初夏と喫茶
ゴールデンウィークが終われば、しばらくは退屈な学校生活が続く。学力テストなどもあるが、一年生は上級生に比べれば真剣さがない。学校の雰囲気にも慣れ、噂話もある程度は流せるようになる。今はそんな季節だ。
海が鬼追いをやめてから、もうすぐひと月になる。遠川に呪い鬼が現れやすいという現象は続いており、ときどきそれを追い払っている。だが鬼追いをしなくなっても、大助と亜子は気兼ねなく声をかけてくれるので、呪い鬼の情報は大助に教えるようになった。
あとはほとんど何も変わらない。鬼追いでなくても、海が鬼と接することができるという事実はそのままだし、道場でも人間と鬼を差別することはしない。
「進道、今日は暇?」
サトとの付き合いも相変わらずだ。クラス内で席替えをしたはずなのだが、なぜか彼との位置関係に変化はなかった。サトが前で、海が後ろ。彼はいつものようにこちらへ振り返って話をする。
「稽古がないから、暇といえば暇。課題があるから、暇じゃないといえば暇じゃない」
「課題なんて、お前ならすぐ終わるだろ。暇ならちょっと付き合えよ」
「付き合えって、どこに何しに?」
「神社にお参り。今度、野球部初の練習試合があるんだ。必勝祈願だよ」
海は「神社」という言葉にどきりとした。鬼追いをやめさせられた一件以来、神社に行くことはあっても、神主や愛に会わないように、すぐに帰ってきていた。二人を嫌いになったわけではない。ただ、顔を合わせたときに、どんな態度をとればいいのかがわからないのだ。
だから海は少しだけ迷ってから、うなずいた。
「いいよ。放課後、一緒に神社へ行こう」
神主は神社にいるが、外へ出てくることは少ない。基本的には社務所にこもっているはずだ。神主がその調子だから、愛が境内をうろついているということもあまりない。彼女はいつでも、神主にくっついている。海がふらっと神社に行っても、二人に合う確率はそれほど高くはない。
たとえ会ってしまったとしても、適当に挨拶をしておけばいい。それ以上話すことはないのだから、他に用事があるとでも言って神社を離れてしまえば問題はない。そう思って、海は放課後、サトとともに礼陣神社へ向かった。
初夏の日差しに、木々の葉がつやつやと輝いている。神社の境内にある、ご神木と呼ばれる大きな木の下で、人間の子供と子鬼たちがくるくると駆け回って遊んでいる。もっとも、人間のほうに子鬼たちが見えているわけではなさそうだ。しかしそれを見守る他の鬼たちは、人間にも子鬼にも平等に、優しげな瞳を向けている。いつもの平和な、礼陣神社の光景だ。
海は鬼たちに軽く挨拶をしながら、サトと並んで手水場へ、それから拝殿へと足を運んだ。ひと月前に町のみんなで磨いた賽銭箱と拝殿は、その姿をきれいに保ったまま、そこにあった。
賽銭を入れ、鈴を鳴らす。すると周りにいる鬼たちが振り向く。彼らは人間の願いに敏感で、それを知りたがるのだ。それが鬼たちに叶えることのできるものならば、ときどきではあるが、力を貸してくれる。
丁寧に二礼して、拍手を打ち、また丁寧に一礼。その動作を、境内にいる者だけでなく、鎮守の森にいる鬼たちも静かに、しかし興味深そうに見ている。今、この瞬間は、彼らはサトに注目していた。その心に宿る願いを読み取って、ふむふむとうなずきあっている。
サトも真剣だった。なにしろ、ほとんど部活の態をなしていなかった野球部に、ついに人数とそれなりの技術がそろったのだ。かつて少年野球の団体に所属していたメンバーをサトがやっとの思いでかき集め、練習をした。同時に他校の野球部と交渉をし、とうとう練習試合にこぎつけた。このサトの努力と根性を、海や周りの人間たちだけでなく、鬼たちも認めていた。
だからといって、鬼たちが全面的にサトの味方をして、試合に勝たせてくれるかといえば、そうではない。試合の相手だって、勝つことを望んでいるのだから。鬼たちは試合当日のグラウンドに集合し、熱い声援を送るのみ。あとは遠川中学校野球部の頑張りにかかっている。サトだって、それくらいは理解している。
「願いもかけたし、あとはひたすら練習あるのみだな。進道、走りこみに付き合えよ」
「俺、神社に行くって言っただけなんだけどな。まあいいよ、たまにはサトと走るのも悪くない」
石段を下りたら、遠川地区まで走ろう。そうして二人は拝殿に背を向けた。けれども、その実行は後回しになってしまった。
「あ、大助さんと亜子さん。こんにちは」
「なんだ、海もいたのか」
ちょうど石段を上ってきた大助が、片手を挙げて、にかっと笑った。亜子もその隣で手を振っている。海はよく会っているので慣れたものだが、サトはそうではない。大助といえばけんかが強いことで有名な上級生だし、亜子は彼と一緒にいる金髪美女という認識だ。二人を前にして、サトはあわてて海の袖を引っ張った。
「進道とこの人たちが仲良いってことは聞いてたけど、本当にそうなんだな」
「ごく普通の、先輩と後輩の関係だよ。サトも挨拶しろ、失礼だろ」
海が促して、サトもようやく二人に向かって頭を下げる。すると大助が面白いものを見つけたというような目で、サトを眺めまわした。
「お前が海の友達か。野球部で、噂好きで、俺をやくざか何かみたいに思っているとか」
「す、すみません! 一力先輩については強烈なエピソードが多かったので! ひと月前のけんかの話なんか、もうすごく有名で……」
そこまで言いかけたサトの後ろ頭を、海が小突く。ひと月前の話は、海もあまりされたくない。あの一件はけんかという形で収めたが、そのあと大助と海がタッグを組んでいただの、二人はもともとライバルだっただのと噂が噂を呼び、大変なことになってしまった。大助と海は遠川地区の有名人になり、話を聞いた春の祖父からは、実に不名誉な呼び名までいただいた。しかもそれは瞬く間に、礼陣中に広まったのだった。
「さすが噂好きのサト君だな。俺たちが遠川狂犬ブラザーズって呼ばれていることも知ってるんだろ?」
「大助さん、その呼び名は忘れましょう。全然かっこよくないですから」
大助が愉快そうに言うのを、海は眉根を寄せて制する。それを見て、亜子とサトが同時に声をあげて笑った。彼らだけではない、周りにいた鬼たちまで腹を抱えている。海の顔がみるみるうちに赤くなるのを、大助も面白がっていた。
「そういうわけで、こいつとは兄弟扱いされている。よろしくな、サト」
「はい! いやあ、話してみるといい人ですね、一力先輩」
一緒に笑い合ったせいか、大助とサトは一気に打ち解けたようだった。海はそれを喜んでいいのか、それとも変なところで意気投合するなと文句を言っておいたほうがいいのか、苦笑しながら考えていた。
大助たちが神社に来た理由は、海たちと同じくただの参拝だった。特に何事もなくても、日常の平和を祈りによく来るのだということだった。大助が鬼追いの振り返りなどで神社に足繁く通っていることを知っている海には、それは自然なことに思えた。けれども、もしそうでなかったとしても、ここへ来て平穏を求めたくなる気持ちはわかってしまう。なにしろ遠川中学校を中心に、すでに何度も事件が起きているのだから。問題児の多い学校に在籍している以上、何もありませんようにという思いは常にあるだろう。
参拝を終えると、亜子はくるりと海たちへ振り向き、まぶしい笑顔で言った。
「ねえ、海たちにこのあと用事がなければ、一緒に御仁屋に行かない? わたしと大助で奢ってあげるよ」
「本当ですか!」
サトはすぐに食いついた。走りこみをする話はどうなったんだ、と海は思ったが、大助にも誘われたので行くことに決めた。どちらにせよ、境内で話を続けてしまうと、神主に会ってしまうかもしれない。神社を離れるなら、大助たちと一緒にいてもいなくても同じことだ。そうと決まれば、四人ですぐに石段を下りた。
礼陣名物「おにまんじゅう」が有名な和菓子屋「御仁屋」だが、その店内には喫茶スペースを設けていていて、メニューの種類も定番のものから季節限定商品まで豊富だ。訪れる客層も様々で、大人はもちろん子供にも親しまれているが、一番のファンはもちろん礼陣の守り神、大鬼様である。彼の大好物であるおにまんじゅうは、礼陣内外の人間たちと礼陣中の鬼たちに好まれているのだった。
店に入り、喫茶スペースで席を取ると、すぐに水が運ばれてくる。やってきた和服姿の店員に、大助が注文を告げた。
「おにまんじゅうと抹茶パフェ。それから……」
その視線が海とサトへ向けられ、二人はあわてて言葉を継ぐ。サトは焼きまんじゅうを、海はおにまんじゅうをそれぞれ頼んだ。「急がせたか?」と大助が尋ねたが、二人とも首を横に振った。ここにはよく来ていて、よく食べるものは決まっているので、即座に答えられるのだ。
「抹茶パフェって、皆倉先輩のですか?」
店員が去ってから、サトが言った。亜子はいかにも楽しみだというふうにうなずいた。
「そうだよ。ここの抹茶パフェ、美味しいから」
「女子に人気ですよね。夏はわらびもちなんかも……」
ほぼ初めて話すというのに、サトは亜子に対してあまり遠慮がない。亜子もサトの質問ににこにこしながら答えている。海は水を飲みながら、二人の様子を横目で眺めていた。
サトのことは小学生のときから見ているが、彼はもともと誰に対しても懐っこい。だからこそ、おかしな噂をたくさん集められるのだ。海はこれまでそんな彼に助けられもしたし、逆に余計な世話を焼かれたこともある。今のこの状況は、海としてはどちらかといえば好ましくなかった。
それに気づいたのか、サトはこちらを見て「まずいな」という顔をした。そしてあせったように話題を変えた。
「なんだよ、進道。親友のオレが女性と話してるから拗ねた?」
「いや、拗ねてはいないけど。ただ、サトはなれなれしいなと思っただけ」
海が率直に伝えると、サトは苦笑した。それから亜子に向かって、「なれなれしくしてすみません」と言ったが、亜子は手を振って答えた。
「ううん、わたしはなれなれしいとは思わなかったよ。サト君はいつもどおりにしているんでしょう?」
「はい、オレはこれが通常運転です」
「そうだよね。海が女の子を苦手なだけだよね」
さらり、と亜子がそう言う。その言葉に、海の動きはかたまり、大助とサトは驚いた。ただし、この二人の「驚き」は異質のものだ。大助はそのことを知らなくて驚き、サトは知っていたからこそ驚いたのだ。
「皆倉先輩。それ、進道が言ったんですか?」
「ううん。見てて思ったのと、大助のお姉さんからちょっと様子を聞いて。大助に対してと、わたしや愛さんに対してでは、海の態度が違うもの」
グラスを持つ海の手に、力が入る。亜子の言うことは正しかったのだが、正しく認識されていることが恥ずかしかった。自分では自然に振舞っているつもりだったのだが、亜子にはばれていたようだ。
「海、そうだったのか?」
大助が信じられないといった顔で尋ねる。彼にはわからなかったらしい。海はうつむいて、小さな声で「そうです」と言った。
「女の人は、ちょっと苦手なんです。年下は妹のようなものだと思えば問題ないんですけれど、同級生以上はできればあまり接したくないです」
「じゃあ、亜子は? 姉ちゃんは?」
「正直言うと苦手でした。亜子さんは何度か話して慣れましたが、愛さんは未だに近寄りがたいです」
いじめられていた亜子を助けたときも、本当は関わりたくないと思っていた。それは諍いに首を突っ込みたくないというだけでなく、そこにいたのが女子だったからだ。愛とは鬼追いをしているときも、極力話さず触れずを心がけてきた。彼女がいないと鬼追いができないので鬼の石を通じて呼んでいたが、そうでなければ頼りたいとは思わなかった。
サトは小学生の頃からの付き合いで、そのことを知っていた。そのときすでに、海は女子が苦手だった。笑顔が爽やかで、勉強も運動もできる海は、女子からの人気が高かった。今でも一年女子に注目されていることを、サトはよく知っている。けれども海は、そんな女子ほど遠ざけたがった。できるかぎり関わりを持たないようにし、話しかけられてもそっけなく応対していた。けれども女子のほうは、それを「クールな一面もある」と受け取っていて、特に気にしてはいなかった。だから海も、その態度で女子が苦手だということを隠せているつもりでいた。
つまり「海は女の子が苦手だ」と指摘した女子は、亜子が初めてだった。
「亜子さん、いつからそう思ってました?」
海がぎこちなく尋ねると、亜子は「会ってすぐ」とこともなげに答えた。海に助けられたときから、その態度を見て、「この子は女の子が苦手なんだな」と思っていたらしい。それが確信になったのは、大助からのメモを渡しに行ったときだったという。
「メモを受け取るとき、少しでもわたしに触れることを避けてたでしょう。それでわからないわけがないよ」
「俺はそんなに不自然でしたか」
「うん、あからさまに。わたしが大助と一緒にいても、あまり視界に入れないようにしてるなっていうのを感じてた」
まったくそのとおりだった。亜子はよく大助と一緒にいたが、海は大助にしか用がないこともあり、彼女の存在を無視しようとしていた。もちろん完全に無視するとばれてしまうので、可能なかぎり自然にそうしようとした。だがそれも、亜子本人にはとっくにお見通しだった。
「じゃあ、それをわかっていて、どうして俺に話しかけるんですか。普通それに気づいたら、俺を嫌だと思うでしょう」
海はうつむいたまま、声を絞り出すように言った。大助の手前、彼女が正直に答えることはないだろうなと思って、わざと尋ねた。けれども亜子は、先ほど海が女子を苦手としていることを指摘したときと同じように、言いよどむことなく自然に返した。
「大助の大事な後輩と仲良くなりたいもの。残念ながら数少ない大助の理解者を、わたしが嫌うなんてことはないよ」
その言葉に、嘘は微塵も感じられなかった。海は思わず顔を上げ、亜子とまともに向かい合った。彼女はいつもどおり、にこにこ笑っていた。
「……亜子さん、変です」
「女子が超苦手な海に言われたくないなあ」
正直で、さっぱりしている。そんな女子は、道場の門下生を除いて、これまで海の周りにいなかった。いや、海がいつも避けていたから、そんな女子がいることを知らなかった。きちんと向き合ってみれば、こんな人も存在するのだ。海は自分の弱点を指摘されたとき以上に、恥ずかしいと思った。
そこでちょうど、注文の品がテーブルに届いた。話を聞いていて、タイミングを見計らったのかもしれない。亜子の前にパフェが、サトの前に焼きまんじゅうが、大助と海の前におにまんじゅうが置かれる。「ごゆっくりどうぞ」と言う店員の表情は朗らかだった。
「それじゃ、おやつタイムにしようか。いただきまーす」
まるで何事もなかったかのように、亜子はパフェを食べ始める。サトもそれに続いて、弾むように「いただきます」を言った。大助と海は顔を見合わせて、ぎこちなく笑い、二人のあとを追った。
「海、諦めろ。亜子はこういうやつだ」
「はい、よくわかりました」
そのあともお喋りは止まらなかった。けれども、海の表情はここに来たときよりも晴れやかになっていた。