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少女鬼と想い(後編)

「力を使うのをやめなさい!」

 突如響いた怒号で、海の意識は一気に引き戻された。酸欠状態だった体には急激に酸素が回る。ぜえぜえと息をしながら、くらくらする頭を抱え、こみ上げてくる吐き気に耐える。そうしてやっと顔を上げると、そこには大人の背があった。長い髪を束ねた、袴姿の男性。こんな格好をしているのは、一人しか思い当たらない。

「礼陣の鬼でありながら、鬼の子に手をかけるとは何事ですか!」

 いつも穏やかで、決して声を荒げることなどなかった神主が、目の前の鬼を一喝した。鬼はたじろぎ、怯えたように神主を見ている。海を支えていた大助までもが、驚いた様子で声の主を見つめていた。

『だって、わかってくれないから。私がどれだけ隆良君を好きか、全然理解してくれないから……』

 鬼がか細い声で言う。しかし神主は、首を横に振った。

「理解していないわけではありませんよ。あなたのサト君への想いは、十分にわかりました。けれども、その伝え方に問題があるのです。おわかりですか?」

『わかんないよ。願いを叶えてあげてるのに、何の問題があるの? 私は私にしかできないやりかたで、彼を助けているだけだもの』

 鬼は笑顔を浮かべていた。けれども、そこに余裕はない。苦し紛れの表情で、彼女は自分の気持ちを切に訴える。「助けてなんか」とかすれた声で言いかけた海を制して、神主はゆっくりと、しかし重々しく彼女に告げた。

「あなたは自分の想いに固執しすぎてしまい、鬼として大切なことを忘れてしまいました。真にサト君を想うなら、彼の思いにも気を配るべきでしたね。人間に対し気配りを忘れず、しかし過干渉はしないのが、この町の鬼のあり方です」

 それは礼陣で鬼が暮らすようになってから、ずっと心がけてきたこと。人間と共生するために、必要だったこと。彼女にはそれがわからなかった。サトを好きだという想いだけが先行して、他の事をないがしろにしてきた。それは許されることではない。呪い鬼にはならずとも、してきたことは咎められるべきことだ。

「あなたには、この町で鬼として暮らすための勉強が必要です。鎮守の森へ行きなさい。そこで鬼たちと交流し、学びなさい。人間と関わるのは、それからです」

 神主が下した結論は、海にしてみれば軽すぎるくらいのものだった。けれども鬼にとっては、足が崩れて放心状態になるほどに、ショックなものだった。森へ行き、森で暮らすということは、人間であるサトに会えないということなのだから。

『……どうして私の願いは叶えられないの。隆良君と一緒にいたかった。彼に喜んで欲しかった。どうしてそれができないの……』

 ぽたり、ぽたりと、彼女の目から雫が落ちる。鬼と鬼の子にしか見えないその涙は、地面に染みこまずに消えた。

そこから動かず、ただ泣き続ける鬼に、そっと近づく者がいた。いつからそこに立っていたのか、海たちの後ろから現れ、神主の横を通り過ぎ、鬼に触れてその髪をなでた。

「あなたは、彼のどこを好きになったの?」

 子守唄を歌うような、優しくやわらかな声で、愛は尋ねる。鬼は顔を上げ、愛と目を合わせた。それから少しだけ間をおいて、震える声で語った。

『笑顔が好き。元気なところが好き。……生き生きしている、彼が好き』

「そう。でも、最近の彼はどうだった? あなたの好きな彼だった?」

『違う。笑顔になってほしかったのに、暗い顔をしていた。元気になってほしかったのに、どんどん元気をなくしていった』

「そうね。それはどうしてだと思う? あなたのやり方は、本当に正しかった? 彼のためになっていた?」

 愛の目をじっと見て、鬼は言う。

『……違って、いたの? 私、彼を苦しめてたの?』

 先ほどまではこちらの言い分にまったく耳を貸さなかった鬼が、すっかり怒りを鎮めていた。愛がふわりと微笑むと、鬼は胸を押さえ、ぼろぼろと大粒の涙を流した。自分の犯してしまった罪にやっと気づいて、後悔と懺悔の念があふれてきたようだった。

『ごめんなさい……』

 愛にしなだれかかりながら、鬼はその言葉を口にした。何度も、何度も、まだ足りないというように、繰り返し謝り続けた。小さな子どもをあやすように、愛は彼女を抱きしめて、その髪をなで梳いた。

 そうしているあいだに、神主が静かに手を合わせ打ち、何かを呟くように唱えていた。この国の言葉ではなく、しかし外国の言葉にも聞こえない。不思議な響きが境内を満たしていくと、鬼が発した禍々しい空気が晴れていった。それと同時に、愛が抱きしめていた鬼の姿が、少しずつ透けていった。

 海はその光景を、まだはっきりとしない意識の中で見つめていた。「謝って許されることではないだろう」という怒りと、「やっと気づいてくれたんだ」という安堵が、心の中で入り混じる。この気持ちを整理する方法がわからず、それを考える気力もなく、ただ呆然と鬼の姿が消えるまでを眺めていた。

 やがて愛の腕の中に何もなくなってしまうと、境内に鬼たちが集まってきた。これまでの一連の流れを、離れて見守っていた者たちだ。彼らは海を囲み、心配そうに顔を覗きこんでいた。

「……大丈夫。大丈夫だよ」

 弱々しく笑って、海は鬼たちに返事をした。それを聞いて、鬼たちと大助は、ようやく胸をなでおろしたようだった。それから大助は海を抱え上げると、社務所へ運んでいった。下ろしてくださいと言ったが、聞こえないふりをされてしまった。結局その頼みが聞き入れられたのは、社務所の畳の上だった。

 まだ、体が痺れているような感じが残っている。たとえ無理をして自力で動くことはできても、バランスを崩して転ぶことは十分に考えられた。鬼の力は、暴走していなくとも、人間に対して大きな影響を与えられる。それを海は以前から知っている。自分で経験するのは、これで二度目だ。

「海君、お疲れさまでした。しばらく休んでいてください」

 神主が優しげな微笑みを浮かべて言った。海は一度うなずいて目を閉じようとしたが、それをやめ、かすれた声で尋ねた。

「あの鬼は、どうなったんですか?」

「鎮守の森の奥へ、送りました。呪い鬼にならないよう、後悔からくる悲しみを和らげましたから、しばらくはおとなしくしているでしょう」

 消えたように見えたのは、そういうことだったらしい。つまりは鬼追いと同じだ。鬼追いでは、呪い鬼を神社へ帰し、その呪いを祓う。彼女の場合は呪い鬼ではなっておらず、すでに神社には来ていたから、鎮守の森へ帰したのだ。あとは彼女自身が、自分のしてしまったことと向き合い、本当にすべきことは何かを考えるのだという。

「それだけで、許されるんですね。サトは父親を奪われそうになったのに」

 海は力の入らない手を握りしめようとする。まだあの鬼を許せなくて、この手で懲らしめてやりたかったという気持ちを消せなくて、胸のあたりにもやもやしたものが残っていた。けれども、大助が首を横に振って言った。

「許されちゃいねえよ。森の奥に、大鬼様の権限で送られたんだ。そう簡単に出てこられやしない。サトにまた会うのは難しいだろうな」

 好きになった人に、そばにいたいと願った人に、会えないことこそが一番の罰だ。大助は、そして神主と愛もそう考えていた。鬼の力を不当に使ってしまった彼女への戒めとしては、十分なものだろうと。でも、海だけは納得できない。痺れの残る身をよじって、起き上がろうとしながら、抗議する。

「サトに会わないなんて、そんな当然のことが罰なんですか? そんなの、サトの苦しみに見合いません」

「それは君の考えです。君は彼女ではないし、サト君でもない」

 神主は海の肩に手を添え、寝かせようとした。満足に動けない海は、それに従うしかない。再び体を横たえた海に、神主は続けた。

「そして私自身も、あれで本当に良かったのか、未だにわかりません。私は長い時を生きてきましたが、何が正しくて何が間違っているのか、考えても答えが出ないことは多くあります。……君に関することでも、そうですよ」

 海は神主から目を逸らし、黙り込んだ。礼陣を守るという鬼の長である、大鬼様でさえも「わからない」という。それでは、海が答えを出せるはずもない。できるのは、ただ自分で作り上げたものをひたすらに信じて、それを貫くこと。それが正しいかどうかは考えずに、そうするべきだとして前に進むこと。それは、サトを想うあまりに人々を傷つけてしまったあの鬼と、何が違うのだろう。

 様々な思いが入り混じった心を抱えたまま、海は目を閉じた。歩き回って、叫んで、鬼の力を受けた心身は疲れきっていた。そのまままどろみに落ちていき、ここまで保ってきた意識はついに沈んでしまった。

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