父と名前
襖が再びぴたりと閉じられるのを、海は大助と並んで、外から見た。今年の鬼封じが終わったのだ。何もなければ、あと一年は、この封印が完全に解かれることはない。
「二人とも、居間ではじめ君と愛さんが待っています。傷の手当をしてもらいなさい」
神主がそっと背中を押した。その手は温かくて、熱がじんわりと体に広がっていくようだった。途端に、海は力が抜けて、その場にぺたりと座り込んでしまった。のども手もずきずきと痛んだが、溢れてきた涙はそのせいではない。生きてここにいられるということに、心から安堵したのだった。
「海、また運んでやろうか」
大助が手を差し出す。海は首を横に振り、その手をとった。
「自分で立てます。歩いて、居間まで行けます。だってここは、俺の家なんですから」
ゆっくりと立ち上がり、海は大助の手を握ったまま、居間へ向かった。一度だけ振り返って、閉じられた襖を見たが、すぐに前へ歩き出した。
神主の言うとおりに居間で待っていたはじめは、海たちの姿を見るなり、こちらへ駆け寄ってきた。
「海! こんなにけがをして……!」
彼はまるで一気に歳をとってしまったかのような、疲れた表情をしていた。どれだけ心配し、けれども何もできなかった自分を悔やんでいたか、海にも一目でわかった。危ないことをして、と叱られても仕方がない。一発くらい頬を叩かれてもいい。そう思った海を、はじめは大助ごと抱きしめた。
「おかえり。よく帰ってきてくれた」
心の中に沁みこんでいくような言葉だった。海はそっと手をはじめの背中にまわし、彼を抱きしめ返した。
「ただいま戻りました。……心配かけてごめんなさい、父さん」
けがも痛みも忘れて、温もりを感じる。危うく、この優しい人を、この家にたった一人で遺してしまうところだった。いつも迎えてくれるやわらかな声を、聞けなくなるところだった。
はじめと愛が手際よく手当てをしてくれたあとは、海も大助も絆創膏や湿布だらけになっていた。互いの姿がなんだかおかしくなって笑いそうになったが、なんとか抑えた。こんなにけがをして戻ってきたのだから、笑っている場合ではないのだ。
「大助の様子がずっとおかしかったから、どうしたのか問い質したの。それで海君が何をしようとしていたかは知っていたわ。本当は力ずくでも止めたかったんだけどね」
愛はそう言ったが、それを実行しなかったのは、大助が彼女を説得したからだった。無理に海を止めて、もやもやした気持ちを抱えたままになるのはだめだと、力説したらしい。そのかわりに海を必ず連れて帰るとまで言って。
「同じことを、大助君は僕にも約束してくれたんだ。そしてちゃんと果たしてくれた。大切な我が子のことを想ってくれて、大助君にはどれだけ感謝しても足りないよ」
はじめは大助に礼を言いながら、海の肩をしっかり抱いていた。手が震えているのがわかって、これ以上の無茶はできないなと、海は思った。ここまで育ててくれた人のために、生かしてくれた人のために、当分はおとなしくしていなければならない。
どれだけ傷ついても、周囲に心配をかけても、海は「葵鬼を消す」という最終目的を捨てられなかった。だからしばらくは体を休めて、それからもっと強くなって、再び葵鬼に挑もう。それが葵に対しての、海のけじめなのだ。
神主と愛、そして大助はあまり長居することなく帰っていった。海を休ませる意味ももちろんあったが、大助が体力を消耗していたことと、鬼封じのあとの神主に休養が必要であることから、早めに解散することにしたのだった。
また二人だけになった家で、海とはじめは向かい合った。毎年鬼封じのあとは空気が重いのだが、今年は殊更だ。いつもなら海は、儀式が終わるまで部屋にこもっている。けれども今はけがをして、居間に神妙な顔で座っていた。
「海、病院に行って薬をもらおうか?」
「いいえ。今日は家にいたいです」
「そう……痛まないかい?」
「大丈夫です。痛んだとしても、自業自得ですから」
ぽつりぽつりと、海とはじめは会話をする。こんなことよりも、海にはもっと言いたいことがあった。いつか和人に言われたように、はじめにはもう隠し事をしないようにしたい。けれども話す機会を逃し続けて、今に至ってしまった。
「父さん、俺……」
こうしてことが済んだあとで話しても、もう遅いかもしれない。遅くても、きちんと言っておきたい。
「俺、いつか葵鬼をこの家から消そうと思っているんです。そのために呪い鬼と闘ったり、鬼追いの手伝いをしたりしてきました」
言いたくても、言おうとしても、なかなか言葉にできなかった。面と向かって話すことができなかった。はじめは葵の兄だ。妹だったものを消してしまおうだなんて、簡単に口にできるわけがなかった。
しかし、いつまでもその気持ちを隠しとおせるわけがない。海は隠しているつもりでも、他の人にはわかってしまう。そんなことが、これまでにもあった。いつも一緒にいるはじめにも、当然それは伝わっているだろうと思っていた。
「うん、知っているよ。呪い鬼と闘っていたことは、愛さんから聞いた。君が葵を良く思っていないことも、ずっと昔からわかっていた。……僕だって、君が彼女の全てを許してくれるなんて、考えてはいけないと思っている」
そのとおり、はじめには何もかもわかっていた。わかっていて、何も言わなかった。海が考えるとおり、選んだとおりに行動するのなら、それを見守ろうとしてきた。
「でも、その一方で、とてもわがままな気持ちを抱いているのも事実だよ。海、君にこの名前をつけた十三年前、僕はその名に願いを託した。青く輝く大海原のように、広く深い心を持ってほしいと」
そうしてできれば生みの母を許してやってほしい。その気持ちが自分たちのエゴであると、はじめとその父はわかっていた。わかっていて、妹から受け取った赤ん坊を「海」と名づけたのだ。
「広く深く、ですか。……ごめんなさい、名前のとおりに育たなくて。俺はそんなに寛大な人間じゃありません。葵鬼をこの先も許すことがないでしょうし、他にも許せない物事や怒りを抱くことはたくさんあります。自分の我を通すために竹刀を振るうことだって、これまでにも何度もありました」
海が思い出すのは、呪い鬼や人間を許せなかったできごとの数々。その思いが鬼たちに影響して、呪いを増幅させているという事実。広い心を持っていたなら、鬼の子が多くのことを背負いすぎているなんて考え方もしなかっただろう。だが、そんなことを思う海に、はじめは首を横に振って言った。
「いいや、これは僕のわがままだ。葵のために何もしてやらなかった僕は、海にまでつらく重いものを背負わせてしまった。僕のほうこそ勝手で、酷い人間だ。君の親を名乗る資格はないのかもしれないと、ずっと思ってきたんだ」
十三年間一緒にいて、初めて吐露されたはじめの弱音だった。海が葵鬼を憎悪し続けてきたあいだ、はじめはそれが自分のせいだと苦しんできたのだ。葵鬼が『誰も助けてくれなかった』と言っていたそのままのことを、はじめはずっと感じてきた。妹を見捨ててしまったと、そのせいで海に苦労をかけてしまったと後悔してきた。
「そんなことはないです!」
けれども、海ははっきりと即答した。葵のことはわからない。海が与り知らないことも、はじめと葵のあいだには数多くあるだろう。だが、海とはじめのあいだのことなら、自分でよく知っている。どれだけ大切にしてもらったか、海自身が肌で感じている。
「父さんは、俺を育ててくれました。剣道も、生活のしかたも、俺は父さんに教わりました。俺は父さんを心から尊敬しています。俺にとって父さんは、もちろんおじいちゃんも、とても大切な存在なんです!」
真実がどうであれ、はじめは、祖父は、海にとってかけがえのない家族だ。葵鬼がそれを壊そうとするのなら、自分の手で守りたいと思った。それが今の海を作り上げてきた、出発点だった。
「父さんは、俺の父さんです。名前のとおりに育たなかった俺の親でいてくれて、ありがとうございます」
伝えたいことはこれで全てだった。葵鬼への憎しみを捨てきれないことが、はじめに申し訳なかった。それでも親としてそばにいてくれたはじめを尊敬し、彼に感謝していた。海はそうして十三年間を生きてきたのだ。
こちらを見て、話を真剣に聞いてくれていたはじめの目は、潤んでいた。海に対する謝罪の気持ちと、その海がはじめを親だと認めてくれたことへの嬉しさが、複雑に入り混じっていたのだった。少しの間をおいてから、彼はやっと、海によく似たへらりという笑顔とともに言葉を発した。
「たった十三年しか生きていないのに、育たなかっただなんて。君はまだまだこれからじゃないか」
そのこれからのあいだに、何かが変わるかもしれない。葵鬼に対する海の思いも、はじめが葵に対してできることも、かつて少女だった葵鬼そのもののあり方も。はじめはそれを期待していて、海にもその気持ちは伝わっている。
海が葵鬼を消すという目的を達成できるほどに強くなるのが先か。それとも葵鬼を許すことができるほどに、広い心と考え方を持つようになるのが先か。これからのことは、まだまだわからない。
だから今は、今できることを。この瞬間に伝えられることを。はじめと海は、互いに相手の目を見て話す。
「十三歳の誕生日、おめでとう。海」
「十三年間育ててくれて、ありがとうございます。父さん」
これからもよろしく、と言って、二人は手を取り合った。