大きな事件と呪い(一)
礼陣は基本的に平和な町だ。事件が連続して起こるなどということは、そうそうない。遠川地区は主に中高生の悪ふざけが原因で、たびたび近所で苦情が出るが、誰かがけがをするなどよほどのことがなければ事件にカウントされることはない。
中学生による万引きは久しぶりの「事件」だった。学校では全校集会が開かれ、町中に事件の噂が広まった。他の学校でも注意喚起があったほどだ。けれども、すぐに騒がれることはなくなった。
なぜなら、その直後に「大事件」が発生してしまい、誰もがそちらに注目するようになたためだ。
「……困りましたね」
神主が言葉どおりの表情で溜息をついた。その隣で、愛が泣きそうな顔をして正面を見つめていた。その後ろには多くの人間と鬼がいて、神主と愛が見ているものを覗き込む。そしてそれを目にしては、深い溜息をついたり、眉を寄せたりした。
そこには、カラフルな賽銭箱と拝殿があった。もちろん、もともとこんな色をしているのではない。赤や桃色、青に緑といった様々な塗料で、故意に汚されていたのだった。
「神主さん、ありったけの掃除用具を持ってきました!」
話を聞いた海も、神社へ駆けつけた。自転車のかごや荷台に、バケツや雑巾などを積みこんで、道場から運んできたのだ。海だけではない。和人や八子など、心道館門下生のほぼ全員が、稽古を終えてからすぐにやってきたのだった。
学校が休みだったので、その日の稽古は午前中に行われた。そろそろ終わりという頃に、神社が汚されているらしいという情報が入ったのだ。
「おかしいと思ったんだ。いつも稽古を見に来る鬼たちが、今日は全然いないんだもん」
八子がバケツを抱えながら言った。海も同じことを思っていたが、こんな日もあるだろうというくらいにしか感じていなかった。まさか神社に異変があったなんて、考えてもみなかった。
「とにかく、早くきれいにしないと。鬼たちもがっかりしてる」
社務所でバケツに水を汲み、それをリレーして拝殿まで運ぶ。大勢の人で、その水に雑巾を浸し、絞る。塗料は幸運にも水性で、拭き取ることができた。人間たちだけではなく、鬼たちも掃除に参加する。雑巾を手に取り、人間では届かないような高いところや隙間に飛び散った塗料をきれいに取り除いていた。
海は水のたっぷり入ったバケツを運びながら、次第にもとの姿を取り戻していく拝殿を見ていた。礼陣に住む誰もがこの神社を愛していて、神社のために一生懸命になっている。それなのに、どうしてこんなに悪質ないたずらをされてしまったのだろう。いったい誰がこんなことをしたのだろう。
「誰か、犯人を見たやつはいないのか?」
近くで掃除を手伝っている鬼たちに尋ねてみる。けれども、彼らは首を横に振った。
『たぶん、やられたのは夜だろう。人間も鬼も寝静まった頃だ。大鬼様さえ気づかなかったのだからな』
鬼はそう言うが、人間が全員夜中には寝ているとは限らない。神社のある社台地区には大学があり、近くにはそこに通う学生たちが住んでいる。夜中に外を出歩くことも珍しくはない。それによそから来た人間なら、この神社にそれほど馴染みがないので、こんないたずらもしてしまうかもしれない。
犯人のことを考えながら、海がバケツの水を交換しようとしたとき、袖を引っ張られた。
「海にい、ちょっといい?」
「どうした、春?」
春も他の人たちと同じように、噂を聞いてやってきたらしい。片手には汚れた水の入ったバケツを提げている。彼女は周りに聞こえない声で、こっそりと囁いた。
「子鬼ちゃんたちに呼ばれて、鎮守の森のそばに行ったの。そうしたら、マッチの燃えかすがあって……」
海は思わず顔をしかめた。いや、この話を聞けば誰だって同じ顔をするだろう。森のそばにマッチの燃えかすがあったということは、誰かがそこで火をつけようとしたということだ。バケツを置いて、春に聞いた場所へ走ってみると、そこにはたしかに火をつけたあとのマッチと、周りの草や葉が燃えた痕跡があった。
「これに、最初に気づいたのは?」
声をかけると、木陰から子供の姿をした鬼たちがわらわらと出てきた。この子たちが発見し、春に報せたようだ。
『さっき、燃えかすを見つけたの。それで近くに春がいたから、教えたの』
『海、これも誰かがやったのかな』
子鬼たちは切なげに海を見上げる。違うよ、と言ってあげたいのに、言葉が出てこない。言ったところで嘘になるとわかっている。海は子鬼たちの頭をなでて、「ごめんな」とだけ呟いた。
今、この燃えかすに言及すれば騒ぎが大きくなる。掃除が終わって、人がいなくなってから、神主に報告することにした。
賽銭箱と拝殿は、昼過ぎにはきれいになっていた。人間が雑巾で拭き、鬼が少しだけ力を使って完全に塗料を消した。みんなで掃除をした結果、汚れていた部分はもと以上に輝いているように見えた。
「木製だから染みができてしまうかと思ったけれど、きれいになったね」
「鬼さんが手伝ってくれたのかねえ」
鬼の姿が見えないはずの人たちも、きっと鬼が手を貸してくれたのだと話し合っている。それを見ている鬼たちは、嬉しそうにしている。神社はなんだか和やかな雰囲気になっていた。
けれども、悪質ないたずらをされたことには変わりない。こんなことをしたのは誰だ、と怒りをあらわにする人間や、暗く沈んだ顔をした鬼たちもそこかしこにいる。町はしばらくこの話題でもちきりになりそうだ。
「みなさん、掃除のご協力ありがとうございました。みなさんがこんなにも神社を大切にしてくださっていることがわかって、私はとても嬉しいです」
神主が拝殿前に立って、集まった人々に言った。たしかに微笑んでいるが、やはりどこか寂しそうでもあった。みんなが大切にしてくれているこの場所を、同じようには思っていない人たちもいるということが、同時にわかってしまったのだから無理もない。
人々は神主に励ましの言葉をかけて、石段を下っていった。心道館から持ってきた掃除用具は、はじめたち大人が持ち帰ってくれた。あとに残ったのは神主と、巫女である愛、そして海、春、八子だった。
「ねえ、みんな。神社はきれいになったんだから、元気出して。明日、わたしとおばあちゃんがまた掃除しにくるから」
八子が鬼たちに語りかける。毎週日曜日に神社を掃除しに来る八子は、今日はちょっと大変な大掃除だったのだと思って動いていたらしい。いつも彼女を手伝っている鬼たちも同じように考えることにしたようで、笑顔でうなずいていた。
一方、春はまだ不安げな顔をしていた。海の袖を引っ張り、こっそり呟く。
「海にい、さっきの……」
「うん、俺が神主さんに伝えておく。春はやっこちゃんと一緒に、先に帰ってくれ」
「わかった、お願いね」
春は周りの鬼たちに挨拶をしてから、八子と手を繋いで境内をあとにした。これで、この場所にいるのは何人かの鬼たちと神主、愛、海だけになった。静まりかえった境内で、海は意を決して口を開いた。
「あの、神主さん。さっき子鬼たちが見つけたんですが……」
すると神主は、最後まで聞かないうちにうなずいた。
「ええ、鎮守の森の入り口ですね。燃やそうとした跡があるのでしょう」
「知ってたんですか?」
「子鬼が教えたはずだぜ」
目をまるくする海の後ろに、いつのまに現れたのか、大助がいて言った。どうやら子鬼たちに好かれている彼も、話を聞いていたらしい。しかし、これまで大助はどこにいたのだろうか。海がそれを尋ねようとすると、大助は先回りして答えた。
「今まで、町にいる鬼から話を聞いてまわってた。途中で子鬼から鎮守の森のことを聞いてな、すぐ神主さんに報告しろって言ったんだ」
『この忙しいときにさらに厄介事を増やすのもどうかと思ったのだが、大助がそう言うのでな。他にこのことを知っていた子鬼たちから情報を集め、ついさっき伝えたところだ』
大助のそばには、おかっぱ頭の子鬼がいた。境内と町を動きまわる大助を、彼女が繋いでいたのだろう。「もっと早く伝えろ」と大助から軽くげんこつをくらっていたが。
「とにかく、他の方々に見つからずに済んだのは良かった。あれ以上の騒ぎは、人間にも鬼にもいい影響を与えません」
ただでさえ、拝殿が汚されたことで町中が神経質になっているのだ。未遂とはいえ放火があったなどということが知れたなら、人々の不安は大きくなる。それが鬼たちに及ぶと、呪い鬼になってしまう可能性もある。
「まず私たちは、鬼たちの不安を少しでも和らげることを考えなくちゃね。人間に不信感を抱いてしまった子もいるかもしれないわ。大助が見てきたときはどうだった?」
「不信ってほどでもねえな。怖がってるやつには大丈夫だって言っておいた」
鬼追いの役目は、ここからが本番だ。鬼と人間の心に生まれた負の感情を、少しでも取り除かなければならない。
海はそれと同時に、犯人を捜さなければならないとも思っていた。こんなことをした人間を野放しにしておいては、不安は続くだろう。見つかるという保証はないが、見つからないと決まったわけでもない。できるかぎりのことはしたかった。