夏と近づく日
次第に気温が上がり、汗ばむ日が多くなってきた。衣替え期間を経て制服は夏のものに変わり、心なしか鬼たちも着衣が薄くなったように見える。礼陣に、夏がやってきた。
前期中間テストがあった日の放課後、海は大助と亜子、それからサトとともに、御仁屋に来ていた。サトが先日の野球の試合で初勝利をおさめたことを、祝うために集まったのだった。中央中学校野球部には未だに勝ててはいないのだが、彼らと試合をしたことを聞きつけた他校と練習試合をする機会が増え、とうとう遠川中学校野球部の努力が実を結んだのだ。
「それでは、遠川中の勝利とテスト終了を祝いまして、かんぱーい!」
亜子の声に合わせ、冷たいほうじ茶で乾杯をする。そのサトの表情が今にも叫びだしそうなほどに嬉しそうで、海も表情をほころばせた。
甘く煮た小豆と練乳がたっぷりかかったかき氷を食べ、頭にきーんと走る痛みを楽しむ。弾む会話はサトたちの活躍と、テスト内容のことばかり。しかし前者の話のときは全員が笑っていたのに対し、後者の話になると大助とサトがあまり言葉を発さなくなった。それだけで彼らのテストの出来はわかってしまう。
「前からなんとなく思ってたんですけど、大助さんって成績良くないんですか?」
氷と小豆をしゃくしゃくと混ぜながら、海がずばりと言う。すると嫌な顔をした大助の代わりに、亜子が苦笑して答えた。
「そうなんだよね。せめて成績が良ければ、けんかしてもちょっとは見逃してもらえたかもしれないのに」
「うるせえな、誰だって得手不得手ってもんがあるだろ。なあ、サト」
「ですよね。オレも勉強は苦手です!」
「サトはやらないだけだろう」
あまり褒められたことではないようなことで意気投合する大助とサトに、海は呆れて息をつく。亜子はもう慣れたこと、といった様子で氷を口に含んでいる。テスト明けの勉強疲れが多少あるとはいえ、とても平和な時間だ。
お喋りをしながらもかき氷を食べ終わる頃、話題の方向が変わった。中間テストが終わり、結果が出揃えば、じきに夏休みがやってくる。海とサトにとっては、中学校生活初めての長期休暇だ。サトが「夏休みは何か予定ありますか?」と先輩二人に尋ねたところから、その話は始まった。
「門市の映画館でも行くか。最近テレビで宣伝してるアクション映画、来月からだろ」
予定は今から作るものだというように、大助が言う。そのとおり、今テレビなどで頻繁に宣伝されている映画が、夏休み中である八月に公開されることになっていた。礼陣には小さく古い映画館しかないので、最新の人気映画を見るには隣接する大きな町、門市まで行かなければならない。そこへ向かうには車か列車を使わなければならないので、映画を見に行くということは、小中学生にとってはちょっとした冒険にもなるのだった。
「大助にしては良い提案だね。海とサト君は、映画好き?」
「アクション映画なら好きです!」
「俺も、わざとらしい感動ものや恋愛映画以外なら好きですよ」
「海の言い方がなんか引っかかるけど、二人とも観るんだね。じゃあ、四人で行こうよ。大助、公開初日っていつだっけ?」
亜子が手帳を取り出しながら尋ねると、大助は頭をかきながら公開日を思い出そうとしていた。亜子はともかく、大助が映画に興味があるというのは意外だなと思いながら、海は答えを待った。
「思い出した、八月十日だ。初日に観に行くのか?」
ぽん、と手を叩きながら、大助が言った。その日付に、海は思わず眉を顰めてしまった。
「俺、十日は無理です」
そう言うと、亜子は首をかしげながらも「じゃあ初日以外で」と話を進めた。海が無理だと言った八月十日と剣道の稽古がある日、そしてサトの部活の都合を考慮して、映画を見に行く日程は決まった。楽しい予定を立てていたはずなのに、海は気分を盛り上げることができなかった。
御仁屋を出たあと、大助は海の肩に手を置き、亜子とサトに言った。
「先に帰っててくれ。俺と海はちょっと用事がある」
海は戸惑った。そんな予定はなかったし、そろそろ帰って夕飯の仕度をしなければならない。けれども大助は有無を言わせず、海を引きとめた。亜子とサトも「それなら」と納得して、先に行ってしまう。二人を見送ってから、海は大助を半ば不審に思い、しかし半ばそうした理由に気づきつつ、振り返った。
「用事って、何ですか?」
「さっき様子がおかしかったから、どうしたかと思ったんだよ」
やはり、大助は気づいていた。彼が気づいているのなら、おそらく他の二人にもわかっただろう。海は観念して、大助にしか話せないそのわけを話した。
「八月十日って、鬼封じの日なんです。毎年この日に儀式をして、葵鬼の力を抑えているんですよ」
礼陣最強の呪い鬼である葵鬼は、鬼封じという儀式によってその力を抑えられている。しかし彼女の力は一度の儀式で抑えられるようなものではなく、毎年決まった日に封じ直さなければならないことになっていた。それが八月十日だったのだ。
「ああ、それで無理なのか。で、海はそれを思い出して憂鬱になったと」
「そういうことです」
この日は、海にとっては最悪の日だった。嫌でも家に呪い鬼がいるのだということを認識させられ、一年のどの日よりも気を遣わなければならない。鬼封じは失敗が許されないため、家に来て儀式を行う神主も、家主であるはじめもぴりぴりしている。葵鬼の持つ邪気を避けているのか、普段道場に来ている鬼たちでさえも、この日ばかりは進道家に寄り付かない。海は毎年その空気を肌で感じてきた。鬼封じが行われているあいだ、自室にたった一人でこもって、早く終われと祈っているのだった。
「それもあって、俺、夏は好きじゃないんですよね。鬼封じが終わってしまえば、夏祭りとか楽しい行事があるので良いんですけど」
無理やり笑顔を作って、海は言う。けれども大助は笑わなかった。海の肩から手を離すと、少し沈んだ声で「奇遇だな」と呟いた。
「俺も夏は好きじゃねえんだ。もうすぐ両親の命日だからな」
あ、と海は思わず声をあげた。それがいつであったか、海もしっかり憶えている。幼馴染である春の両親が命を落とした日と同じだからだ。あの飛行機事故から、もうすぐちょうど八年になるのだ。
「この時期になると、兄ちゃんと姉ちゃんも落ち込みやすくなるんだよな。両親がどうのこうのよりも、俺はそのほうが嫌なんだ。ただでさえ暑くて嫌になるのに、さらに辛気臭くなるなんて、最悪だろ?」
今度は大助が、無理に笑顔を作る番だった。海は頬を引き攣らせたまま、それを見た。
二人で互いの引き攣った笑みを見ていると奇妙な感じがして、いっそそれがおかしかった。偽者の笑顔は、思わず同時に吹き出したのをきっかけに、声を伴う本物の笑顔になっていった。通行人が人間も鬼も関係なく、みんな不思議そうにこちらを見ていたが、気にせずに笑った。嬉しくも楽しくもない話をしていたのに、どうして笑えてくるのか、むしろこっちが不思議なくらいだった。
「本当に、夏って嫌な季節だな。全部飛び越えて、さっさと夏祭りの日になっちまえばいいのに」
「そうですね。……夏祭りも一緒に来ましょうよ。俺、今年から中学生神輿担ぐの楽しみにしてるんです」
礼陣の夏祭りは、神社が主催する大きな祭りだ。その日は住人も他所の人間も集まって、一年で最も町が賑わう。神輿に屋台に舞台演目と、見所が満載の一大イベントなのだった。
夏祭りは盆を過ぎた頃に行われるので、終われば秋がやってくる。すると今度は学校の行事で忙しくなる。悩みなど抱えている暇がないくらい、かけまわることになるだろう。
「あ、夏祭りの前に映画だな」
「そうでしたね。予告どおりに面白ければ良いですね」
わけもわからず笑い続けて、すっかり気持ちが明るくなった二人は、遠川地区へ向かって歩き出した。歩かなければ、家に帰れない。進まなければ、明日にはならない。苦難もあれば楽しみもある、夏休みはもう目の前だった。
夏の道場は蒸し暑い。防具をつけていると特につらい。心道館の門下生たちも、休憩をとる頃にはくたくたになっている。だが、暑さに負けている場合ではない。直近の大会を最後に、中学三年生は事実上引退することになっているのだ。彼らを応援するためにも、門下生は一丸となって練習に励んでいるのだった。
「もうすぐ終わっちゃうのかって思うと寂しいな。せめて中学生のうちに全国大会に出てみたかったよ」
和人が、あーあ、と溜息をつく。彼は心道館最強といわれるだけあり、高い技術と能力を持っているのだが、惜しくも全国大会へこまを進めることができなかった。県内で行われる大会ではいつも上位にいるのだが、どうしても敵わない相手は存在している。
「でも、高校行っても剣道続けるんですよね。まだ全国に行けるチャンスはあるじゃないですか」
「そうだね、そのためにもっと頑張らないと」
海の応援に、心道館最強は頼もしい笑顔で返した。こうしたやりとりができるのも、あとわずかだ。次の大会が終われば、和人は高校受験に集中しなければならないのだから。
小学生のときからその背中を見て追いかけてきた先輩を、もう間近で見ることはできなくなってしまう。それを思うと、海も少し寂しかった。
「和人さんがいなくなったら、他の誰かが心道館最強になるんですね」
海が呟くと、和人はクスリと笑った。それからそばで休んでいた八子を呼び寄せ、彼女に尋ねた。
「ねえ、やっこちゃん。海は僕がいなくなったら、他の誰かが心道館最強になるっていうんだけど。それって、誰だと思う?」
八子はきょとんとして、それから周りをきょろきょろと見回した。道場の中を見ているのではなく、彼女を囲むようにして立っていた鬼たちに目配せしているようだった。そうして出した結論を、明るく元気に言った。
「海にい! だって、和人さんから一本取ったもの!」
「え、俺? せめて中二の人たちから選ぼうよ」
「ところが、その中二の子たちが、さっき同じことを話してたんだよね。僕は自分で名乗り出るくらいの自信を持てって言ったんだけど、みんな笑いながら言うんだ。海がそう呼ばれるなら納得するって」
和人と八子、それから鬼たちが、にこにこしながら海を見ている。気がつけば、他の門下生たちもこちらへ注目していた。そこにやっかみや妬みはない。みんなが海の実力と人柄を認めていた。
「海にい、顔赤いよ。暑いんじゃない?」
「うん、暑い。……熱くて、倒れそうだよ」
まだ和人がいるうちは、もちろん「心道館最強」は彼のものだ。けれどもそれを受け継いでいいと思われているらしい。海は嬉しいやら恥ずかしいやらで、頭から湯気が出そうだった。
休憩の終わりが告げられ、それぞれが練習に戻るとき。和人が海に近づき、こっそりと言った。
「心道館最強になって、良かったら礼陣高校に進学しなよ。そうしたらまた、一緒に剣道できるから」
その言葉だけで、未来が楽しみになった。早く時が進めばいいのにと思った。
けれどもそのとおりに時間が経てば、海にとってあまり好ましくない日も近づいてくる。八月十日の、鬼封じの日が。