縁と再起(一)
土曜日は午前中のみ、剣道の稽古がある。海はそこですっかり元気な姿を披露し、もとの調子を取り戻した。それどころか、一日体をゆっくり休めた分、力が有り余っていた。なにしろとても珍しいことに、和人から一本とることができたのだ。
「何か吹っ切れたのかな。良い動きだったよ」
「ありがとうございます、和人さん!」
和人に勝てたことも、褒められたことも、海は両方嬉しかった。他の門下生たちや見物していた鬼たちからの賞賛を浴びて、海は今ならなんでもできるような気がしていた。
そしてその勢いのまま、午後は遠川地区の西側、洋通りに向かった。鬼と対決したときのことや家まで送ってもらったことなど、まだ大助にきちんと礼を言っていなかったので、会って話をしたかった。
洋通りの家々の庭には、色とりどりの花や、開花を間近に控えたつぼみが並んでいる。このあたりでは人気の薔薇の花も、ちょうど見頃を迎えていた。一力家の庭も彩り鮮やかで、思わず見惚れてしまう。海がしばらく庭を眺めていると、玄関のほうから人が出入りする音が聞こえた。
「やあ、君は大助の友達だね」
玄関から出てきたのは、大助によく似た、背の高い男性だった。海も以前、ここに来たときに会ったことがある。
「こんにちは。大助さんのお兄さんですよね」
「憶えていてくれたんだ、嬉しいなあ。僕は恵というんだよ」
その笑顔は、どちらかといえば愛のものに近い。大助ならもう少し豪快に笑う。口調も大助とは違い、穏やかで品がある。海が、大助は一体誰に似たのだろう、と考えているあいだに、恵が玄関に戻って大助を呼んでくれた。
「大助、友達が来ているよ」
「友達? ……なんだ、海か。もう体はいいのか?」
ドアとそれを押さえている恵のあいだから、大助がひょこりと顔を出した。身長が平均以上で少々大人っぽくも見える大助も、兄と並ぶと年相応だった。それがなんだかおかしくて、海はちょっと笑ってから、「おかげさまで」と答えた。
一力家のリビングは相変わらずレースや花で飾られ、男だけでいるにはもったいない可愛らしさがあった。海は初めてこの家に来たときと同じように、大助と向かい合って座る。そこへ恵がジュースの入ったグラスを持ってきてくれたので、海は礼を言った。「どういたしまして」と微笑む恵は、何度見ても大助に似ているのに、雰囲気は愛とそっくりだ。
「俺と兄ちゃん、あんまり似てないだろ」
恵がリビングから出て行ってから、大助が言う。海はうなずき、正直に答えた。
「そうですね。顔はそっくりですけど、大助さんと違って静かです」
「同じことを亜子にも何回言われたことか……」
苦笑しながら、大助はジュースのグラスを手に取った。けれどもそれに口をつけることはなく、「で?」と海に尋ねた。
「用事があるんだろ」
「はい、先日のお礼をしたくて。俺が寝ているあいだに家まで送ってくれたと、父から聞きました。ありがとうございました」
「そりゃあ、いつまでも社務所に転がしておくわけにはいかなかったからな。あれから具合は? 昨日、学校休んだだろ」
「しばらく体に痺れが残りましたけれど、今は平気です。鬼の力を受けたのは、あれが初めてじゃないですし」
海はなんでもないというように話したのだが、大助は怪訝そうにこちらを見た。それからグラスをテーブルに置き、身を乗り出して海の言葉を繰り返した。
「初めてじゃない? 前に受けたのはいつだ?」
つい口走ってしまったことだが、きっと一人で呪い鬼を追い払っていたときだろうと、流してくれるに違いないと思っていた。けれどもその予想ははずれ、大助は海に真面目に尋ねてきた。
海は少し迷ったあと、ひとまずは正直に話すことにした。自分自身もあまりよくは憶えていないことなので、詳細には語れないのだけれど。
「昔ですよ。俺がまだ、一歳にもならない頃です。……俺は、呪い鬼に殺されかけたことがあるんです」
大助が息を呑むのがわかった。あまりにも真剣な顔をするので、海はへらりと笑って、軽い口調で続けた。
「昔の話ですって。自分でもよく憶えていないんです。父さんと神主さんが話していたのを聞いただけで、実際のところはわかりません」
「それでも、そういうことがあったのは事実なんだな?」
海がどれだけ笑みを作っても、大助は引きずられなかった。それどころか眉間の皺を深くして、海から少しも目を逸らさない。本気で心配させたな、やっぱり失言だったな、と思いながら、海はうなずいた。
「事実です。でも俺は生きてますし、今回もこうして元気になりました。だから大助さんは、何も気にしないでください」
そう言って、海は自分から目を逸らした。ずらした視線の先には棚があり、そこには花瓶や外国製らしき置物と一緒に、写真が飾ってあった。四人の大人と四人の子供の、計八人が写っているものだ。そこにある面影から、海はすぐに写真の中で笑っている人々が誰なのかを覚った。
「あれ、小さい頃の大助さんと亜子さんですか?」
話題を変えようとして、その写真を指差す。すると大助は強張っていた表情を崩し、席をたった。
「そうだ。九年前、俺たち家族がここに引っ越してきたときに、亜子の家族と一緒に撮ったんだ」
その写真立てを持って、大助は海の隣に座った。そして写っているひとりひとりを指差しながら、それが誰であるかを教えてくれた。
「この人が亜子の父さんと母さん。亜子は母さん似だろ? こっちは俺たちの父さんと母さん。これが姉ちゃんで、当時小学六年生。兄ちゃんは高校二年生だったな。そしてこのチビが亜子と俺だ」
写真を見ると、大助と恵は父似、愛は母似のようだった。今よりもずっと幼いが、それぞれに面影がある。大助はやんちゃそうに見えるし、亜子はまるで外国の人形のようだ。恵と愛はすでに落ち着いた顔つきをしていて、小さな子二人を可愛がるように抱いていた。
「大助さんは、上の二人と年が離れてるんですよね」
「ああ、俺と姉ちゃんは七歳違うからな。俺の名前は兄ちゃんと姉ちゃんが考えてつけたらしい」
見るからに幸せそうな二家族が、小さな枠の中で微笑んでいる。しかしここに写っている人物のうち、二人はすでに他界しているのだ。八年前に起きた、痛ましい飛行機事故で。
大助が自ら語ってくれたことには、引っ越しては来たものの、両親はほとんど家にいなかったという。近くに母方の叔父が住んでおり、大助たち兄弟は、基本的にはそこの世話になっていた。しかしこのとき恵はすでに高校生で、愛も両親不在の環境に慣れていたので、当時からこの家に三人暮らしをしているようなものだったそうだ。
そうして何度も顔を合わせないうちに、大助たちの両親はとうとうかえらぬ人となった。けれども両親といた時間が最も短く幼かった大助は、彼らに関する記憶をほとんど持っていない。大助にとって父は兄であり、母は姉だった。そのためか、両親の死を理解するまでには時間がかかったという。
「憶えてないほうがましだったのかもしれねえな。親が死んだとわかった直後、兄ちゃんと姉ちゃんはショックが大きすぎて、まともに飯を食えてなかった。姉ちゃんと俺には鬼が見えるようになって話し相手ができたけど、兄ちゃんには見えなくて、俺たち二人よりも長く塞ぎこんでた」
「お兄さん、鬼が見えなかったんですか?」
「あのとき、もう高三だったからな。鬼たちに子供だと判断されなかったのかもしれねえ。育った環境のせいか、年のわりにしっかりしてたらしいし」
鬼の子にはならなかった恵は、叔父が主な相談相手となった。鬼が見える鬼の子となった愛は神主にその才能を見出され、そのときから鬼追いを始めた。そして大助は、周りにいる鬼と、向かいの家に住む亜子との交流を深めていった。そうして八年を、兄弟三人で過ごしてきたのだった。
「親のことを憶えていないのと、兄ちゃんと姉ちゃんに亜子たち一家、それに鬼のおかげで、俺はまあまあまともに育った。けんかはするけどな」
大助はそう締めくくって、にかっと笑った。つらいことも話していたはずなのに、いつもどおりの笑顔だった。
それから写真立てをテーブルに置くと、大助は海に尋ねた。
「海は、いくつのときから鬼が見えるんだっけ?」
「物心ついたときには、もう見えてましたよ。大助さんより鬼の子歴は長いです」
「本当かよ。じゃあ、さっきの呪い鬼に殺されかけたってときは……」
また話がもとに戻ってしまった。海は再び視線を泳がせ、歯切れ悪く答えた。
「たぶん、見えるようになったのはそのときからです」
「? つまりその頃、海の母さんが……」
大助が話を整理しようと、呟いたときだった。それを遮るようにして、海が大助をぎろりと睨み、一段と低い声で言った。
「俺に母親なんていません」
言葉は丁寧だが、その声には強い断定と拒絶が含まれていた。さすがの大助も背筋がぞっとするほど、海の言葉は重く、深く、暗かった。まるで一気に冷たい水の底へ沈められたような気分だ。
その話はしたくない。海は口に出さず、そう訴えていた。大助はそれを理解すると、深く呼吸をしてから「悪かった」とひとこと言った。
海はそれを聞いてはっとし、慌てて場を取り繕おうとした。
「すみません、大助さんが謝ることじゃないんです。ただ、本当に俺には母親っていうものがいないだけなんですよ」
「いや、俺が無神経だった。鬼の子になったきっかけなんて、人にべらべら喋れるようなことじゃねえもんな。お前にはお前の事情があるんだ、俺がそこにつっこみ過ぎた」
けれども、もうその話には繕えるほどの余裕など存在していなかった。大助はすぐに話題を変え、海もそれについていった。
大助を困らせるつもりなど海にはまったくなかったのだが、つい本音が漏れてしまった。彼がいくら信頼できる人物だからといって、全てを話せるわけではない。むしろ知らないでいてほしいことだってある。それに触れられてしまい、取り乱してしまった。大助は何も知らないのだから、しかたがなかったのに。それをうまくかわせなかったことは、どんなに楽しい話をしていても、海の胸に後悔として残った。
「サトも、元気になって良かったな。中央中との仕切り直しも、正式に決まったらしい」
「はい、昨日サトから聞きました。あいつ、うちに見舞いに来てくれたんですよ。大助さんが行くように言ってくれたんでしょう?」
あたりさわりのない話題を選ぶようになってから、不意にサトの話になった。中止になってしまった野球の練習試合は、あらためて日程が決められた。昨日、サトはそれを心底嬉しそうに語ってくれたのだった。
「今度も一緒に見に行っていいか? 亜子にもしっかりルールを覚えてもらわなくちゃならねえからな」
「はい、ぜひ。またサトが打ってくれると思いますから、期待しましょう」
先ほどとはうってかわって明るく話す海に、大助は安心した。海も自分が落ち着いて会話ができることにほっとしていた。後悔はあるが、良いことは楽しみながら話したい。
「サトがまた試合できるようになったのも、海が頑張ったおかげだな。あの鬼に手を出さず、一生懸命訴えてくれたからだ」
大助がそう言って微笑む。けれども海は苦笑して「違いますよ」と返した。
「俺は呪い鬼を放置したときと同じで、自分の怒りをぶつけていただけです。大助さんも、俺に言い過ぎだって言ったじゃないですか。あの鬼を鎮めたのは神主さんと愛さんです」
その言葉どおり、海はサトを救ったのは自分ではないと思っていた。サトに礼を言われ、大助に褒められても、自分はそれを受け取るべきではないと考えている。あのとき自分は、鬼追いをやめさせられたときと同じ過ちを繰り返そうとしていた。感情だけで動くのなら、あの女性の鬼となんら変わりはない。それは今の今まで、何度も思ってきたことだった。
しかし大助は、海の頭に手を伸ばし、ぐしゃぐしゃとなでた。海が突然のことに目をまるくしていると、彼はそうすることがさも当然であるかのように言った。
「お前もよくやっただろ。サトのために走り回って、鬼を見つけて、そいつのやってることが間違ってるってことを訴えたんだから。鬼追いをしなかったときだってそうだ。お前は亜子や俺、それから鬼たちのことを思ってくれてたんだよな」
なでる手を止め、大助は海の目を見る。今度は目を逸らすことができなくて、海も彼を見つめ返した。
「海はいつだって、大切なものを守ろうとして頑張ってたんだろ。その気持ちは間違ってなんかいないんだぞ」
その言葉が全てだった。今までずっとそう思ってきた。誰かに助けられるたびに、今度は自分が恩を返そうとしてきた。
海はただ、縁のある人々を、縁を作ってくれた人々を、傷つけようとするものが許せなかったのだ。その対象は呪い鬼であることもあれば、人間であることもあった。呪い鬼にはなっていなかったけれども、友人を苦しめるものならば、ただの鬼にだって怒りを示した。たとえそれが鬼の子として不適当でも、鬼追いをする者としてあるまじきことでも、感情を制限することはどうしてもできなかった。それが海の本当の気持ちであり、自分たる所以だからだ。こればかりはどうにもならない。そうして育ってきたのだから。
「神主さんは、俺に鬼追いをやめさせました。愛さんも、きっとそうしたほうがいいと思ったんでしょう。でも、それでも大助さんは、俺の気持ちが間違ってないって言ってくれるんですか?」
大助を真っ直ぐ見つめて、海は尋ねる。返ってきた答えは、単純明快なひとこと。
「間違ってなんかねえよ」
たとえそれが大助だけの意見だとしても、他の誰かに否定されたとしても、海はその言葉を信じたかった。本当はずっと、誰かにそう言ってほしかった。怒りという感情を頭から「悪いもの」とするのではなく、その根底にあるものを認めてほしかった。
「大助さん、お願いがあるんです」
大切な人たちを、海を大切に思ってくれる人たちを、この手で守りたい。そのためのチャンスが、もう一度ほしい。自分自身の暴走によって、一度は捨ててしまったものだけれど、できることなら取り戻したい。
「俺、また鬼追いをしたいんです。呪い鬼のことを大助さんに報告して、あとをまかせるんじゃなくて。俺自身の手で、鬼追いをしたいんです」
大助を訪ねたのは、ただ世話をかけたことについての礼を言うためだけではない。たくさんの人間や鬼の温かさに触れて、彼らに恩を返したいと思った。その方法として思い当たったのが、鬼の子である自分にしかできないことだった。好きでなったわけではないけれど、背負うものが多すぎることもわかっているけれど、そのことを受け入れて向き合いたいと思った。自分を助けてくれた人々と、自分自身のために、鬼追いをもう一度したい。それを伝えるために、ここに来たのだ。
「俺は鬼追いとして逸脱した行為をしてしまいました。おまけに、神主さんには呪い鬼と離れるべきだとまで言われました。でも、俺が呪い鬼と離れることはできないんです。自分で鬼追いをすることでしか、離れる方法がないんです。世話になった人に恩を返すためには、自分の力で鬼追いをするしかないんです」
海は切々と訴えた。大助に言ってもしかたがないことだとはわかっていたが、大助しか言える相手がいなかった。海が間違っていないと言ってくれたのは、彼だけだからだ。
呪い鬼と離れるために、呪い鬼に自ら接する行為である鬼追いをしたい。恩返しをするためにも、こうするしかない。矛盾しながらも決意を孕んだ海の言葉を、大助はなんとか受け止めたかった。まだ真意は汲み取りきれないが、海の必死な気持ちに応えたかった。けれども、鬼追いに関することは彼ひとりでは決められない。愛に再び相談し、神主の承諾を得なければ、海がまた鬼追いをすることはできない。
大助は頭をかいたあと、ちょっと待ってろ、と言って席をたち、リビングから出て行ってしまった。一人残された海は、リビングのドアを見ながら溜息をついた。今になってこんなことを言っても、とりあってもらえるはずがない。また大助を困らせてしまって、申し訳ない。そう思いながらうつむき、唇を噛んだ。
大助が戻ってきたら、無理を言ったことを謝って帰ろう。そんなことを考えかけたときだった。リビングに飛び込んできた大助は、海に口を開かせる間も与えずに言った。
「海、神社に行くぞ! 今の言葉、神主さんと姉ちゃんに直接言え!」
そのまま海の手をとり、大助は玄関へ急いだ。海は何か言わなくてはと口をぱくぱくさせていたが、適切な言葉がすぐに浮かんでこない。さっきまでしようとしていたことは、すっかり頭から飛んでいってしまった。
リビングを出て、玄関へ。外へ出たなら、神社を目指して脇目も振らずに走る。大助に引っ張られる海を、人間も鬼も、なんだなんだと興味深げに見ている。時折「狂犬ブラザースは今日も一緒か」なんて恥ずかしい言葉が投げかけられるが、大助が一向に気にしない様子で進むので、海はただそれについていくことで精一杯だった。