夏祭りとこれから
幼い頃から何度も見る夢がある。それはとても恐ろしく、苦しい夢だ。だが、そこから覚めれば一日が始まる。唯一無二の、貴重な一日が。
顔を洗い、服を着替え、住んでいる大きな日本家屋の外に出る。そしていつものように、家の周りを掃き清める。それが終われば満足げにうなずいて、周りをぐるりと、確かめるように見渡した。
目に映る景色に、異変はない。だが、方々に見える鬼たちは、みんなどこか浮き足立っているように見える。こちらへ手を振る姿も、「おはよう」という声も、わくわくする気持ちを抑えきれない様子だ。そんな彼らに、海は微笑んで返事をする。
「とうとう今日は夏祭りだな。一緒に、たくさん遊ぼう!」
鬼たちは嬉しそうに目を輝かせ、小さいものは海に飛びついた。今年もこの日を迎えられたことを、共に過ごせることを、誰もが喜んでいた。
夏祭りは、礼陣最大のイベントだ。町中が鮮やかに飾られ、はっぴを着た人間たちが神輿を担いで練り歩く。町の外からも大勢の人々がやってくるので、この日の礼陣はたいそう賑やかになる。夏祭りは一年で一番、人が多くなる日でもあった。もちろんのこと、鬼たちも参加する。普段から町にいる者だけでなく、鎮守の森に潜んでいる者の一部もやってきて、祭りの空気を感じるのだった。
「海。お神輿を担ぐなら、早くしたくをしなければならないんじゃないかい?」
「あ、そうでした。……それじゃ、またあとで」
はじめが呼びに来たので、海は鬼たちと一旦別れ、家に戻っていった。一緒に遊ぶのは、中学生神輿が終わったあとだ。学区ごとに一つずつある神輿を、有志で担いで神社へ運ぶのだ。小学生たちのそれよりも大きめにできている神輿を担ぐのを、海は楽しみにしていた。急いで、けれども落ち着いてしたくを終えてから、出かける前にはじめに向き直った。
「父さん、いってきます」
「楽しんでおいで。僕も見に行くからね」
家族に見送られて家を出ると、すっかり祭り気分になった鬼たちや人間たちとすれ違う。その度にしっかりと挨拶をして、集合場所へ行くと、そこにはすでに揃いのはっぴを着た担ぎ手たちが待っていた。
「進道、遅いぞ。オレなんか走りこんでから来たのに」
その中にはサトもいた。海と同様、彼も初めて担ぐ中学生神輿にわくわくしているようだった。
「途中でばてるなよ、サト。今日は暑くなるって、さっき天気予報で言ってたぞ」
「大丈夫だって。……お、一力先輩たちも来た」
サトが「おーい」と手を振るのと同時に、海は振り向いた。大助と亜子がこちらへ向かってくるのが見える。彼らだけではない。見覚えのある少年たちが、その後に続いていた。海は思わず大助に駆け寄って、挨拶よりも先に問い詰めた。
「大助さん、この人たち……」
「ああ、こいつらも神輿担ぎたいって」
大助は簡単に言うが、海にとってはにわかに信じがたいことだった。やってきた彼らは、海を脅し、大助に万引きの罪をなすりつけようとし、神社にいたずらをした、あの少年たちだったのだから。なんと亜子をいじめていた少女と高校生たちを除いた全員が、同じはっぴを着て、大助についてきていたのだ。
「また変なことにならないでしょうか」
海がこそりと耳打ちすると、大助は首を横に振って言った。
「ならねえよ。こいつらはみんな、鬼に詫びに来たんだ」
彼らは呪い鬼を「ばけもの」と認識していた。その「ばけもの」にもう二度と会わないよう、礼陣の「神様」である鬼に、神社を汚したことを謝りたいと考えたらしい。むしのいい話だと海は思ったが、大助はそれを受け入れている。
「担ぎ手は多いほうがいいしな。それに今日は人目が多い。こいつらも大それたことはできねえだろうよ」
「……そうですね、わかりました。今日だけは俺も、その人たちを許すことにします」
完全に信用したわけではない。だが、大助の言うことも一理ある。なによりせっかくの祭りなのだ、余計なことは考えずに楽しみたい。大海原のような広い心はまだ持てそうにないが、少しだけ寛容になろう。そう結論を出した海の頭を、大助はぐしゃぐしゃとなでてくれた。
礼陣の町を、神輿行列が通る。大人たちの担ぐ大神輿に、子供たちが運ぶ小さな神輿がずらずらと続いていく。沿道でそれを見守る人々は、手を合わせたり、歓声をあげたりする。それに負けないくらいに、担ぎ手たちのかけ声が響き渡る。遠川中学校の生徒たちも、全員が唄っていた。かつて神社にいたずらをした少年たちまでも、幼い頃から慣れ親しんだ言葉を唱える。彼らもまた、礼陣の子供たちであることには変わりないのだ。
人間たちの列に、鬼たちも入りこむ。一緒に声を合わせたり、神輿を少しだけ持ち上げてみたりして、共に町を歩く。それが見える鬼の子も、見えない人間たちも、同じ町に暮らし、この良き日を過ごす仲間だ。
行列は礼陣神社の石段前で一旦止まり、大神輿だけが境内へと運ばれていく。子供たちの神輿は、祭りのあいだ、中央地区の大広場で展示される。中学生神輿も、そこまで担いで終了するのだ。大神輿を見送ったあと、小さな神輿の行列は大広場へと進んでいく。終着地には大人たちと、子供たちを迎えるために集まった鬼たちが待っていた。
徐々に気温が上がる中、神輿を担いできた子供たちを、大広場でたくさんの人々が歓迎してくれる。冷たいジュースと菓子が配られ、それをみんなで休憩しながらいただく。それまでにあった諍いのことなど、この頃には忘れてしまっていた。同じ道を歩き、力を合わせてきた仲間として、互いに「お疲れさま」と言い合った。海と神社にいたずらをした少年たちも、多少のぎこちなさはあったが、缶ジュースで乾杯をした。
神輿行列が終わったあとは、出店をめぐる。約束していたとおり、海はサトと大助、亜子と一緒に町を歩いた。人間や鬼とすれ違い、ときには知り合いとも挨拶を交わしながら、美味しい食べ物や愉快な遊びを楽しんだ。
「あ、海にい。もう神社には行った? 大神輿、すごかったよ!」
通りすがりに、友達と歩いていた八子が声をかけてくれた。
「海、初めての中学生神輿はどうだった? またあとで、ゆっくり話そうね」
和人は同級生たちと出店めぐりをしていた。それでもちゃんと海を見つけてくれた。
「海にい、なんだか去年より楽しそうだね。いいことあった?」
祖父と手を繋いだ春が、すれ違いざまにそう尋ねた。海は自分の頬が緩んでいることに気づいて、なんだか照れくさくなった。
たくさんの人々に囲まれ、触れ合いながら、海たちは神社の境内へやってきた。両手に出店で買った品々を抱え、どこで休もうかとあたりを見回す。すると突然、海の腰のあたりに何かがぶつかってきた。
『海、祭りを満喫しているようだな』
「なんだ、子鬼か」
後ろから抱きついてきたのは、おかっぱ頭の子鬼だった。大助もそれに気づき、しゃがみこんで彼女の頭をなでた。
「お前も楽しそうだな」
『うむ、祭りは何度あっても良いものだ。町中に明るい気が満ちて、鬼も力を蓄えられる。なにより人間たちの笑顔を見られることが、私たちにとってはとても幸福だ』
祭りの日は、呪い鬼は出ないという。この日は鬼たちの悲しみやつらさが浄化されていく日でもあるのだ。そして心が晴れるのは鬼だけではない。人間もまた、幸せを得ることができる。現に町中の人々が笑っている。鬼の子には、人間も鬼も入り混じって楽しんでいる姿がよく見える。
これは礼陣に鬼がやってきて以来、ずっと続いてきた光景のはずだ。だが、この祭りにさえ心を解かされない者もいた。多くの人々に幸福をもたらす祭りでも、葵鬼の呪いは祓うことができない。彼女の恨みは、それほどまでに強く重いものなのだ。それをふと考えてしまい、海はほんの少しだけ胸が痛んだ。
「祭りが終われば、また鬼たちはつらい気持ちを抱えるようになるのかな。そうして呪い鬼になって、俺たちが鬼追いをして……そんな日々が始まるんだろうか」
大助と子鬼にしか聞こえないくらいの声で、海は呟く。だが、聞いていた二人は明るい笑顔を浮かべたままだった。
「事前に防げることだってあるだろ。俺たち鬼の子には、それができる」
『人間も鬼も、心の痛みを抱えてしまうことを避けるのは難しい。だが、それに気づいて和らげてやることはできる。海、私はお前にそれが可能だと信じているぞ』
その期待に応えられるかどうかは、海にはわからない。やはり望まれるほど心を広く持てるとは思えないし、葵鬼を消すという意志は変わらない。鬼の子になったことを不公平だと思うのは、好きでなったのではないと否定することは、きっとこれからもあるだろう。
それでも、彼らはきっと海を許してくれる。受け入れてくれる。だって、これはそんな縁なのだ。
「進道、何してるんだよ。はぐれちゃうだろ」
「大助、愛さんが社務所使ってもいいって言ってくれたよ」
人を掻き分けて、サトと亜子が呼びに来た。いつの間に交渉したのか、社務所の使用許可までもらってきたらしい。「今行く」と答えると、二人とも待っていてくれた。
『では、引き続き祭りを楽しむがよい。神主と愛に会ったら、よろしくな』
「ああ。またな、子鬼」
「そっちこそ、思いっきり遊びなよ」
子鬼に持っていた菓子をいくつか渡してから、海と大助はサトと亜子と共に社務所へ向かった。
社務所には巫女服姿の愛と、いつもどおりの袴姿でくつろぐ神主がいた。さっきまで儀式用の衣装を着こんでいたはずの神主だが、「休憩中ですから」と言い訳をして、楽な格好をしているようだった。
「随分と買いこんできましたね。愛さん、お茶を」
「はいはい」
愛が茶を淹れに行った隙に、海は抱えていた荷物からおにまんじゅうの箱を取り出した。夏祭り仕様の特別なおにまんじゅうは、毎年この時期にしか食べられない珍しいもので、もちろん神主の大好物だった。
「これ、神主さんに。いろいろお世話になりっぱなしだったので」
「ありがとうございます。せっかくですし、今からみんなでいただきましょうか」
神主は穏やかに微笑み、箱を受け取ってくれた。大助と亜子は愛を手伝いに行き、サトは社務所の中を物珍しそうに見ている。おにまんじゅうの箱を開ける神主を見ながら、海はぽつぽつと話し出した。
「あらためて、鬼封じをありがとうございました。先日会ったときはお礼ができなかったので、今日こそしっかりしようと思っていたんです」
「あれは私の仕事ですから、気にしなくてもいいですよ。……それに君は、鬼封じには納得していないでしょう?」
やはり神主は、海の思いを見通していた。ごまかさずにうなずくと、彼は微笑んだまま「いつかは、」と続けた。
「君も納得できて、葵さんも救えるような、そんなことができればいいのですが。誰も悲しまない方法を見つけるというのは、とても難しいですね」
それまでは、君の考えを否定することなどできません。神主がそう呟いたとき、ちょうど茶が運ばれてきた。
「何にせよ、これからのことは私にもわかりません。もしかしたら近いうちに、大きな変化が訪れるかもしれません」
「……そんなことが、あるでしょうか」
「きっとありますよ。さあ、お茶にしましょう」
菓子や飲み物をちゃぶ台いっぱいに広げながら、海は神主の言葉を心の中で繰り返す。大きな変化が訪れるかもしれないと、彼は言った。けれどもそれなら、もうたくさんあった。だからこれからも、きっとある。今を変えられるような何かが起こる。
「海、食おうぜ。せっかくたこ焼き買ってきたのに、冷めちまう」
「はい!」
大助が、サトが、亜子がいる。神主と愛がいる。はじめがいて、春がいて、和人や八子たち心道館門下生がいる。この町の人間と鬼と、結んだ縁がここにある。
これからも、つらいことがいくつも襲ってくるかもしれない。呪い鬼だって、現れ続けるだろう。けれどもそれに負けないだけの力を、海は手に入れた。育つのは、これからだ。