大きな事件と呪い(三)
結局、昨日の夕方から夜にかけて、呪い鬼は出現しなかった。翌朝になってから、海は日課である家の前の掃除をしながら、鬼たちに尋ねて確認した。あの鬼は、犯人を見つけることができなかったらしい。
だが、鬼のおかげでわかったことがある。「奴ら」というからには、犯人はやはり複数で、遠川地区に住んでいる。これは確実な情報だ。
今日は剣道の稽古がない日だ。放課後の時間は犯人捜しに費やすことができる。そして海はそのとおりに行動した。授業が終わってからすぐに家へ帰り、竹刀と、念のため鬼の石を持って、すぐに出た。自転車に跨り、回るのは礼陣神社と遠川地区のみ。まずは神社に犯人の痕跡がないかどうか、もう一度確認する。それから遠川地区を走り、昨日の鬼を捜す。彼はまず間違いなく、犯人を捜し続けているだろう。
神社は何度も確認したが、これまでに直接犯人に繋がりそうなものは見つかっていない。あったとしても、掃除のときにきれいさっぱり消してしまったかもしれない。塗料はわずかも残っていないし、マッチの燃えかすも危ないからと神主が片付けてしまった。ここにはもう何もないことを確かめたなら、次は遠川地区へ向かう。
とはいえ、東西に広いこの地域をしらみつぶしに行くのは効率が悪い。海はまず、塗料が持ち出された可能性のある遠川高校へ行った。学校周辺には生徒が多く残っており、部活動のかけ声も聞こえる。しかしこれだけたくさんの人間がいるにもかかわらず、昨日の鬼の姿はなかった。まだ来ていないのか、それとも今ここにいる人間の中には犯人がいないのか。鬼が現れるのを待っていても時間が経つだけなので、海は他を回ることにした。
先ほど遠川高校から礼陣神社への道のりを逆にたどってきたが、あの鬼はいなかった。もしや犯人の家の近くにいるのではないかと思い、住宅街のほうへ自転車を走らせる。可能性があるのは、和通りより洋通りだ。どういうわけか、柄の悪い連中は洋通りの人間が多いのだ。
洋通りの、欧風住宅の並ぶ路地を、自転車で駆け抜ける。相変わらずきれいに手入れされた庭や洒落た出窓のある壁が目立つ。その中に異様な風体の鬼が立っていれば、すぐにわかるはずだ。しかし、その姿を目にすることはできなかった。鬼はいるのだが、その誰もが昨日の鬼とは違う。洋通りにはいないのかと思い、海は次に和通りを目指した。
遠川地区の洋通りと和通りのちょうど境目には、駄菓子屋と、子供たちが公園代わりにしている空き地がある。昼間のあいだは、小学生の子たちがここで野球やサッカーをして遊んでいる姿を見ることができる。けれども夜になるとその雰囲気は一変し、近づきがたい場所になってしまう。主に遠川高校の、特に柄の悪い学生が集まるのだ。集まったところで大した悪さはしないのだが、多少は騒ぐので近所から苦情が出る。ときどきそこに中学生が混ざっていて、遠川中学校にも連絡が入るのだと教師が言っていた。
今の時間、空はまだ明るい。空き地には、小学生がいてもおかしくない。けれども今日に限って、小さな姿は見当たらなかった。子鬼すらいない。ただその中央に、鬼がぽつんと立っていた。背が高く、筋骨隆々で、真っ白な衣装の鬼。間違いなく昨日の鬼だった。
「やっと見つけた」
海がそう言うと、鬼はこちらへ振り向いた。その目はやはりぎらぎらと燃えていて、海の心臓をどくりと波打たせる。彼の怒りは、まだ冷めてはいないのだ。
『私を捜していたのか』
鬼は低い声で問う。海はうなずき、自転車を空き地の前に停め、彼に近づいた。そばに寄れば寄るほど、その怒りが肌を刺激するようだった。
「まだ鎮守の森に放火しようとした犯人を捜しているんでしょう?」
『そうだ。そして、ここにいたことがわかった』
鬼が空き地を見渡す。海もつられて、周りをぐるりと見た。今ここには、海と鬼の二人しかいない。けれども鬼は、犯人たちはたしかにここにいたのだと言う。
『待っていれば来る。そんな気がする。だから邪魔をするな、人間よ』
鬼には不思議な力があるが、この「勘」もその一つなのだろうか。彼はここで、犯人たちを待つつもりのようだった。
「邪魔をするつもりはありません。だから俺もここにいます」
それを信じるならば、海もここから離れるわけにはいかない。鬼の怒りを見届けるか、それとも鬼追いとして止めるか。この迷いにまだ結論は出ていないが、どちらにせよ鬼の近くにいなければできないことだ。それに、犯人の顔も見てみたい。できれば度を過ぎたいたずらの動機を聞き、礼陣の人々に謝らせたい。もっとも、鬼が手を下してしまえば、彼らは謝ることすらできなくなるかもしれないのだが。
『お前は、何だ。なぜここにいる』
鬼が再び問う。海はその燃えるような目を見て、答えた。
「俺は海。人間と鬼を騒がせた原因を、もとから断つためにここに来ました」
鬼はじっと海を見たあと、ひとこと『そうか』と呟いた。それ以上は何も言わなかった。いや、言えなかったというほうが正しい。なぜならこれが、彼が正気でいられたときの最後の台詞になったからだ。
「あれ、進道君じゃん。こんなとこで何やってんの?」
現れた人間たちの顔と声に、海は覚えがあった。いつか海を呼び出して返り討ちにあった、中学校の上級生だ。こちらを見てわずかに怯えながらも、馬鹿にしているようなその口調。おそらくは後ろに、見知らぬ男たちがついているからだろう。大柄で、しかし頭が良いようには見えない彼らは、たぶん高校生だった。
「センパイ、あいつ生意気なんですよお。このあいだちょっと呼び出したら、調子にのって暴力ふるってきたんですう」
亜子をいじめていた女子が、大柄な男に擦り寄りながら言う。男は海を値踏みするような目で見て、にやりと笑った。勝手に自分のほうが上だろうと判断したような、そんな笑みだ。
しかし、そんなことはどうでもいい。海が気にしていたのは、正面の人間たちではなく隣の鬼だった。こぶしを握りしめ、鋭い眼光で現れた者たちを睨みつけている。それだけで十分にわかった。神社を汚し、鎮守の森に火をつけようとしたのは、彼らだ。
海がそれを確信したその瞬間、禍々しい空気が場を満たした。風や生活の音が、人の気配が、ぶつりと途切れたように消える。ただ、犯人たちの姿はそこにあった。そしてこちらを見て、目を皿のようにまるくしていた。彼らが見ているのは海ではない。頭には天へ向かって伸びるつの、体は異様ともいえる筋肉に包まれ、背は人間よりも高い。すでに呪い鬼と化してしまったそれを、口を開けて眺めていた。
「なんだ、これ……」
中学生男子の一人が、やっとそれだけを言葉にする。他は口をぱくぱくするだけで、声を出すことすらままならない。初めて見る呪い鬼の迫力に、ただただ圧されていた。
動けない彼らに向かって、呪い鬼はその太い腕を伸ばす。そして一人を掴み、目の前まで持ち上げた。海が見上げると、宙に浮いた人間が恐怖に顔を歪ませながら、歯をがちがちと鳴らして震えているのがわかった。さっきまで余裕のある笑みを浮かべていたことを思うと、なんだか滑稽だった。
ふと、彼と目が合った。何を言いたいのかはすぐに理解することができた。でも、海は何もしない。彼らがやってきたことの報いなのだ、「助けて」やる必要はないだろう。関係のない人間に危害が及ぶのならば呪い鬼を止めなければならないが、今、ここには関係者しかいない。海に迷いはなかった。
呪い鬼が手に力を込めたのか、掴まれた彼が苦しそうに呻く。他の者は足が竦んでしまっているのか、その場から一歩も動こうとしない。これまで散々他人を傷つけ、貶めようとしてきたくせに、圧倒的な強さを見せる者の前では何もできないようだ。仲間を助けようとすることもなく、かといって逃げることもできずに、そこにいるだけ。その様子を、海は夢でも見るかのように眺めていた。彼らがどうなっても、自業自得だ。むしろ、報いは受けたほうがいい。自分はそれを見届けよう。邪魔はしないと、鬼に言ったのだから。
「何やってるんだ、バカ!」
そこへ突然響いた声と、こちらへ駆けてくる足音があった。その足は恐怖でかたまっている人間たちの脇を抜け、地面を蹴る。そして呪い鬼の腹に一発入れた。乱入してきた者の蹴りに驚いたのか、呪い鬼は怯み、人間を掴んでいた手をぱっと広げる。どさりと落ちて尻餅をついた彼は、そのまま這うようにあとずさりしていった。
やってくるなり呪い鬼に蹴りを入れた大助は、地面に転がるように着地すると、海に向かって怒鳴った。
「海! お前、どうして呪い鬼を止めないんだ!」
海は首をかしげる。大助の言っていることこそがよくわからない。今ここで呪い鬼を止めることは、悪人を助けることになってしまう。
「大助さん。そいつら、神社を汚して鎮守の森を燃やそうとした、犯人です」
「それがどうした」
「この呪い鬼が怒るのは当然のことですよ。だから止める必要なんてありません」
「お前、何言ってるんだよ! なんかおかしいぞ!」
大助がこちらへ走ってきて、海の肩を掴む。けれども海はその手をはずし、言い返した。
「おかしいのは大助さんです。あいつらをよく見てください。亜子さんをいじめて、うちの門下生を強請ると言って、大助さんに罪をきせようとした人間ですよ。全部あいつらが悪いのに、助ける必要なんかどこにあるんですか?」
海がひとこと語るごとに、呪い鬼から発せられる禍々しさが大きくなる。低い声でうなり、もう一度獲物を捕らえようと歩く。へたりこんだ少年たちを今度こそ握り潰してやろうと、その手を広げる。それに気づいた大助は海から離れ、呪い鬼の手に近づき、がっしりとしがみついた。
「やめろ! そんなことをしても、なんにもならねえぞ!」
しかし呪い鬼がその言葉を聞き入れるはずもない。手を振り払い、大助を地面へ叩き落した。背中を強く打った大助に、海は駆け寄って言う。
「放っておけばいいんです。あいつらはそれだけのことをしたんですから」
「いいわけねえだろ!」
それでもなお叫ぶ大助に、海は肩をびくりと震わせた。大助は起き上がりながら、低く、しかしはっきりと告げる。
「あいつらはたしかに、ひどいことばかりしてきたかもしれない。けどな、それを裁くのは呪い鬼じゃねえ。人間のしでかしたことは、人間の手で解決しなきゃならねえんだよ。それに、お前だってわかってるだろ。呪い鬼を放置すれば、苦しむやつが増えるんだ」
「他の人が被害にあう前に止めればいいでしょう」
「それじゃ、あの鬼のためにならねえよ。人を傷つけて罪の意識をもつのは、鬼も一緒だ。アイツはこれからずっと、自分が人を呪ったことを後悔することになるんだ」
大助はまた呪い鬼に向かっていく。何度行っても払われるのに、懲りずに呪い鬼を止めようとする。次第に呪い鬼のほうが苛立ってきたのか、当初の目標から目を離し、大助を睨みつけた。面の下にある怒りの形相が、邪魔をするものに向けられた。
それなのに、大助は不敵に笑っていた。呪い鬼を挑発するように顎をしゃくって、その気を自分に引きつけようとしていた。きっと愛が来るまで、呪い鬼の相手をするつもりなのだろう。他の人間を傷つけないように。鬼追いという役目を全うするために。
呪い鬼が手を振り上げた。大助を叩き潰そうと、ありったけの力をこめている。海はとっさに竹刀袋を下ろし、中身を抜き取って放り投げた。そして振り下ろされる呪い鬼の腕と大助とのあいだに割りこみ、竹刀を構えて攻撃を受け止めた。
「この鬼に言いました。邪魔するつもりはないって」
腕を弾き返すと、呪い鬼はふらりとよろけた。バランスをとろうと体勢を整えているあいだに、海はあらためて竹刀を構える。大助を庇うように静かに前に出て、呪い鬼の様子を窺う。
「でもそれは、あいつらをこらしめる邪魔をしないって意味です。大助さんにまで手を出すなら、俺は呪い鬼を止めなきゃいけません」
悪事をはたらいた人間を、海は許すつもりなどない。助ける必要などないと思っている。けれども、自分を助けてくれた人に恩を返すためなら、鬼自身を呪いから解放するためなら、闘わざるをえない。だって、鬼追いをすると決めてしまったのだから。
呪い鬼がこちらを見る。怒りに染まったその目は、今度は海に向けられている。なぜ邪魔をするのかと、言葉にせず語りかけてくる。海は鬼の目を見つめ返し、言葉なく返事をした。俺は鬼追いをしなければならないんだ、と。
襲い来る腕を竹刀で叩く。何度も、何度も叩いて弾く。呪い鬼が大きく腕を振り上げた隙に、海はその脇腹を力いっぱい打った。竹刀は折れてしまうのではないかと思うほど大きくしなる。これ以上はない、渾身の一撃だった。それによって呪い鬼の体はぐらりと傾き、その筋肉質な上体を地面へ倒した。
愛が到着したのは、その直後だった。
「……大助、海君。遅れてごめん」
彼女はそう言って、うつむきながら、すっかり腰をぬかしていた少年たちの横を通り過ぎた。そうして呪い鬼に近づき、手にした短冊のような紙でそっと触れた。
「大鬼様が神社で待ってる。行って、あなたの気持ちを吐き出しておいで。町をさまよい、怒りを抱え続けるのは、とてもつらかったでしょう」
愛が言葉を紡ぐと、呪い鬼の姿は徐々に消えていった。完全にその場から見えなくなった頃、周囲には生き物の気配が戻り、音が満ちた。
少年たちは肩を寄せ合い、まだ震えている。竹刀を構えたままの海を見て、一番手前にいた中学生男子が呟いた。
「ばけもの……お前、ばけものだったのかよ」
海はその言葉に、ゆっくりと振り向いた。先ほどまで呪い鬼に向けられていた恐怖の表情は、今度はこちらを対象としていた。
「さっきのあれ、ばけものだろ? 鬼は神様だもんな、オレたちを襲うなんてばけもののやることだ。それを見て知らん顔してたお前は、あれの仲間だろ?」
神社を汚しておいて、鬼が神様だという認識はあるらしい。それを思うと、なんだかおかしくて、海は笑った。渇いてからからになった歪な笑顔を、彼らに向けた。
「はは、……あはは。お前ら、言ってることおかしいよ。……それがわかってて、どうしてこの町で悪さができる? 人を傷つけて、脅して、罪をきせて、大切なものを壊して。そんなことが、どうして簡単にできたんだ!」
やっぱり、彼らだけは鬼に裁かれるべきだったんだ。海の脳裏に、そんな言葉が溜まっていった。それが頭の中をごちゃごちゃと埋めつくしてしまう前に、肩に優しく手が置かれた。
「海、鬼追いは終わった。あとは人間と人間の問題だ」
大助が微笑んでいる。海の肩にのせている手は軽いが、もう一方は強く握られているのが見えた。
「ちょっと大助、何をする気?」
愛もそれに気づいて止めようとしたが、もう遅かった。海から素早く離れた大助は、そのままへたりこんでいる少年たちに飛びかかり、その頬をこぶしで思い切り殴った。
「大助、やめなさい!」
「悪いな、姉ちゃん。コイツら放っておいたら、呪い鬼のこととか周りにべらべら喋りそうだからさ。全部俺とけんかして気絶したときの、夢だったってことにしようと思って」
現に、殴られたほうは気絶していた。大助は続けて次を殴る。相手が高校生であろうと関係ない。ただ、唯一の女子は呪い鬼を見て卒倒したのか、すでに気を失っているので放っておくようだった。
「大助さん。それじゃ、また大助さんが悪者になるじゃないですか。俺も……」
「海は手を出すな。お前と姉ちゃんには、俺が全部やったっていう証言をしてもらわなきゃならねえんだからな。それにお前は無傷だけど、俺は呪い鬼とやりあって、それらしいけがもしてる。俺が一人でけんかしたっていうほうが、説得力もあるってもんだ」
大助が大勢を相手にけんかをしていたところへ、海と愛がやってきて、それを止めようとした。しかしすでに相手は気絶しており、しかもどうやら悪い夢を見ていたらしい。それが大助の提案した筋書きだった。呪い鬼のことを一般に知らせないためには、この話に従うしかないようだ。愛は涙ながらにうなずき、しかし一仕事終えた大助の頬を、平手で一発だけ打った。
「けがをしているあなたには酷だけど、これだけは姉のつとめとしてやらなくちゃいけないわ」
「全然平気。姉ちゃんの平手なんか、ちっとも痛くねえよ、もっとやられてもいいぜ」
「ばかなことを言わないの。私はあなたを叱っているのよ」
「……うん。ごめん」
そのやりとりを、海は黙って見ていた。口では黙っていただけで、心の中では「茶番だ」と呟いていた。
そう、こんなものはただの茶番だ。大助の言うシナリオは不完全だ。ついさっき、彼は自分で言っていた。「人を傷つけて罪の意識をもつのは、鬼も一緒だ」と。鬼も、ということは、人間もそうだということだ。この人は相手を殴りけがをさせることで、自分自身をどれだけ傷つけてきたのだろう。誰かのためにそのこぶしを振るうことで、どれだけ損をしてきたのだろう。
「よし、人を呼ぶか。ちゃんと口裏合わせろよ」
そう言って見せる笑顔がどれだけ痛々しいか、彼は自分で気がついているのだろうか。