先輩と悪評
翌日、海は日課を済ませて学校へ行き、サトと話をしていた。教室内はいつもと同じく騒がしいグループとおとなしい人たちに分かれ、噂話が飛び交っていた。
「え、進道?」
がやがやとした中、不意にそんな声がした。このクラスに進道という名の生徒は海しかいないが、名前が挙がるようなことをした覚えはない。海とサトが首をかしげていると、クラスメイトの一人がにやにやしながらこちらへやってきた。
「進道、先輩たちが呼んでるぞ」
「先輩?」
廊下を見ると、たしかにこの学年では見ない男子生徒の顔があった。あちらもどこかいやらしい笑みを浮かべていて、近づきたいとは思えない。
「進道、何かしたのか?」
サトが心配そうに尋ねてくるが、海には答えようがない。相手は道場関係者でもなさそうなので、心当たりはまるでなかった。
「わからないけど、呼ばれてるなら行ってくるよ」
席をたって廊下へ向かう海を、サトははらはらしたようすで見ていた。彼の心配は、やはり当たっていたのだった。上級生男子はやってきた海の首を腕でがっちりと押さえると、そのまま引っ張っていった。
着いた場所は、校舎脇だった。昨日の帰りに、海がいじめの現場を目撃した場所だ。そこに男子生徒数名と、見覚えのある女子生徒が待っていた。
「そうそう、コイツで間違いないよ。皆倉をおしおきしてたらボール投げてきたの」
女子生徒がこちらを指差して言った。彼女は昨日、ここで輪を作っていたうちの一人だ。そこでようやく海は、なるほど、と思った。どうやらここにいる者たちは、昨日の放課後にいじめを邪魔した仕返しをしたいらしい。
「進道っていうんだってさ。多分、心道館って道場のやつじゃねえ?」
「そうなの? 道場のやつが、どうして皆倉や一力と知り合いなのよ」
面倒なことになるのはいやだと思っていたら、そのとおりのことが起きてしまった。海は上級生たちの声を聞きながら、どうやって逃げ出そうか考えていた。いや、逃げるだけでは同じことが繰り返されるかもしれない。かといって、余計なことをして問題になっては困る。一度くらいなら殴られても我慢しようかなどと思っていたところへ、上級生の非常に耳障りな台詞が耳に入ってきた。
「じゃあ、こいつから迷惑料取ろうか。拒否したら、かわりに剣道やりに行ってる小学生から巻き上げるってことにしてさ」
「ああ、それ良いね!」
もちろん、良いわけがない。迷惑を被っているのはこちらだ。それ以上に、小学生から巻き上げるとはどういうことなのか。
実は、こういう輩は度々現れる。心道館門下生でも特に小学生が月謝を持ってくる日を狙って、それを奪おうとする人間がいるのだ。海はそのような事態に、不本意ながら慣れていた。
首を押さえられてはいるが、まったく身動きが取れないわけではない。足ならば十分に動かせる。そっと膝を曲げて、自分を取り押さえている上級生の脛に思いきり踵をぶつけてやった。
「いってえ! 何するんだ、こいつ!」
痛みに腕の力が緩んだ隙に、海はそこから抜け出した。本当は、けんかなどすると道場の評判にも関わってしまうのでしたくはない。けれども相手が道場の子供たちに手を出そうとしているのなら別だ。
今までだってそうしてきた。門下生が絡まれているときは、ためらわずに闘った。どんな相手であろうと、負けたことなど一度もない。
「一年が生意気なことしやがって!」
蹴られた上級生は激昂してこちらに掴みかかろうとした。しかし海はあっさりとその腕を受け止め、いとも簡単に相手を地面へ引き倒した。それを見ていた他の連中は、ただただぽかんと口を開けている。ちょっと脅してやろうと連れてきた一年生に、こちらがやられるとはまったくの予想外だったようだ。
「うちの門下生に手を出そうとしたら、同じ目にあわせるよ」
海は上級生を少しも恐れることなく睨みつける。女子生徒が「何やってるのよ」と男子たちの背を押すが、彼らは動く気になれなかった。海の持つ雰囲気に、すっかりのまれてしまったのだ。
黙ってしまった相手を見て、海は呆れて溜息をついた。これくらいで怯むのなら、初めからけんかなんか売らなければいいのに。そう思い、教室に戻ろうとしたときだった。
「お、もう終わり? せっかく混ぜてもらおうと思ってたのに」
一人の男子生徒が、校舎脇を覗いていた。
背が高い、つり目の少年だ。頬には絆創膏が貼られている。彼はこちらを見てなぜか楽しげに笑っていた。
「げっ、一力……」
地面に倒れていた男子生徒が呟く。それと同時に、残りの男子生徒や女子生徒は逃げていってしまった。それを目で追いながらあせる倒れていた彼に、あとから現れたつり目の少年が近づいて、その胸倉を掴んだ。
「逃げるくらいなら、けんかふっかけてんじゃねえよ。あいつらにもそう言っておけ」
「わ、わかった。わかったから放せよ!」
最後の一人も見送って、つり目の少年はひらひらと手を振った。それから彼は海に振り返り、にやりと笑った。
「何もされてねえみたいだな」
「はい、おかげさまで。……そんなことより」
海は少年を見つめ返す。先ほど聞いた言葉がたしかなら、相手は噂の彼だ。けんかでは負けなしの、誰もが恐れる二年生。
「一力先輩ですか?」
「ああ、一力大助だ」
思ったとおりの答えが返ってきた。それから、思ってもみなかった言葉も。
「お前は一年の進道海だろ」
「はい。知ってるんですか?」
「話は聞いてるからな。昨日、俺の幼馴染を助けてくれたんだろ? 何か礼をしないとなと思ってたんだけど、ちょっと登場が遅れちまったな」
やはり昨日の少女は、彼の知り合いだったようだ。けれども、こちらが名乗った覚えはない。道場の子だから思った以上に知られているのだろうか、などと海が考えていると、授業開始のチャイムが鳴った。
「いけね、遅刻だ。お前も早く教室に戻れよ」
噂の男、一力大助は慌てて校舎へ走っていく。海は彼の姿が見えなくなるまで、そこに立ちつくしていた。
一力大助、中学二年生。たしかに身長は、中学生にしては高いほうだ。ヤクザも震え上がるような鋭い眼光、というのはさすがに誇張が大きい。けんかの腕は見そこねてしまったが、金髪の美少女とはどうやら幼馴染らしい。そして海のことを、どのような経緯かはわからないが、話に聞いて知っていたようだ。
ということを海が報告すると、サトは目を輝かせて興奮していた。
「生で一力先輩を見るなんてすごいな! オレも見たかったー!」
「野生の動物じゃないんだから、二年生の教室行けば見られるんじゃない?」
「二年の教室なんて怖くて行けないって。オレは進道みたいに肝が据わってないんだよ」
いいなあ、と連呼するサトを尻目に、海は文庫本へと目を落とす。けれども、文章を読んでいるわけではない。頭の中では、上級生たちや大助のことがぐるぐると回っていた。
大助の名前を出すだけで相手は怯え、現れれば慌てて逃げ出す。噂ほど凶暴そうな人物には見えなかったが、周囲への影響力が強いことは確実だ。いったい彼は何者なのだろうか。誰から聞いて、海のことを知ったのだろうか。
それに、海は大助を見たとき、初めて会った気がしなかった。同じ学校なのだからすれ違ったことくらいはあるのかもしれない。けれどもそれ以上に何かがある気がしていた。
放課後、海は担任教師に呼び出された。授業に遅れたことについて、その理由を説明しろということだった。
「進道のような真面目な生徒が、何の理由もなしに遅刻するはずはないだろう? 正直に話してみなさい」
担任教師がそう言うので、海は素直に一連のできごとを話した。上級生に呼び出されたこと、金を渡すよう脅されたこと、けれどもそれには応じていないこと。しかしそこまで話したところで、担任教師は「わかった」と言った。
「そんなことをするのは、二年の一力だな。注意しておこう」
海は首をかしげた。こちらはただ「上級生に呼び出された」としか言っていないのに、担任教師はそれを大助だと断定した。
おそらくは、いや確実に、呼び出しの首謀者は大助ではない。なにしろ相手は、大助が現れた途端に逃げ出したのだから。それに、呼び出された理由もわかっている。昨日、海が女子生徒のいじめを止めたからだ。いじめられていた側は大助と親しいようだと考えると、大助が海を呼び出して脅す理由はない。それを他人にやらせる道理などなおさらだ。
「一力先輩は違うと思います。俺を呼び出したのは別の先輩たちです」
しかし海がそう言っても、担任教師は首を横に振った。
「いや、あいつは子分が多いらしいからな。近隣の住民から、生徒のことで学校に苦情が入ることがあるが、やってしまったやつはみんな一力の命令だと言うんだよ」
それは本当のことなのだろうか。海にはどうにも信じられない。上級生たちは明らかに大助の登場を都合の悪いものとして捉えていたようだったし、大助も彼らを使っているようには見えなかった。この学校の生徒がやった性質の悪いいたずらが、全て大助の差し金というのもおかしな話だ。
だが担任教師は完全に大助の仕業だと思っているようで、海の話はろくに聞かなかった。職員室から追われるように出てきた海は、疑念を持ったまま帰路に着いた。
他のことについては何も知らない。知る由もない。けれども今日のことに関しては、大助は何一つ悪いことなどしていないはずだ。そう訴えても、担任教師はまるで海のいうことこそが間違いであるかのように振舞っていた。納得がいかない。いくわけがない。
考えながら歩いていると、よほど難しい顔をしていたのか、鬼が心配そうに近づいてきた。海の顔を覗きこみ、『どうした』『何かあったか』と口々に尋ねてくる。海は「ちょっとね」と答えて、ごまかした。