縁と再起(三)
海が再び鬼追いに加わることが決まり、ようやく一息つくことができた。すでに冷めかけてしまった、けれども初夏の空気にはちょうど良い温度の茶を飲み、おにまんじゅうを頬張った。子鬼もちゃぶ台に寄ってきて、愛に茶のおかわりを要求していた。
そんな和やかな時間をしばし過ごしたあと、神主が不意に真面目な顔をした。海が不思議に思って首をかしげると、彼はどこか申し訳なさそうな表情で言った。
「実は、君が鬼追いをするにあたって、もうひとつだけ話しておかなければならないことがあります。ただ、それは海君の家にも関わってくることなので、ここでお話していいものか迷っているのですが……」
他の者には聞こえないくらいの小声で告げられたその言葉で、海は「話」の内容に想像がついてしまった。思わず苦い顔をして、神主に尋ねる。
「俺の家のことは、誰がどの程度知っているんですか?」
「私と、都合により愛さんに例の存在だけは知らせてしまっています。大助君には言っていないので、何も知りません」
「……大助さんには、できれば知られたくないんですが」
進道家は、ある事情を抱えている。鬼に関係することではあるが、礼陣のほとんどの人間は知らないことだ。海もこればかりは、他人に公表されたくはなかった。
しかし、海が鬼追いに加わればいずれわかることだろうとも思っていた。それは海が鬼追いをすることを強く希望した理由の、根底にあるものだからだ。いつまでも隠し通せるものではないなら、いっそ話してしまったほうがいいかもしれない。
海は深く息をして、神主に向き直った。そして、あらためて尋ねた。
「それは鬼追いに関係することなんですね」
「はい。遠川地区に呪い鬼が頻繁に発生する原因について、この機会に知らせておきたいと思ったのです」
海が初めて鬼追いをしたときに、愛が説明していた。遠川地区には、あいまいな不安が急激に堪えきれないほどのものに変化することで呪い鬼になってしまう者がときどき現れるのだと。そして海自身、遠川地区で何度も呪い鬼を見ているという事実がある。
あのときは原因を尋ねても答えてもらえなかった。ただ神主は「原因の究明をおろそかにしているわけではない」と言った。本当のところは、とっくにその原因を突き止めていたのだ。それが、その場では話しにくいものだったというだけのこと。
「なんとなく、わかっていました。原因がうちなら、その現象にも納得がいきます」
海もずっと考えていたことだった。しかし、どこかで認めたくなくて、言葉にしようとしなかった。それが今必要なことならば、いたしかたない。海は決心を固め、うなずいた。
「話してください。知られたくはありませんでしたが、原因をそのままにしておくのも本意ではありません」
「……わかりました」
神主は愛と大助を呼び、「もうひとつ聞いてください」と切り出した。
海は目を閉じ、胸を押さえる。この事実がどのようにして話されるのか、予想はできない。神主の話し方によっては、さすがの大助も海に対しての接し方を変えるかもしれない。そう考えたとき、ぽん、と肩を叩かれた。振り向くと、子鬼が笑顔を浮かべていた。
『神主は余計なことは話さないぞ。海が不快に思うようなことは言わないはずだ』
そういえば、そうだった。神主はきっと、海のことを一番に考えたからこそ、事前に話してくれたのだ。海は神主を信じることにして、手を膝の上に置いた。隣には子鬼が座り、海にぴったりと寄り添ってくれた。
「遠川地区に現れる、呪い鬼への変化の過程がはっきりしない者についてのお話です」
神主が話し始めると、大助の表情が変わった。少し眉根を寄せた彼の顔を、海は横目で見ていた。
「実は私と愛さんは、この原因を特定していました。もう随分と前からです」
「本当かよ? じゃあ、どうして今まで何も対策しなかったんだ?」
驚きつつもまだ訝しげに、大助は神主と愛に向かって言った。愛は不安げに神主へと視線を送る。そして神主は、海に目配せしつつ、問いに答えた。
「できなかったのです。原因となる力が大きすぎて、もう十二年もきちんとした対処ができずにいるのです」
「十二年も? 原因の力って何なんだ?」
大助が身を乗り出して尋ねると、愛がそれを「静かに」と制した。緊張感の中、海には自分の心臓の音が最もうるさいように思えてしかたがなかった。膝の上でこぶしを握り、しかし神主の言葉を信じて待った。
神主は長く息を吐き、そして、覚悟を決めたように前を向き、それを告げた。
「遠川地区に呪い鬼が出る原因の多くは、礼陣で最も強大な力を持つ呪い鬼にあります。あまりに大きな力であるため、私でさえその場に封じることが精一杯でした。そしてその封印の場というのが……進道家、つまりは海君のお家なのです」
「海の……?」
大助は目を見開き、海を見た。その強く握り締めた手は震えていて、しかし神主からは目を逸らしていなかった。海は語り手に、そのまま続きを、と無言で促した。それに応えるようにうなずき、神主は言葉を継いだ。
「十二年前、進道家は呪い鬼を抱えることになってしまいました。私たちは彼女を葵鬼と呼んでいます」
呪い鬼は、もともと持っていた力の大きさと呪いの深さが、その強さに影響する。そういった意味では、葵鬼は礼陣最強かつ最悪の呪い鬼であった。なにしろ彼女が呪っているのは礼陣の町そのものなのだ。この町を、住まう人々を、葵鬼は激しく憎悪している。もしも彼女が他の呪い鬼と同様に暴れまわったのなら、町は壊滅するだろうと神主は言う。
それほどの呪いを持つ者に、鬼追いを施し呪いを祓うことは、大鬼様の力をもってしても不可能だった。そこで代わりに鬼封じという儀式をもって、彼女の力を抑えているというのが現状だ。進道家は、それを十二年ものあいだ受け入れてきたのだ。
神主が語るあいだ、大助は驚愕と困惑の入り混じった表情をしていた。海にも予想できていたことだが、実際に反応を見ると胸が痛んだ。この話をきっかけに関係が変わってしまうかもしれないことが、やはり怖かった。
「でも、その葵鬼は鬼封じで抑えられてるんだろ? それがなんで、呪い鬼が出る原因になるんだよ!」
「私の力不足で、完全に抑えられていないんです。葵鬼の呪いは、周囲の鬼を同調させる力があるようなのです。とはいえ、全ての鬼に影響が出るわけではありません。不安や怒り、悲しみや恐怖といった負の感情を抱えている鬼のそれを増大させ、呪い鬼へと変貌させているのだと考えられます」
海は突然冷たい水を浴びせられたような感覚を覚えた。「鬼を同調させる」というのは、先ほど自分の鬼の子としての才能を表現したものと同じだ。大助も同じことに気づいたのか、「それって」と言いかける。しかし神主はそれを遮るように続けた。
「その葵鬼の性質を和らげていたのが、海君の存在です。心が弱っていない、あるいは負の感情が少ない鬼たちが無事でいたのは、海君に同調していたためです。彼がいなければ、呪い鬼はより頻繁に現れていたでしょう」
海がいることで、葵鬼の影響が全ての鬼に拡大されずに済んでいる。しかし、葵鬼を完全に封じることができれば、あるいはその呪いを祓うことができれば、事態は解決する。
「神主さん、その葵鬼ってのをどうにかする方法はないのか?」
大助の問いに、神主は首を横に振る。「今のところは方法がありません」と、絶望的な返答をする。十二年もこうして対策が見つからないまま、神主は葵鬼を進道家に封じ続けてきたのだった。そのあいだ、海は家に呪い鬼がいるという事実を背負い続けてきた。父と二人で、他の誰にも言えずに。
できることはただひとつ。葵鬼の影響を受けて呪い鬼となってしまった者を、鬼追いをすることで鎮め、癒すことだ。終わりが見えないことだが、それしかなかった。
「海が言っていた、呪い鬼がそばにいるって……そういうことだったんだな」
それは、海が鬼追いをやめさせられたときに言った言葉だった。海はうなずいて、大助に向き直った。
「そうです。俺は常に呪い鬼の近くにいなければならず、離れることができませんでした。だからこそ鬼追いをすることを望んだんです。いつかは俺自身が、葵鬼と決着をつけたいんです。自分でこの呪いを終わらせたいんです」
その望みに、神主と愛は、海が鬼追いをすることを希望したときから気づいていた。その思いがあせりとなり、葵鬼や他の呪い鬼に対する強い怒りや恨みになってしまうことを恐れて、彼を一時は鬼追いからはずした。だが、それも結局は意味のないことだった。どうしようとも葵鬼は存在していて、海は呪い鬼との関わりを断ち切ることができない。それなら、海が鬼追いとして成長することに賭けたほうが良い。海自身も、それを望んでいる。
「大助さん、俺を可哀想だと思いますか? 呪い鬼といやでも関わらなければならない俺に、同情しますか?」
海は静かに、しかし震える声で尋ねた。大助とこれまで築いてきた兄弟のような関係に、憐憫の情が入りこんでしまい、望まない変化をしてしまうことが怖かった。数少ない鬼の子仲間として、鬼追いをともにする者として、ただの先輩と後輩として、これからも忌憚なく付き合っていきたかった。
大助は頭をかいて、黙り込む。海はそれを見て、やはりだめか、と思った。そうしてうつむきかけたとき、不意に頭に重みを感じた。
わけがわからないまま、髪をぐしゃぐしゃとなでられる。乱暴だが温かい手を感じて、海は顔をあげた。そこには、大助のいつもどおりの笑顔があった。
「俺、頭悪いから、難しいことはわからねえんだ。だから、大事なことだけ覚えておく。海がずっと悩んで、一人で頑張ってきたこと。それから、これからは一人で抱え込ませないってこともな」
なでられた頭に、そっと手をやる。髪は乱れたけれど、心は落ち着いていた。大助につられるようにして、海は照れ笑いした。
「大助さん。これからも、俺の先輩でいてくれますか? また一緒に、サトの試合を見に行ったり、御仁屋でお茶をしたりしてくれますか?」
「当たり前だろ。なんてったって俺たちは、遠川狂犬ブラザーズ、だろ?」
「その名前はやっぱり変です。……でも、今はなぜか嬉しいです」
どんな真実を知っても、大助は受け止めてくれる。きっと、海の抱えるもっと大きな秘密を知ることになっても、彼なら変わらずにいてくれる。海はやっと、心の底から、その確信を得ることができた。もう怖がる必要はない。彼に全てを打ち明けよう。これまで海が一人で抱え込んできたことを、大助には全部さらけ出してみよう。
「大助さんに、まだ話したいことがたくさんあるんです。俺のことも家のことも、大助さんには本当のことを知っておいてほしいんです」
髪を直しながら、海はぽつりぽつりと言葉をこぼした。大助はうなずいて、兄や姉、そして両親によく似た微笑みを浮かべ、返した。
「いつでも、お前が話したいときに話せ。聞く準備はできてるから」
まるで本当の兄弟のような二人を、神主と愛は静かに見つめていた。愛の目には涙さえ浮かんでいたが、神主がそれを指先でそっと拭った。
夕焼けの空が、明日も晴れるだろうと教えてくれていた。大助と海が並んで歩き、その後ろを愛がついていくようにして、家路を行く。
海は、今日のうちに全てを話すことをしなかった。今は神主が話したことで十分だった。進道家には呪い鬼がいて、もう十二年も封じ続けていること。それ以上は、また今度、機会を作って打ち明ければいい。大助はこれからも、いつだって海の話を聞いてくれるのだから。
「ねえ、海君。もし良かったら、うちで夕飯を食べていかない?」
愛が後ろから声をかけた。海は振り返り、けれども「いいえ」と返事をした。
「父が家で待っているので。俺も自分の家で夕飯の準備をしなきゃいけないんです」
「海、料理できるのか? すごいな、お前」
「幼い頃から、父を手伝っていますからね。簡単なおかずなら、小学生のときには作れるようになりました」
大助と、そして少しだけなら愛とも、こうして言葉を交わせることが嬉しい。鬼の子だろうが、呪い鬼との関わりが深かろうが、そんなことは考えずにたわいもないことを話せるのだ。これからも、ずっと。
そうして海は、ふと思い出す。大助と出会い、こうして気軽に話せるようになってから、まだ二ヶ月ほどしか経っていないのだ。こんなに短期間で距離が縮まって、悩みや秘密を打ち明けたいと思うようになるなんて、二ヶ月前の自分からは考えられなかった。
もしも遠川中学校に通っていなかったら。もしも鬼の子ではなかったら。彼との出会いはなかったかもしれない。好きではなかった学校生活が、以前よりずっと楽しくなった。好きでなったわけではない鬼の子という立場が、なんだか得なことに思えるようになった。それもきっと、縁のおかげなのだ。
「またな、海」
「はい、また今度」
「気をつけて帰るのよ」
手を振って、海は和通りへ、大助と愛は洋通りへ。周囲の家々からは夕飯の匂いが漂い、風が木々をざわめかせる。路地を人間や鬼が行き交い、塀の上を猫が歩く。呪い鬼のいない遠川地区は、穏やかに時間が過ぎていく。