最東のカシン 3
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謁見の間、玉座の前には藍色の上質なローブに身を包み、フードを深く被って表情を隠した魔導師が五人立っていた。彼らはそれぞれ意匠の違う、胸当てのように大きな金の首飾りを下げている。
もう日は暮れかけ、人払いも済んだ謁見の間は灯りを燈す従者の姿もなく、人の輪郭を捉えるのもやっとな程に暗い。
玉座に座るカシン王はひどく憔悴しきり、いつもは精悍な顔を険しく顰め、頭を抱えていた。
「しかし……<森>はいにしえの戦争で滅びたはず」
先頭に立っている魔導師がしわがれた声で答える。
「そう、<森>は滅びた。しかし、月は滅びてはいない。月に属するはずの獣や植物が少なからず残っているのを見れば明らかであろう」
「しかし、ヘイゼル導師」
王が言葉を続けようとするが、ヘイゼルの持つ杖が床を突く音に遮られる。杖による無言の一喝に、王は口を閉じた。
その様子を見て老人は嘲るようにフードの下で唇を歪める。
「カシンの王は婿であったな。真に十祖の血を引く王妃ならば、わしの言葉の本当の意味が分かるじゃろうて。のう」
玉座の横に控えていたセレヌはヘイゼルに厳しい目を向ける。
アイリスとはまた違う、落ち着いた色の金髪を結いあげ、薄い水色のドレスを纏っている。魔導師たちを目の前に圧倒されている王の横で、王妃は凛として背筋を伸ばし、魔導師たちを睥睨していた。
「……マウレーン様、星占にはどのように」
王妃の言葉が静かな室内に響く。
ヘイゼルの後ろに立っていた小柄な人影がわずかに顔を上げた。
自分の存在を無視した王妃の言葉と視線に不機嫌になったヘイゼルが、また杖を床に打ち鳴らす。
「神聖な星占の答えを教える必要はない」
しかしセレヌは怯まなかった。
「ヘイゼル導師、私はマウレーン様にお伺いしております。ヘイゼル導師は随分と簡単に月の存在を口にされますが、四百年もの間、この世界から失われたものです。王の感じられたように、俄かには信じがたいことですわ」
フードに隠されていても、セレヌにはヘイゼルの怒りに強ばった表情が十分想像できた。
己の発言が魔導師たちから見れば不遜にすぎることは十分に分かっていた。魔導院を敵に回すことはひとつの<城>を預かる身として、絶対に出来ない。怖じ気付きそうにもなるが、しかし彼の怒りに動じる必要はないと自分に言い聞かせる。
ヘイゼルはどんどん声を荒げていく。
「王妃は魔導院に楯突く気なのか。たかだか<城>の主であるというだけで、我々と同等の立ち場であると勘違いしているのではないか」
怒りに満ちた声が広間に響きわたるが、セレヌは身じろぎもせずにヘイゼルを見つめた。
くだらない。どんな言葉で自分たちを飾っても、セレヌに感情を読み取られるようでは十祖の末裔の魔導師もたかが知れる。笑顔で何もかもを誤魔化してしまうあの流浪の魔導師の方がよっぽど狡猾だ。
セレヌはそんな心をおくびにも出さず、淡々と応えた。
「とんでもないことですわ。<城>も王族もただの飾り物。魔導院の力が無ければ、私達も城下の民も、飢えて死んでしまうでしょう。貴方がたはこの世界の全てを握っておられることを、ヘイゼル導師こそお忘れではないのですか」
ヘイゼルがやや言葉に迷ったのを察し、セレヌは更に畳みかける。
「<城>を出れば荒野しかありません。枯れた土地、死の世界です。人が幸せに生きようとするならば、<城>に篭るほかありません。その<城>も、魔導院に……太陽神ネオに縋ることでしか生きられません。だからこそ貴方がたの口から真実をお話しいただかなくては、私たちは自分の身を守ることも出来ないのです」
ヘイゼルが何か言おうとした瞬間、背後で声が上がった。
咎めるヘイゼルを制し、小さな声だがよく通る声で話し始めたのは、先程王妃が水を向けた小柄な人物だった。年齢も性別もはっきりと判別のつかない不思議な響きのする声で、マウレーンは端的に告げる。
「星占には、<森>の気配が感じられる」
「……そうですか。それでは、<塔>は」
「崩れ落ちる」
セレヌはその一言を聞くと、消沈したように俯いて黙りこんだ。
王が狼狽しながら王妃と魔導師たちとを見比べる。
「日が落ちる」
しばらくの静寂の後、ヘイゼルが言った。
「“要の場所”は守らなければならん。敵がどんな手を使ってくるのかは分からんが、王妃よ。“要の石”を守るのは、十祖の血を引くぬしの役目であることを忘れるな」
ヘイゼルがローブを翻して出て行こうとするのに、他の魔導師たちが従って続く。
扉が閉じ、魔導師たちの姿が見えなくなると、王は大きな安堵のため息を吐いた。
「セレヌ、一体なんだったのだろうか。魔導院から高位の魔導師があんなに……まさかヘイゼル導師自ら<城>に来るなんて」
「陛下……」
酷く疲れた様子の王に、セレヌはそっと寄り添う。
この謁見に一番臆病だったのはセレヌだ。だから王が魔導師たちの蔑みに合うと分かっていながら同席を求めた。優しい夫は謁見の間、矢面に立って彼女を守り、そしてずっと彼女の勇気を支えてくれた。
普段の立場からして複雑なのに、こんなことを聞かせてしまって、王はどれほどの不安を感じただろう。彼の心情を思うと申し訳なさで胸がいっぱいになる。
「セレヌ、今夜月が昇るというのは本当だろうか。そんなお伽噺のようなことが現実に……」
セレヌは王の左手を取り、愛情を込めて握った。婿として王座についた夫は、王でありながら王族の伝承をすべて伝えられるわけではない。信じられないのも当然のことだ。
「陛下、カシンは大丈夫でございます。月が昇ろうと<森>が再び現れようと、太陽神ネオ様が私たちをお守りくださいますわ。魔導師様方は、ただ<森>の気配というのが珍しいことなので様子を見に来られた、それだけのことでございましょう」
王の左手がセレヌの手を握り返す。その力強さに顔を上げると、王は海のように穏やかな青い瞳をじっとセレヌに向けていた。その表情からは先程の恐れも消え、ただ労りと慈しみが浮かんでいる。
「セレヌ、もし私にその資格があれば、お前もアイリスも守ってやれただろうに。だが今の私には、現状すら把握できないのだよ。今まで世界はこんなにも平和だったというのに、なぜこんなことが突然起こったのだろうか。私はお前と添って今まで後悔したことも身の上を嘆いたこともなかったが、この身に流れるのが十祖の血でないことを、今、心から悔しく思っている」
「陛下……」
なんと愛しい人だろうか。セレヌは流れ落ちる涙を止めることが出来なかった。
セレヌの知る全てを、この人と分かちあえたらどんなにいいだろう。とめどない涙と共に、溢れる感情と共に、彼に全てを話せばどんなに楽だろう。
しかしそれは出来ない。
こんなにもセレヌを、アイリスを愛してくれる愛しい男にさえ、この胸の内を明かすことは許されていないのだ。それが十祖の血を引くと言われる者の役目である。
「セレヌ、弱音を言ってすまない。だからもう泣かないでくれ」
「申し訳ありません、陛下。もう泣きやみます。もう泣きやみますから」
なぜ星は許してくれなかったのか。ただ愛する人と、愛する子供と、静かに暮らしたかっただけだ。変わらない平和を望んだだけだ。
「もう少しだけ、泣かせてくださいまし。あなた」
夫は黙って、セレヌの震える身体を抱き締めた。