最東のカシン 4
***
「お帰りだ」
小部屋の扉が開き中で控えていた衛兵が現れるや、扉を押さえて礼をする。それに続いて、藍色のローブに姿を隠した魔導師たちが廊下に足音を響かせた。
リオンは窓の外にやっていた目を慌ててそちらへ向け、彼らに向かい礼をする。リオンの存在など無いもののように、魔導師たちは一瞥もくれない。しかし最後に現れた五人目の魔導師はリオンに気づき、そのフードを取った。
「もしや、リオンか」
優しさの篭もった懐かしい声で呼びかけられ、リオンは顔を上げる。目の前にはリオンが知っていたよりも皺の深くなった、しかし変わらない笑みの初老の男が立っている。
満面の笑みを浮かべることは不作法だと知りながらも、リオンはそれを抑えきれない。唇を噛んで堪えようとしたために、泣いているような顔になった。
「ユニ様。お変わりなく」
感激に震える胸が喉までふるわせるので、リオンはひとつひとつ確かめるように口に出す。それを見つめるユニも感涙が迫るのを堪えている様子だった。
「リオン。なんと、大きく立派になった……」
「ユニ様も、お元気であらせられ……」
言葉を最後まで続けることもかなわず、二人は伝えきれない感情を瞳に託して視線を交わす。
目の前に立つユニはリオンの記憶よりも髪は白くなり肌も老いていたが、その性質がかつてと何ら変わりないことをリオンは感じていた。こうしてリオンに気づき、喜んでくれることがその証だ。
「カシンの者は良くしてくれているか」
「はい。まるで家族のように皆、優しくも厳しくも接してくださいます」
「そうか」
ユニが目を細めて微笑む。リオンも同じように微笑み返した。
「何年か前、アイリス王女が魔導院で一年学ばれた時に、王女はわざわざ私のところに来てくださってな。お前が王女の近衛騎士になったと聞いた」
「正式に拝命しましたのは十一年前です。騎士として命を賭してもお守りしたい主に出会うことが出来たと思っています」
「そうか。……お前がそんな目をするのを見られて、本当に良かった。お前はここで、幸せなのだな」
ユニが何を思い浮かべているのかは察しがついた。おそらくはユニに拾われた、あの頃の薄汚いリオンの姿だ。ユニと魔導院で過ごした時間も、リオンに未来までは見せてくれなかった。リオンには魔導が扱えない。そのことでユニをどれだけ悩ませてしまったろうか。
目を伏せたリオンは、ふと窓から差し込む光が赤く染まっていることに気づいた。
「今日は、ユニ様はすぐに帰られてしまうのですか」
「ああ。日が落ちる前にカシンを立たねば」
「しかし今からでは馬を駆っても魔導院に着く頃には朝を過ぎてしまいます。今日はカシンに留まられてはいかがですか。陛下に奏上して参ります」
自分の願望も含ませながら尋ねたが、ユニは躊躇う時間も持たず首を横に振った。
「いや、残念だがリオン」
「しかしユニ様、夜の荒野は大変危険です」
「お前の心遣いは嬉しいが、急いで戻らなければならないのだよ」
「……何か大変なことでも起こっているのですか」
頑なに夜の荒野に出ようとすることに違和感を覚えたリオンは、ユニの態度をそう結論づけた。そしてユニの顔が険しくなったのを見て確信する。
なぜこんな時期にしかも高位の魔導師が揃って<城>に現れたのか。冷静に考えれば、ひどくおかしなことである。重大な星占でもあったか、早急に王の協力が必要な問題が起こったか。
子細は分からないが、魔導師たちがもたらした問題はこの<城>を脅かすものかもしれない。初めてリオンはユニに疑いの目を向けた。
「いや……」
ユニは否定を何度か繰り返したが、リオンの意志の揺るがないのを知ると、やがて諦めたように小さなため息をついた。
「……全て、話すべきことは王に話した。お前たちにそれを伝えるのも全て、あとは王が判断することだ」
ユニの言うことは尤もである。しかしなぜか、リオンはそれを素直に信じることが出来なかった。何か歯に挟まったような物言いをするユニへの疑念と、それを必死に打ち消そうとするユニを慕う心がリオンの中でせめぎあっていた。
ユニは何か重大なことを隠している。そうは思うのだが、いくらリオンがユニと親しい関係であれど、ユニが謁見で話したことを聞き出すのは臣下の立場で許されることではない。ユニが話せないというならそれに頷くしかないのだ。
リオンが黙したのを納得とみたのか、ユニは笑みを口元に結んだ。
「心配せずとも、カシンの王族は聡明だ。いずれ聞くことが出来るだろう」
「ユニ様……」
「ユニ導師」
リオンの言葉を遮ったのは、若い衛兵であった。今の時間は内門に控えているはずの彼の姿に、リオンは首を捻る。答えはすぐに明らかとなった。
「ヘイゼル導師よりご伝言です。その……ぐずぐずしないで早く来い、と。魔導師様たちは皆様外門の方でユニ導師をお待ちになるそうです」
「そうか。伝言ご苦労であった」
「はっ」
外門と言えば、この城と城下町を囲う巨大な城壁から荒野に出るための門である。城と町を合わせて<城>と呼び、かつ、王族が住む場所も城と呼び慣わすため、荒野に繋がる門を外門、王族の住居に構えられた方を内門と呼び分ける。
外門で待つというのは、何とも慌ただしい。高位の魔導師ともなれば高齢であろうに。まるでこの<城>から逃げだそうとでもするかのようだ。
「ユニ様、行かれるのですか」
しかしどんなに師の様子に疑念を抱いても、リオンの心はユニの去る気配に寂しさを溢れさせ、それを最重要事項として思考の中心に据えた。
情けないとは思いながら、それでも十六年の空白はまだ埋め切れていない。もっとユニと話がしたかった。
一方でユニは衛兵を戻らせると、逡巡を繰り返すようにしばし考え込んだ。そしてリオンに向き直ると、穴が開きそうなほどその顔を見つめ、やがて重く口を開く。
「リオン……魔導院に戻る気はないか」
「えっ」
予想だにしていなかった言葉に、リオンは戸惑いを隠せなかった。
「一緒にこのまま私と魔導院に戻らないか」
「しかし、私は……」
「王とは私が後で話をしておこう。なに、問題はない。それに今日はお前を連れて帰るつもりだった」
「ユニ様、突然何のお話か分かりません」
ユニがリオンの腕を取る。皺の寄り筋張った薄い手は、思いも寄らない力強さでリオンの手首を握っていた。
「リオン、私は誘っているわけではない。命令しているのだ」
「何を仰っているのです、ユニ様。私は魔導院に戻るつもりはありません」
「リオン」
ユニがこんなにも大きな声を出すのは初めてだった。そしてこんな無茶な要求をするのも初めてのことだった。ユニに怒鳴られた記憶は新しいものでも六つの時、立ち入りが禁じられている魔導院の書庫へ忍び込もうとしたのを見つかった際にこっぴどく叱られたのを覚えているが、それもこれほどの剣幕ではなかった。無論、命令などと口走ったことは一度たりともない。
リオンは師の手を振り払うことも出来ず、ユニをどう宥めるかを考えていた。
「……ユニ様、気を沈めてください。私を魔導院に呼び戻したいのには理由がお有りなのですか」
冷静なリオンの声音に少し目が覚めたのか、ユニの手の力が少し緩み、表情も和らいだ。しかしその意志が折れた様子はない。
リオンは極めて静かな声を心がけながら、師の懐柔を図り続ける。
「魔力を僅かにも持たなかった私をユニ様は見捨てず、魔力を持たずとも生きられる道を真剣に探してくださいました。そして十六年前、私は他ならぬユニ様の手に引かれてこの城を訪れました。己の身体を鍛え、仕えるべき主君を探し、騎士を目指せと。不安もありましたが、ユニ様の心に報いたいという一心で、辛い稽古にも堪え忍ぶことが出来ました。……騎士を拝命した時、王陛下に名を戴きました。ユニ様に戴いたリオン・パドゥテという名に加えて、私は今、リオン・ユニ・パドゥテと名乗っております」
リオンの話をじっと聞いていたユニが、突然おののいたように目を見開いた。
「王に私がお願いしてユニ様のお名前を戴いたのです。ご迷惑でしたでしょうか」
「いや」
言葉少なに、ユニは目頭を押さえて俯いた。それが喜びの発露なのかはリオンにも判断がつかなかった。
「ユニ様。私はあなたを父上のようにお慕いしておりました」
「その父の頼みを、どうしても聞いてはくれないのか」
先程とは打って変わって弱々しい声に、リオンも心が痛んだ。ユニがどんな理由で言い出したことかは知らないが、自分が帰ることをこれほど切に願ってくれていたのかと思うと、それをはねのけるのには強烈な痛みが伴った。
しかし迷いは最初から無い。
「私が騎士として仕える主はアイリス様です。近衛としてアイリス様の傍に立ち、アイリス様を守ることが私の使命です。いくら父上の命令でも聞くことは出来ません。私の居場所を決めるのは主君です」
ユニはきっと理解してくれるだろう。そう生きろとリオンに説いたのは、他の誰でもなくユニその人なのだから。
ユニはそれを聞くと手をようやく放したが、それでも諦めきれない様子でリオンを見た。
「リオン、この城は……」
「良かった! まだいらっしゃったのね」
重くなっていた空気とユニの言葉を割り裂いて廊下に響いた声は、その主を確かめる必要もなかった。
「アイリス様」
もう授業は終わったのだろうか。先刻リオンが見たのと全く同じ狩猟服のままで、アイリスは軽やかに廊下を駆け寄ってきた。
「他の魔導師様はもう城を出てしまったと聞いたから、慌ててしまったわ。まだいてくださって良かった」
アイリスがユニに笑いかける。その無垢な明るさに、師の険しい顔と心がゆるく解けていくのを見て取り、リオンはほっと安堵の息をついた。
「本当はゆっくりお話ししたかったのだけど、リエンザ様との約束があってあまり長くはお話し出来ないの。だけどどうしてもご挨拶がしたくって」
「リエンザ?」
聞き逃さず音を捕らえたユニが訝しげに問うが、アイリスは窓の外の様子を伺ったりとせわしなく、その問いを聞き流す。
「アイリス様、どちらかへ行かれるのですか」
「城内だから危ないことはないわ、大丈夫。リオンは心配性ね。……ユニ様はこれから帰られるの?」
「ええ。王女、また機会があれば今度はゆっくりお話ししましょう」
「はい、ユニ様」
「ところでアイリス王女」
ユニが目の前のあどけない王女に柔らかく微笑みかける。ゆったりとした笑みには先程までの鬼気迫る表情はまったく感じられなかった。リオンは密かにほっとする。
「私はこれからすぐに発たねばなりません。だがもう少しリオンと話がしたい。難しいこととは承知の上ですが、アイリス様さえ良ければ……」
「もちろんよ」
みなまで聞かず、アイリスは心得顔で大きく頷いた。
「リオン、ユニ様を途中まで送って差し上げて」
「しかしアイリス様」
「私もリオンを約束に付き合わせられないから丁度いいじゃない。今日は魔導師様たち皆、供も連れてらっしゃらないそうよ。夕暮れ時は特に危ないし、リオンだもの。馬で行けば帰りもそんなに心配いらないでしょ」
リオンはしばらく躊躇っていたが、アイリスとユニの勢いに気圧されて頷いた。
いくらアイリスが良いと言ったところで、近衛騎士であるリオンが城を離れることなど許されるものではない。そうでなくてもアイリスの傍を離れるのは気がかりである。
しかし城下や荒野に出るわけでもないのだ。アイリスはまず安心だろう。賓客の見送りであるから、すぐに戻れば咎めもあるまい。リオン自身のことならば問題はないし、何よりこれから荒野に出るというユニが心配なことも確かであった。応えられなかったユニの気持ちに僅かでも報いたい心もあった。
リオンが頷くのを見て、アイリスもユニも顔を綻ばせる。
「それじゃあユニ様、お元気で。今度はお茶を用意してお待ちしておりますわ」
「リオンは有り難くお借りしていきます」
「ええ」
アイリスはにこやかに頷くと、慌ただしく謁見の間に向かっていった。
また最後の礼を忘れている。リオンは呆れながらも、変わらない少女を微笑ましく見送った。
「ユニ様、私は馬を引いて参りますので、少々お待ちいただけますか」
「あまり時間がない。私も先に外門の方へ向かっていよう」
「それでは急いで参ります。ユニ様、後ほど」
リオンはユニに向かって一礼すると、厩舎に向かい廊下を早足で進んだ。
ずっと何年も願ってきた再会が、現実の重みを伴って胸に澱む。リオンの記憶に残る優しく誠実で情の深いユニは、長い時間を経てやはり変わってしまったのだろうか。ユニは魔導師ではない人間にも、きちんと価値を認める人であった。だからこそリオンに騎士となることの誇りと責務を語り聞かせてくれたのだ。
そのユニが、主を捨てろという。
厩舎に着くなり慌ただしく愛馬の手綱を引きながらも、リオンの思考はユニを中心に渦巻いていた。
馬の背に跨り内門をくぐり、町の通りを外門に向かって進む。夕暮れ時、混み合う市場を人と馬ですれ違うのは危険なので、敢えて石で舗装もされていない外壁沿いを選んで走らせる。荒野の土と同じ乾いた土が馬に踏みならされ、小さく砂埃を吐く。
走りながら、ふとため息が漏れた。リオンが苦しいほどに感じているこの感情は、落胆なのかもしれない。
リオンは褒めて欲しかったのだ。子供じみた願いかもしれない。しかしリオンが騎士を目指した理由は、始まりからそれしかなかった。
リオンは魔導の才がないことで、一度ユニの期待を裏切っている。確かに魔導師になれるほどの才を持つ者はそう多くなく、魔導院で学びながら別の道を進む者も多い。リオンを迎え入れてくれたカシンの王たちも、リオンが魔導を修めなかった理由をそう捉えているだろう。
魔導師になるほどの才がないと言え、人はどんな者も多かれ少なかれ魔力を生まれつき持っているというのが普通だ。農夫が<城>の内だけとはいえ乾いた土を耕し作物を育てることが出来るのも、魔導院から与えられた魔導具に沿うことの出来る魔力を、僅かながら自分で持っているからである。
その魔力をリオンはまったく持っていなかった。リオンのようにわずかな片鱗さえも見られないというのは、魔導院に暮らしていた間も聞いたことがない。
そうと分かった時、誰もがリオンの人生を悲観したし、リオン自身も己の人生を諦めた。
魔力がないのでは魔導の術式に沿って土を耕す程度のことも出来ない。水、食物、衣服、鍛冶、あらゆる全てが魔導院による魔導によって支えられてる以上、この世界にリオンが生きる場所はなかった。
諦めなかったのはユニだけだ。
騎士ならば己の肉体を鍛えあげることで魔力を持たない弱味を補うことが出来る。そして何より人として真っ直ぐに生きることが出来る。ユニはそう言って、幼いリオンを抱き締めてくれた。事実が分かり一番落胆していたのはリオンよりもリオンに真剣だったユニかもしれないのに、彼はまたリオンに新しい道を示してくれたのだ。
今の自分を見て、ユニはどんなに喜んでくれるだろう。どんなに褒めてくれるだろう。ユニがカシンに来ていると聞いてからの期待感は、ほとんどがそんなもので占められていた。
落胆を感じている己の心の脆弱さが情けない。身体を鍛え剣技を極めても、心は弱いあの頃のままだということなのだろう。
外門に着くと、門番は訳を話す前にリオンを通してくれた。ユニが先に話してくれていたのだろう。外門前の橋の先に馬と馬車が待っているのが見えた。
「パドゥテ様、もう日も落ちます。お帰りはくれぐれもお気をつけて」
馴染みの衛兵に言葉を返しつつ、リオンは外門を出ていく。もう日は沈みきり、空に夕暮れの赤い余韻を残すだけだ。橋の向こうでは馬に跨ったユニがリオンを呼んでいる。
「行くぞ」
リオンが橋を渡ると、馬車の中から速やかに指示が出された。すぐに馬車が動きだし、ユニたちも続く。リオンが魔導院に暮らしていた頃よりもやはり老けたようだが、その特徴的な金属質な声から、指示を出したのはヘイゼルと分かった。
ユニともう一人がそれぞれ馬に跨り、馬車を御している魔導師が一人。城を訪ねてきたのは五人だったので、幌に隠れて見えないが、馬車にはヘイゼルともう一人乗っているのだろう。彼らはこの危険な荒野を本当に供もつけずにやってきたのだ。いくら高位の魔導師といえど、獣も賊も現れる荒野では些か危険すぎる判断だ。
「私が安全な道を先導致しましょう」
リオンが声を掛けると、ヘイゼルが幌の中から顔を出した。フードを外しているので髪の毛のない丸めた頭が目に入る。ユニに比べるとずいぶん年を取った印象であったが、ぎょろりとした薄灰の瞳は間違えようもなかった。
「あの時の子供か。……随分大人になったものだな。ユニも喜んだだろう」
ヘイゼルは口を歪ませて笑う。その笑みと声音には嘲りしか見つけられず、リオンは硬い笑みで返すのがやっとだった。
「それではカシンの城がよく見える場所に連れていってもらおうか」
「カシンの城、ですか」
「なかなか<城>をこの足で訪れることなどないものでな。少しばかり立ち止まって眺めたところで掛かる時間に大差はあるまい。あの小高いところなんかはどうだ」
ヘイゼルが示したのはカシンをやや離れた、大地の盛り上がって出来たような高台である。真っ直ぐ魔導院に向かう道からは逸れるが、そう問題になるほどの距離でもない。
「確かにあの場所ならば<城>もよく見えましょう。ただあの辺りは賊が現れることもありますし、やや危険かと思いますが」
「そのために君がいるのではないかね」
ヘイゼルは気分を害したのか、尖った声で言い放つ。
「案内をしたまえ。太陽神ネオの加護が、愚かなその身に残っているうちにな」
「はっ」
リオンは手綱を引いて集団の先頭に立つ。一瞬交わったユニの目が、申し訳なさそうにリオンを気遣っていたことだけが救いだった。
点在する<城>の中では東端に位置するカシンの周辺は、もう夜が始まりかけている。魔導師たちはお互い何か言葉を交わすでもなく、リオンの後ろを続いているようだ。
あまりに静かな道行きだからだろうか。リオンはあることに気づいて周囲を見回す。
獣の気配がない。
元々獣自体の数もそれほど多いわけではないし、この辺りは岩場がなく隠れる場所も少ないため、遭遇することもあまりない。しかし鼠や鳥の気配すらないというのは不思議だった。荒野はしんと静まり返って、馬の足音や馬車の立てる音だけがやたらに響く。
この静まり方はなんだ。馬車の通りやすそうなところを選んで高台を登りながら、リオンは五感を駆使して意識を研ぎ澄ませていた。彼らに何かあれば、それは世界にとっての損失だ。
そしてまもなく頂上でカシンを望めるという辺りに差し掛かった時だった。
「ヘイゼル様、あれを!」
ユニと同じく一人で騎乗していた魔導師が叫んだ。その声色からローブの下が若い女性であることをリオンは知る。
女の魔導師はカシンの<城>の方角である背後を、ひどく興奮した様子で指さしていた。
「月が」
魔導師たちがそれぞれにため息や呻きや感嘆を洩らすのを、リオンは遠くのことのように聞いていた。あまりの驚きに声もでなかった。
西に目をやればもう太陽は完全に姿を隠し、その光は僅かにも残っていない。完全な夜が訪れて薄い暗闇が迫っている。星は幾つも輝き始めているが、灯りを用意しなければすぐに一歩先も見えなくなってしまうだろう。
そう、まったくの夜であるのに。星と暗闇に静まり返る、人を守り導く太陽神ネオの不在の時間であるはずなのに。
カシンの城の美しい尖塔、ちょうどその東側に、それは当然のように浮かんでいた。白く怪しげに輝く円。それはどこか太陽の姿に似ている。目が離せないほどにその輝きは美しいが、その光はリオンの胸を不安でかき乱す。
「太陽……?」
リオンの呟く横で、ヘイゼルが馬車の中からまろび出た。ヘイゼルはその表情に歓喜とも取れる笑みを浮かべて、両手を空に伸ばしながら酔ったようなおぼつかない足取りで数歩、カシンの方角へ歩み出る。
「おお、おお、あれが! あれが、月……。マウレーン様の星占の通りに、現れたか」
「ヘイゼル様、今大きな魔力の波動が……」
女魔導師が言い終わらないうちだった。リオンは信じ難いものを目にした。
カシンの<城>の真上の空が重たげにたわみ、歪んだ。まるで空に水を注ぎ込んだようであった。暗い空は重たげにぐにゃりとまた大きくたわんで、その重みに耐えきれないように、カシンの<城>へ、空は落ちていく。
落ちた空は破れ、内包していたものをずるずると吐き出す。落ちてきた空が歪みながら散り散りになっていくと、上にはまた新しい空が座しており、先程までカシンの<城>があった場所は、空から吐き出された何か暗いもので覆い尽くされていた。
カシンが消えた。
リオンは突然起こった異常に、震えて言うことを聞かない腕で手綱を取る。
「リオン!」
リオンの様子のおかしいことに気付いたユニが声を掛けるが、リオンには届いていなかった。リオンの黒の瞳はもう焦点をまともに結んでおらず、突然現れた月とカシンのある筈の場所に陣取る暗闇の辺りを揺れ動いていた。
「アイリス様!」
リオンが発した音の中で、まともな言葉になったのはこれだけだった。リオンは単語すら形作ることの出来ない呻きと叫びを上げて、馬の腹を蹴り上げて走らせる。
「行ってはならぬ、リオン!」
ユニがすぐさまその後を追うが、騎士として馬に乗り慣れたリオンには追いつけない。必死に馬にしがみつきながら走っても、距離は一向に縮まらなかった。
「駄目だ、リオン!」
限界に近いほどの大声で叫ぶが、リオンは止まらない。もう声では引き留めることは出来ないだろう。ユニはそう判断し、リオンの足を別の方法で止めるため、集中を始めた。向かい風の中で途切れそうになりながら、魔導の詠唱を行う。
ユニが放った魔導は、過たずリオンの駆る馬の後ろ左足を燃した。足を痛めた馬は嘶いてその場にリオンを振り落とし、自らも地面に伏す。その目の前にはもう、空から落ちてきたあの暗闇があった。
何とか間に合った。ほっと胸をなで下ろすのも束の間、ユニは転げ落ちるように馬を降り、リオンの元へ走った。
馬から振り落とされながら、それでもリオンは<城>を目指していたのだ。