最東のカシン 5
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カシンはどこだ。ここは確かに<城>があったはずの場所だ。それなのに空には月が現れ、気付けば<城>は暗闇に覆われている。思考は纏まらない上、馬から落とされた身体は興奮のせいで痛みこそ感じないが動かしにくい。
「アイリス様……」
なぜ自分は傍にいなかったのか。近衛騎士でありながら、なぜ主君の傍を離れたりしたのだ。カシンを、主を飲み込んだこの暗闇は何だ。民は、王は、王妃は、アイリスは無事だろうか。
そうして目の前の影を凝視していたリオンはふと気付く。暗闇は一色ではなく、時折月の光をちらちらと映している。暗闇の中でざわざわと何かが揺れているように見えた。
じっくりと見つめれば答えはすぐに分かった。これは木だ。空が落ちてきた時のように何故か歪んだ空気に包まれているが、歪みの向こうにあるのは紛れもなく大木の集合だった。木々があまりに密集しているせいで暗闇に見えたのだろう。
リオンが腕を回しても足りなそうな太い幹、生命力に溢れ空に伸びゆく枝と茂る葉は魔力に満ちていることを感じさせる。リオンはこんな木を魔導院の中ですら見たことがない。カシンで育てていた果樹もせいぜいリオンと同じくらいの丈で、幹の太さはリオンの腕の方が太いくらいだった。見上げるようなこんな大きな木があるのだろうか。しかもそれは一本二本どころではなく無数に寄り集まって、大きな虚を生み出している。
カシンはどこだ。この木々が飲み込んでしまったのか。
見たこともない木々の集まりはリオンの心に恐怖を与えたが、しかし怯んでいるわけにもいかない。アイリスたちがこの中でリオンの助けを待っているかもしれないのだ。リオンは暗闇に踏み込もうとしていた。
「それ以上行ってはならん!」
リオンが足を踏み出しかけたその瞬間、ユニが後ろからリオンを羽交い締めにした。その老いた容貌からは信じられないほどの強い力で後ろに引かれ体勢を崩しながらも、リオンはその場に踏みとどまろうと踏ん張る。リオンはアイリスを助け出さなければならない。いくらユニでも止めようとするなら必死で振り払うだけだ。
そうしてユニの存在を認識した瞬間だった。夕暮れの出来事がリオンの頭の中を光のような速さで駆けていた。そしてそれは気づかなければ良かったとさえ思えるほどの、暗い閃きであった。
なぜあんなにもユニはリオンを連れ帰ろうとしたか。なぜ魔導師は突然王に謁見を求めてきたか。なぜ帰りを急いでいたのか。カシンを眺めたいと言ったヘイゼル。まるで全て知っていたかのように。
真っ直ぐにすべてが一つの同じ道を辿っていた。面白いようにすべての事象が一つの真実を語る。
彼らは今夜起こることを知っていたのだ。そうとしか考えられなかった。そして、それは自分を必死に引き留めるユニへの不信へ繋がっていった。ユニも勿論、すべて知っていたのだ。
「う、うう、うわああああああ」
リオンは叫び、腕を力いっぱい振り上げてユニの拘束を振り払った。
実の親以上に信頼を寄せていた人間の裏切りに、壊れそうなリオンの心を繋いでいるのは、記憶の中でも鮮明な金の王女の凜とした眼差しだけだった。
アイリス。夕暮れの陽が差し込む廊下で眩しいほどの笑顔を浮かべる美しい少女。その像が、リオンの眼前で薄れてゆく。
彼女を暗闇に消してはならない。呻き声を洩らしながらリオンは少女の幻影に向かって右手を大きく伸ばす。
「リオン!」
ユニの悲痛な制止の声も、間に合わなかった。
伸ばされたリオンの右腕は、荒野と暗闇の境に澱んでいた空気の歪みにぶつかり吸い込まれた。途端に右腕を襲った激しい焼け付くような痛みに、リオンは喉が裂けるような悲鳴を上げる。思わず腕を引こうとするが、肩近くまでめり込んだ腕は何かに捕らわれたかのように動かない。間断なく襲う激痛に苦しみの声を上げながら、リオンは自分の右腕が大きな流れの中に四散していくような感覚を覚えた。歪みは右腕を細かく引きちぎり、異空間にばらまいていく。
右腕は駄目だ。右腕を失っては剣が握れない。アイリスを守れない。カシンを守れない。与えられた道を、また失うのは怖い。
絶望と恐怖と苛烈な痛みは、リオンを恐慌状態に陥らせた。今までに出会った人々の顔が走馬燈のように流れ、リオンは己の人生が閉じたことを全身で感じた。最も厭ったことが現実になろうとしている。その恐ろしさから僅かでも逃れたいという心が、リオンの身体を跳ね回らせ、どうしようもない叫び声をあげさせる。
真っ白な頭で主の名を呼び続けるリオンがやがて気を失うまで、右腕の奪われる感覚は続いた。