合う。
「やっこちゃんも、子鬼を連れてきてたからね」
「連れてきたっていうか、勝手についてきたっていうか……」
鬼に親しまれているのか、彼女のそばにはよく子鬼たちがいた。日曜日になると祖母とともに神社の掃除に行くというので、鬼たちから感謝されているのかもしれない。海は八子と鬼たちのやりとりを、いつも微笑ましく思っている。
そして、どうやらそれは鬼が見えないはずの和人も同じらしい。八子が鬼に話しかけているのを見ては、そこには何もないように見えているはずなのに、優しいまなざしを向けていた。
「そういえば海、例のいじめはどうなった?」
和人は八子を眺めていたと思っていたら、不意に海へと話を振った。「いじめ?」と八子が首をかしげたので、海はまず「なんでもないよ」と返し、小学生の集まっている場所へ行くように促す。それから、いじめ目撃の続報を簡単に語った。つまり、上級生に呼び出され、道場の門下生に手を出してやろうかという話をされ、それを撃退しようとしたという流れだ。和人はそれをうなずきながら聞いていた。
「なるほど、そういうことになっていたのか。でも、今日はみんな無事に来ているみたいだから、何も問題はなかったようだね」
「はい。一応周囲を見回ってはみましたけど、異常はありませんでした」
「僕も少し気をつけてみるよ。月謝狙いなら、後になって来るかもしれない」
何もないことを願いたいが、もしものときに和人が手伝ってくれるのなら心強い。海は和人に礼を言ってから、その日の稽古に入った。
さらには休憩時間、やはり海たちの会話が気になっていたらしい八子がやってきた。
「海にい。もしいじめがあったら、わたしも闘うからね」
八子も小さいなりに、心道館の門下生がよく不良少年たちに絡まれることを気にしている。彼女も心道館道場を大好きでいてくれて、道場のためになるのならなんでもしようという気概を持っていた。海はそれが嬉しい反面、やはり後輩にまで苦労はかけたくないと思っているので、ただ八子の頭をなでて微笑んだ。
「ありがとう。気持ちだけで十分だよ。もしいじめをするような中学生や高校生を見つけたら、やっこちゃんはすぐに報せてくれるだけでいい。危ないから、絶対に手を出さないこと」
「うーん……わかった、そうする」
八子も、他の門下生も、良い子たちばかりだ。ここに来る鬼たちも、子供たちのそんな素直さに惹かれてやってくる。それを傷つけようとするものを、海は許すつもりなどない。
稽古が終わり、海は門下生を送り出すついでに周辺の見回りをすることにした。帰りの子供たちが中高生の被害にあうことはあまりないが、用心するに越したことはない。
「それじゃ、僕は中央地区方面の様子を見ながら帰ることにするよ。海も気をつけるんだよ」
「ありがとうございます、和人さん。さようなら」
和人と別れ、海は遠川地区の東側を大まかに歩いた。あまり帰りが遅くなると自分がはじめに心配されてしまうため、西側へ行ったり、路地をくまなく歩いたりすることはできない。周囲に小学生の姿が見えなくなったら、もう安全だと判断して帰ることにした。
子供たちがよく立ち寄る駄菓子屋も、すでに店じまいしている。寄り道などせずに、まっすぐ家に帰っているだろう。海はほっとして、駄菓子屋の前でくるりと振り返り、もと来た道を戻ろうとした。
異変があったのは、その瞬間だった。突然ぞくりと寒気が走り、肌が粟立つ。さっきまで木々を揺らしていた風の音がぴたりと止んだかと思うと、他の物音も消え去った。まるでこのあたりには誰も住んでいないかのように、人の気配がしない。普段なら猫の一匹でも歩いているような路地だが、その影も見えない。
海は慎重に周囲を見渡した。春の日の夕方なのに、家々からは灯りが消え、夕飯の匂いもない。ただ、嫌な感じだけがこちらへ近づいてくるのがわかった。それが来る方向がわかったとき、その一点だけをじっと見つめた。
角をゆっくりと曲がってくる、何者かが姿を現した。墨汁のように真っ黒な体に、蓑のようなものを纏っている。大きさは人間の大人くらいだが、その頭には長く鋭いつのがある。間違いなく鬼だった。けれども、それが持つ雰囲気は、さっき道場に集まっていた陽気な鬼たちのものとはまったく違う。近づくごとに冷や汗がこめかみから伝ってくるような、禍々しい雰囲気だ。
海はこれが何であるか、十分に理解していた。これからそれが周囲に及ぼすであろう影響も、いやというほど知っていた。だからそれを睨みつけ、とびきり低い声色で語りかけた。
「ここからおとなしく去れ」
鬼はその声に反応するように足を止めた。海の視線に射抜かれたように動かなくなり、うう、と低く声をもらした。どうやらこちらの意思がわずかでも通じるらしい。海の知る限りの「まだましなパターン」だ。
相手を睨んだまま、海はそちらへ近づいていった。こぶしを握りしめ、胸のあたりまで持ち上げながら、ほんの少しだけ早足で。そうして動けない鬼の真正面に来ると、そのこぶしを躊躇なく鬼の腹に叩きこんだ。
『ぐうう!』
音の低い和太鼓を鳴らしたようなうめき声が、海の頭の中に響く。鬼はよろけて、そのまま地面に尻餅をついた。自分よりも低い位置まできたそのつのを、海は片手で一本ずつ掴み、手に力をこめながら言った。
「俺が手を離したら、力を抑えてここから去れ」
鬼は低くうなりながら、身をよじって海の手から逃れようとした。鬼が恐怖を感じているのがわかると、海はぱっと手を離した。
いつもなら、これでどこかへ逃げていくはずだった。そのあと鬼がどうするのかは知らなかったが、周囲から消えた音や気配が戻ってくるので、これで解決するのだろうと思っていた。ときどきはこちらへ攻撃を仕掛けてくる鬼もいるが、それらは殴るか竹刀で叩くかして追い払っていた。
ところが、この鬼は海の予想を超えていた。つのから手が離れたことがわかると、自分の爪を長く伸ばして、素早く海に襲いかかってきた。こちらが反撃する隙は一向に見せず、ただがむしゃらに鋭い爪を繰り出してくる。
「竹刀持って来ればよかったな……」
今の海には、素手以外の武器はない。武器があったとしても、相手の動きを止められる確証はない。これまで海が出会った禍々しい鬼の中で、相手は格別に速く動いていた。走って攻撃をかわすだけで精一杯だ。
「こうなったらうちまで逃げるしかないか」
家までの最短の道は鬼に塞がれてしまっている。少しばかり遠回りになってしまうが、なんとかして帰り着くことができれば、鬼から逃れることができるはずだった。幼い頃、闘う手立てが何もなかったときは、急いで家や神社に逃げこんだものだ。
海は鬼に背を向け、しかし時折振り返ってついてきているかどうかを確認しながら、家を目指して走った。鬼はまるで四足歩行する動物のように腕と足を使って追いかけてきた。その差は心なしか、どんどん縮まっているように見える。いや、確実に鬼はこちらへ近づいてきていた。家まで逃げ切れるかどうか、海の脳裏に不安の二文字がよぎったそのときだった。
振り返った視線の先に、もう一人の人間が現れた。さっきまで他に誰かがいる気配などなかったのに、彼は突然細い路地から飛び出してきた。そして爪を伸ばして襲いくる鬼に向かって、真っ直ぐに右手を突き出した。その形は、しっかりと握られたこぶしだ。彼は素早く屈んで鬼の爪をかいくぐり、そしてまた立ち上がった。こぶしは鬼の顎に、下からきれいに入っていた。
数秒で展開されたその一連の流れを、海は立ち止まり、ぽかんと口を開けたまま見ていた。鬼はばたりと地面に倒れ伏し、腕と足をでたらめに動かしてもがいている。すぐには起き上がりそうにない。
鬼を倒した人物は、自分が来た方向に向かって「姉ちゃん」と声をかけた。それに導かれるようにして、女性が路地から現れ、鬼のそばに屈んだ。一見して危険な行動だったが、鬼は不思議と彼女に襲いかかることはなかった。
「心が傷ついてしまったのね。悲しくて、怖くて、どうしようもなかったのね」
女性がゆっくりと言葉を紡ぐ。その声色はとても優しく、離れて聞いている海の胸のざわつきも落ち着かせた。
「神社へ帰って、大鬼様に癒してもらいましょう。あなたの悲しみを、晴らしてもらいましょうね」
そう言って女性は、手に短冊のようなものを持ち、それを鬼に触れさせた。途端に鬼の体は柔らかな光に包まれ、ふっとその姿を消した。
周囲に音や人の気配が戻ってきたのは、その直後だった。風が木々を揺らし、路地を猫が歩き、明かりの灯った家々からは夕飯の匂いが漂ってくる。はっと我に返った海に、先ほど鬼を倒した人物が近づいてきて、にかっと笑った。
「大丈夫か? 進道」
その笑顔を見るのは、声を聞くのは、これで二度目だ。いつかはまた会うだろうと思っていたが、こんな再会は想定外だった。
「……一力先輩、どうして?」
「どうしたもこうしたもねえよ。お前は無事かって訊いてんだ」
「無事です……」
「なら、よし」
こちらの質問には答えないまま、大助は一緒に来た女性のほうへ戻っていった。海を見てぺこりと頭を下げた女性は、何度か会ったことがある、礼陣神社の巫女だった。
「じゃあな、進道。気をつけて帰れよ」
海の疑問を放置したまま、大助と巫女は並んで歩いていってしまった。あの方向は、遠川地区の西側だ。たとえ追いかけて質問をし直しても、時間が邪魔をして、満足な答えは聞けないだろう。海も早く帰らなくては、はじめを心配させてしまう。
けれども帰り道で、そして家に着いて夕食の準備をしていても、すっかり寝る準備をして布団に入ってからも、海の脳裏にはあの光景が焼きついて離れなかった。鬼の攻撃をあっさりとかわし、こぶしを叩き込んだ大助の姿。巫女が倒れた鬼に語りかけ、消してしまったあの瞬間。全ての行動が手慣れているようだった。彼らはいったい何者なのだろうか。ただの鬼の子ではないことだけはたしかだ。
布団をかぶりながら、海は明日の予定を決めた。まだこちらの問いに答えてもらっていないのだから、それを求めに行かなければならない。