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まどろみと問い

 広くはない畳の部屋に、海はぽつんと一人で座っていた。考えなければならないことがたくさんある気がしたが、それが何なのか思い出せない。困り果てていると、後ろから大きな影が、ゆうらりと揺れながら現れた。差す影に振り向くと、頭に二本の長いつのがある、長い髪の女性が、自分を見下ろしていた。

『ああ、憎い』

 女性はそう呟いて、海の首に手をかけようとしてくる。白く細い、美しい手だ。けれども鋭く伸びた爪は、触れればこちらが傷ついてしまいそう。そう思っているうちに、手は海の首をさわりとなで、指を絡めていく。少しずつ、じわじわと力を込めながら、締め上げていく。増していく苦しさから逃れようと身をよじり、手を剥がそうとするが、とてもかなわない。もがいているあいだに、頭の中に女性の声が流れ込んでくる。

『私はこの町の全てが憎い。住む人々も、蔓延する話の数々も、生まれ育ったこの家も』

 暗く澱んだ真っ赤な目が、海の姿を映している。そこにある自分の姿が幼い子供であることに気づき、海は抵抗しても無駄だということを悟った。大人の女性の姿をした鬼には、この体では到底かなわない。そんなことは、昔から知っていた。誰かが助けてくれるまで、息が詰まっていく感覚を、体が動かなくなっていく絶望を、味わうしかないのだ。

『この町に押しつけられたこの力で、この町を呪ってやる。鬼なんかを崇める者は、この手で葬り去ってやる。私のようなものを作り出してしまったのは自分たちなのだと、思い知らせてやる』

 彼女はなおも言葉を紡ぐ。恨みで真っ黒に塗りつぶされた顔はよく見えないが、海には誰だかわかっている。彼女の正体を知っている。

『あんたなんかいらない』

 その言葉を、海を対象としてはっきりと口にしたのは、彼女だけだ。町を恨み、出て行ったはずなのに、海を捨てるために戻ってきた彼女。海を殺すために、何度も顕現する彼女。その手から逃れるために鬼追いになったのに、すぐにやめさせられてしまった。たとえ海が成長しても、彼女の恨みはつきまとう。決して海から離れない。


 海が目を開けると、そこは自室だった。ちゃんと布団がかけられていて、服も着替えさせられている。たしか、神社の社務所にいたのではなかったか。鬼と対峙し、その力を受けて倒れ、社務所に運ばれたはずだ。それがどうして、住み慣れた自宅に戻ってきているのだろうか。

 不思議に思っていると、静かに襖が開いた。廊下の明かりを背にしていてよく見えないが、部屋に入ってきた人物がはじめであることはすぐにわかった。

「海、目が覚めたんだね」

 優しく安心できる声がする。こちらがうなずくと、嬉しそうに笑って、近づいてくる。額にそっと触れて「熱はないようだね」と言い、汗がにじんでいることに気がつくとタオルで拭いてくれた。

「先輩と神社に行って、寝てしまったと聞いているよ。彼がここまで送ってきてくれたんだ。そんなに疲れていたのかい?」

 どうやら、また大助に世話をかけてしまったようだ。あの人にはいくら恩を返しても返しきれないなと思いながら、海ははじめにうなずいた。

「ちょっと、いろいろありすぎたからかもしれません。サトのこととか……」

「サト君のことか。大変だったようだけど、もう安心してよさそうだよ」

 はじめがにっこりと微笑み、教えてくれた。海が寝ているあいだにサトから電話があり、父親が意識を取り戻した、もう大丈夫だと伝えてほしい、と言っていたそうだ。それを聞いて、海は一気に力が抜けた。全ては解決したのだ。サトは、もうつらい思いから介抱されたのだ。

「良かった……」

 明日はきっと、学校でサトに会えるだろう。そうしたらまず、「良かったな」と言おう。サトはきっと、明るい笑顔を返してくれるはずだ。小学生の頃からいつも一緒にいた、あの笑顔を。

 そう思うと、さっきまで見ていた夢のことなどどうでもよくなった。鬼の力による体の痺れが残っていたせいか、首を絞められる感覚や、恨みの言葉が頭の中をかき回すような嫌な感じは、同じ夢を見た他のときよりも強く残っている。けれども、それらが気にならなくなるほどに、サトからの報せが嬉しかった。


 海を家に送ってから、大助も自宅へ帰った。姉はあとから行くと言っていたから、途中で合流するかもしれない。夕飯の時間には間に合うように、家に到着するはずだ。

 和通りから洋通りへと歩きながら、大助は考え事をしていた。物事を深く考えるのは苦手だが、こればかりは真面目に考えずにはいられない。

 姉や神主は、海についての何を知っているのだろうか。海が鬼追いを始めたときからやめるときまで、そして今回の鬼が起こした件でも、神主と姉は海の動向を気にしていた。それに、神主と海の会話には、大助にとって不可解なものが多い。海が鬼追いをやめるときに言った、「呪い鬼はいつだって俺のそばにいます」という言葉。今日神主が海に言った、「何が正しくて何が間違っているのか、考えても答えが出ないことは多くあります。君に関することでも、そうですよ」という言葉。これまでに何度かあった、海と呪い鬼の関係が思うより深そうなことを表す発言に、大助は引っかかりを感じていた。自分が海を鬼追いに参加させたいと頼んだときの、姉の言葉もそうだ。「能力だけなら、私よりも適任かもしれない」「進道君が鬼追いとして逸脱した行動をとったら、そこでやめてもらう」こんな台詞は、海の何かを知っていなければ出てこない。

 神主と愛の関係は特別なものだと、大助も知っている。二人はすでに八年ものあいだ、大鬼様と巫女という間柄を続けている。それに加え、彼らは互いを愛していた。神主が愛を大切に思う気持ちと、愛が神主を慕う気持ちは、いつのまにか恋愛という形になった。その経緯は大助も近くで見てきたので、わかっている。そんな二人だからこそ、彼らのあいだで特別な情報を交換し共有しているであろうことは容易に想像がつく。

 海が鬼の怒りに共感し、鬼が海の怒りに同調したことを、おそらく神主や愛は初めから予想していた。さらに今回、海が身勝手な鬼に対して激しく怒るであろうことは、彼らの予測の範囲内だった。

 大助はポケットから、一枚の札を取り出した。一見短冊のように見えるそれは、呪い鬼を神社へ帰すときに用いるものだ。海が鬼追いをやめることになった一件以来、大助も持たされるようになったのだ。愛のように呪い鬼の気持ちを静めることはできないが、とりあえず神社に帰すことだけはできるようになった。もしも海と一緒にいるときに呪い鬼が現れたら、すぐに対処できるようにとのことだった。今回のことだって、あの女性の鬼が神社へ行く前に呪い鬼と化してしまったら、大助がすみやかに鬼追いをすることになっていた。

 それ以前に、大助は他ならぬ海自身から聞いている。彼は何度も呪い鬼に会い、それを撃退してきたと。そしてその後も、呪い鬼が出現したという情報を彼から得ている。本来、それほど頻繁に呪い鬼が現れるということはないのだ。――遠川地区の一部、心道館周辺を除いては。

「海に何があるってんだよ……わかんねえな、もう!」

 頭をがしがしとかいて、大助は考えを一時中断する。周りの人間や鬼が不思議そうにこちらを見ていたので、笑ってごまかしながら家路を急いだ。そうして家が見えてきたあたりで、淡い髪色の少女を見つけた。

「亜子、何やってんだよ」

「おかえり、大助。晩御飯のおかず作りすぎちゃったから、そっちにおすそわけしようと思ってたんだ」

 そう言ってタッパーを差し出す亜子を見て、ふと思い出した。海と知り合ったきっかけは、亜子だった。亜子がいじめられているのを海が助けたのだ、と鬼たちに聞いたことが始まりだった。海が呼び出されたときも、鬼たちが大助に助けを求め、その現場へ行ったのだ。そのときにはすでに決着がついていたけれども。

 呪い鬼に関わり、ともに鬼追いをした。海は結局やめさせられてしまったが、それにも大助は随分と反対した。チャンスをやってくれと頼んだが、神主と愛は首を横に振った。

 しかしそうして繋がりが一つなくなってしまっても、海はただの後輩として、大助に接してくれた。末っ子である大助には、海が弟のように思えた。彼の助けになることなら、できるかぎりのことをしたかった。

「あのさ、亜子。俺が無茶なことをさせて海が倒れたとしたら、お前はどうする?」

 突然の問いに、亜子は怪訝な顔をする。けれどもすぐに答えた。

「とりあえずは、大助を殴るかな」

「じゃあ、殴ってくれねえか?」

 真面目な顔をして、大助は言う。亜子は一瞬目をまるくしたが、すぐにおかずの入ったタッパーを大助に押し付けて、空いた手を振りかぶった。大助は反射的に奥歯を食いしばって平手が飛んでくるのを待つ。

 しかし、いつまでたっても頬に衝撃はなかった。亜子は眉根を寄せて、そこに立っているだけだ。

「何があったのか知らないけど、それで大助は気が済むの? そうじゃないでしょう」

 大切な話をするときの強い口調で、幼馴染は言う。

「わたしじゃなくて、海とちゃんと話をしなよ。……あの子のことだから、大助を責めたりなんかしないだろうね。その上、自分の本当の気持ちを隠そうとすると思う。だからこそ、面と向かって、納得がいくまで話し合ってきて」

 人の気持ちに敏感で、それを鋭く指摘する。だからこそ余計に奇異の目で見られる幼馴染の言葉は、大助の心に沁みた。そうしなければならないと思った。

「今日はしっかり晩御飯を食べて、話したいことをまとめよう。海は大助をお兄さんみたいに思ってるから、いつだって応じてくれるよ。恵さんと大助だってそうでしょう」

「そうだな。他の兄弟は知らねえけど、俺と兄ちゃんはそうやってきたな」

 大助は片手にタッパーを持ち、もう片方の手を亜子の頭にのばした。けれども亜子はその手を防ぎ、「髪をぐしゃぐしゃにされたくないからね」と笑った。だから大助は、そのままの姿勢で、亜子にただ「ありがとうな」とだけ言った。

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