見舞いと元気
海の希望としては、学校で元気を取り戻したサトに会い、大助に迷惑をかけたことを侘びて、すっきりした気持ちで剣道の稽古に参加する、という一日を過ごしたかった。しかし体調が思うように戻らず、はじめに「今日は休みなさい」と言われたこともあり、丸一日布団の中で暇な時間を送ることとなった。
とはいえ、ずっと寝ているわけではない。進道家の人間は代々読書好きであり、収集した本や新聞記事をまとめたファイルなどを、書庫に整理して置いている。文芸書から多岐に渡る専門書まで様々な本があり、海は幼い頃からそこに出入りしては、豊富な蔵書から気に入った本を持ってきて読んでいた。今日もそうして過ごそうかと、海はまだ若干ふらつく足で書庫に向かった。
書庫は道場へ続く廊下の脇にある。そこへ向かう途中にもいくつか部屋があり、海はいつもある部屋の前で足を止めてしまう。その襖をじっと見てから、隣の書庫へと入るのだ。そうすることが幼少時からの癖になっている。
書庫の隣の部屋は、開かずの間だ。正確には開かないのではなく、戸をぴったりと閉めて開けないようにしている。客や母屋へ来た道場の門下生に、何の部屋かと問われれば、海はいつも「物置」と答えていた。それから、「何もないから開けちゃだめだよ」と付け加える。言われたほうは不審に思うが、これまで勝手に開けて中へ入った者はいない。それは「だめだ」と言う海の口調が、当の本人は意識していないのだが、ほんの少し強くなるからだった。
一旦立ち止まって見つめる開かずの間の襖は、今日も隙間なく閉められている。それを確認する海の目は暗く冷たい。彼を知る者でも、この目を見たことがある人物はごく僅かに限られている。襖から目を離せば、少々陰気さは残るものの、いつもの海に戻るのだ。その場に一緒にいたとしても、気づく者はほとんどいなかった。
整頓された書庫で数冊の古本を選ぶと、海はすぐにそこを離れる。帰りは隣の襖を見ずに、急ぎ足で部屋へ戻り、一息つく。それからやっと、読書に没頭するのだった。
そうして海は、昼にはじめの用意した食事をとったとき以外の時間を、ほとんど本を読むことに費やした。時計の針に目をやることなく、ひたすらに文字を追っていると、自室の襖が軽く叩かれた。
「海。サト君が来てくれたよ」
そこでようやく、もう学校が終わる時間だったということに気がついた。はじめに「入ってもらって」と返事をすると、襖が開けられ、笑顔で片手を振るサトの姿が見えた。
「進道、具合は良くなったか?」
そう言うサトは、すっかりもとの調子に戻っていた。誰かを心配して、自分が傷ついて、疲れ果てた彼ではない。お調子者とも表現できるような明るく元気な彼だ。海が取り戻したかった、唯一無二の友人であるサトだ。
「俺は平気。それより、サトは? お父さんはもういいのか?」
「それがさ、父さんってば突然目を覚ましたと思ったら、ここはどこだ、どうして俺はこんなところにいるんだ、なんてきょろきょろしてたらしい。検査があるからもう少し入院するらしいけど、すっかり元気なんだ」
嬉しそうなサトを見ていると、海も元気が湧いてきた。やはり自分たちは、こうでなくてはならない。これが日常でなくて、何を日常とするのだろう。
安心と喜びに頬を緩ませる海へ、ふいにサトがきちんと向き直った。海が「どうした」と尋ねる前に、彼はしっかりとした口調で言った。
「ありがとう、進道。オレが混乱してたときに、話を聞いてくれて。うちまで来て、励ましてくれて。ずっとずっとオレのことを心配してくれて。本当にありがとう」
いつになく真面目なサトに、海は一瞬どう反応していいのかわからなかった。言葉を探して迷っているうちに、サトはいつものようににかっと笑って続けた。
「進道はオレを心配しすぎて具合悪くなったって、一力先輩から聞いてさ。意外と繊細なんだなって、オレたち一緒に笑ってたんだぜ。いつもはオレの冗談も流すくせに、こういうときはマジになってくれるなんて、本当にお前って良いやつだな」
「大助さん、そんなこと言ったのか……。別にお前を心配しすぎたわけじゃない。ちょっと疲れが溜まってただけだよ」
「またまた、照れちゃって」
「照れてない。そういうことばっかり言ってると追い出すぞ、サト」
どうやら大助は、サトへのフォローまでしてくれたらしい。本当にあの人には頭が上がらないな、と海は思う。次に会うときには、なにかしらの恩返しをしたい。何度も助けてもらっておいて、まだその半分も返せていないのだから。
サトと心から楽しめる会話をしたのは、久しぶりのような気がした。もうサトを苦しめるものは何もない。それはつまり、海の悩みの幾分かも解消されたということだった。体調さえ万全なら、学校でこのやりとりができたのに、と考えると少しばかり残念ではあった。けれども、サトが自分のためにわざわざここまで来てくれたと考えると、やはりそれはとても嬉しいことだった。
サトが帰るのとほぼ入れ違いに、剣道の稽古を終えた和人と八子、そして夕飯のおかずをおすそわけするついでだったという春がやってきた。四人もいると、部屋はとても狭いように感じた。
「今日はなんだか、客が多い日です。ついさっきまでサトもいたんですよ」
海が照れ笑いしながら言うと、和人と八子は「下で会ったよ」とうなずいた。
「みんな海に会いたいんだよ。今日だって、誰が海のお見舞いに行くか、休憩のあいだ中話し合ってたんだ」
「和人さんはみんなの代表で、わたしはじゃんけんに勝ったの。海にいの顔見ないと、稽古に来たって感じが半分になっちゃう」
心道館門下生たちも、海のことを随分と心配してくれたようだ。以前に課外活動の禁止を言い渡されて、稽古に参加できなかったときもそうだった。彼らはみんな、道場の子であり、お兄さん的存在である海のことが、大好きなのだ。
「和人さんとやっこちゃんは、海にいが具合悪いことを知ってたからいいけれど。私はそんなの聞いてなかったから、さっきここに来てすごくびっくりしたんだからね。家の周りは鬼だらけだし……」
春が腕組みをして、呆れたように言う。それで初めて、海も窓の外の様子に気がついた。いつの間に集まったのか、たくさんの鬼たちが、心配そうに部屋の中を覗き込んでいる。その中には、いつか呪い鬼になってしまって海に追い払われた者や、神社にいたずらをした犯人たちをこらしめようとしたあの鬼の姿もあった。みんなすっかり呪いから解放されていて、誰もが海を気にかけてくれていた。
「いつも道場に来てる鬼たちもいるよ。海にいは本当に、みんなに好かれてるね」
人間も、鬼も、気持ちは一緒だ。海のことを思っているから、こうして様子を確かめにくる。ちょっと笑って手を振れば、あちらも嬉しそうに手を振り返してくれる。
海は好きで鬼の子になったわけではない。その気持ちは、今でも変わってはいない。鬼の子ばかりが多くのことを背負わなければならないことは、やはり不公平だと感じている。それでも、こんな光景を見てしまったら。こんなに好かれてしまったら。鬼の子になって得ることのできたたくさんの縁を、思わずにはいられない。喜ばずにはいられない。
「ありがとうございます。……みんなのおかげで、もう元気になりました。ならないはずないですよ」
サト、和人と八子、春。それから大助たちに、はじめ、たくさんの鬼たち。自分を取り囲む温かいものを、手放したくない。守っていきたい。海のときに強すぎる正義感は、そんな思いから生まれている。鬼追いをしたいと思ったのも、その気持ちがあったからだ。他人の手を借りず、この手で守りたい。始まりはそこだったことを、海は今、思い出した。