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笑顔カウント

作者: けー

 猫が死んだ、ようだ。

 死んだかどうか定かではないのは、実際に死に様を見たわけじゃないからだ。もう5年も引き籠もっている彼の自室を、母親が恐る恐るノックし、「みぃちゃん、死んじゃったよ」と声をかけてきたからだ。

 食事を持ってくる時か、こちらが呼んだ時以外近づくなと、きつく言ってあるのに、それ以外の用で声をかけてきたことに一瞬ムっとしたのだが、短い言葉で知らされたみぃちゃんの死は、彼の怒りを悲しみで覆い隠すのに十分な威力を持っていた。

 みぃちゃんとの付き合いは18年にもなった。といっても、捨て猫だったから正確な年齢は分からないのだが、それでも十分長寿だったことには変わらない。当時彼は小学5年生で、何の前触れもなく、酔っ払った父親が「猫拾ったよ」と貧相で真っ黒な子猫を抱いて帰ってきたのだ。

 子猫は慣れない人と場所にすっかり緊張していた。やせっぽちな体には不釣り合いな、ギラギラとした目を忙しなく動かしては、狭いところ狭いところへと逃げ回った。

 そんな期間が数ヶ月の間続いたが、さすがに猫も環境に慣れるようで、次第に家族とも打ち解けていった。

 それからというものは、実にふてぶてしい日々だった。

 腹が減れば、ところ構わずにゃぁにゃぁと喚き立て、飯はまだかとがなり立てる。腹の皮が突っ張れば、居心地のよい場所に我先と陣取り、気の済むまでそこで安眠を貪る。腹をなでようものなら、指に噛みつく、引っ掻く。

 やんちゃだったみぃちゃんも、10の後半ぐらいに差し掛かると、一気に老け込んだ。

 食事もほとんど取らない。触っても怒らない。昔は抱っこも大嫌いで、1分と許さなかったものだが、この頃になれば、不平一つ言わずに何分だろうと腕の中にいてくれた。一日の睡眠時間も、大分長くなった。

 その頃を境に、彼は引き籠もるようになり、みぃちゃんの姿を見ることもなくなった。

「みぃちゃん、死んじゃったのか…」

 最後に姿を見たのは、もう3年も前だった。3年間、自室とトイレ、浴室を行き来するだけの生活だったものだが、みぃちゃんに一度も合わなかったのは彼にも意外だった。足腰もすっかり弱ってしまって、ずっと寝たきりだったのだろうか。それすらも、今の彼には知るよしもない。

 机の引き出しから、古いアルバムを引っ張り出す。そこには、まだ元気だった頃のみぃちゃんの姿があった。撮ったのは同じく若かった自分。父から借りた銀塩カメラで撮った写真は、焦点が合ってなくピンぼけだった。こんな写真しか残ってないのかと思うと、急に寂しくなった。もっとたくさんいい写真を撮っておけばよかった。「今のみぃちゃんは、どんな姿なのかな」

 最期にそばにいてあげられなかったことが、今になって悔やまれた。でも今ならまだ、お別れを言うことぐらいは許されるかもしれない。

 彼はすっかり重くなった腰を上げて、自室から出て階下へ降りていった。

「母さん、みぃちゃんは?」

 リビングには、目を泣き腫らした母と、猫用のベッドでいつものようにうずくまったみぃちゃんがいた。眠っているようにしか見えないのだが、死んでいるのだ。

 母はひどく驚いた様子で彼を見上げた。引き籠もってからというもの、このリビングに足を踏み入れることはなかったのだから。

「死んじゃったよ。ついさっき。でも苦しそうじゃなかったよ」

「そう」

 みぃちゃんの目は光を失って濁り、半開きの口から垂れた舌は早くも乾いていた。艶やかだった毛並みも、大分くたびれていた。

 母に視線を移す。

 髪には白髪が混じり、目尻の皺も増え、頬の肉も以前より垂れ下がってきていた。3年間で、こうも老け込んでしまうのか。それもこれも、自分が引き籠もって迷惑をかけてきたせいなのか。いやそうに決まっている。

 母の笑顔を、もう何年見ていないのだろう。少なくとも、3年は見ていない。

 生きとし生けるものはいつか死ぬ。みぃちゃんのように。

 母はあと何年生きられるだろう? その間に、何度笑顔になれるだろう?

 自分が部屋から出て、前向きに生きていければ、きっとその数は増えるだろう。

「母さん、俺、働くよ。がんばる」

 母が最期を迎えるとき、みぃちゃんの時のような後悔を二度と味わいたくない。自分が努力して、今まで迷惑かけてきた分を帳消しにできるぐらい恩返しできれば、きっとその時が来ても、満たされた気持ちで送ってあげることができるだろう。

 母はさっき以上に驚いた顔をみせたが、

「みいちゃんが最期に大きなプレゼントをくれたね。だってあなたを部屋から連れ出してくれたんだもの」

 そういって、3年ぶりの笑顔を見せてくれた。

 さっそく、笑顔カウントプラス1だ。


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