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chronicle ーー月の帰還ーー  作者: ひよくい
最東のカシン
2/7

最東のカシン 1

***



「リオン」


 自分の名を呼ぶ声に気づき、青年は剣を拭っていた手を止めた。そしてすぐに思い浮かんだ声の主にため息をつく。

 手にしていた布を置き、剣は鞘に納めて腰に差す。重厚な造りの鞘が触れて、青い鎧が涼しげな音を立てた。


「リオン」


 廊下から響く呼び声はどんどんと大きくなり、城中に響きわたっているかに思われた。

 こちらに近づいてきているこの声が余計な人の耳にまで届いていないことを祈りながら、青年は短く整えた黒髪を掻いて扉に向かう。そして取っ手に触れようとしたその時、彼の眼前で扉が乱暴に押し開かれた。


「やっぱりここにいたのね、リオン」


 快活な声が鮮やかに響いた。


「アイリス様、またお叱りを受けます」


 リオンと呼ばれた青年は思わず渋面になると、皺の寄った眉間を軽く押さえた。

 ばたばたと騒がしく扉を開け、豊かな金の巻毛を二つに結わえて現れたアイリスは荒い息を弾ませているが、その格好は狩猟用の軽装である。少なくとも城内で王女が着る服ではない。


「それに、その格好はなんです。まさか今から荒野にでも出るおつもりですか」


 そう咎めると、アイリスは頬を膨らませる。


「出ないわよ。これ動きやすいのよ。ほら」


 まるで少年のように白いズボンを履いて、装飾の抑えられた緑の上着という出で立ちで、アイリスはくるりと優雅に回ってみせた。リオンはそれを見てそれ以上の追及をやめた。言いたいことは山ほどあるが、いちいちやり合っていたのではいつまで経っても本題に入れまい。


「アイリス様、何か私に御用だったのでは」


 問いかけにアイリスは大きく頷いた。そして光の強い金の双眸を真っ直ぐに向け、リオンを見つめる。リオンは落ち着かない心持ちながら、視線を返した。

 この王女は生まれながらに人を従えさせる強い力を持っている。リオンは常々そう感じていた。この鋭く澄んだ瞳に見つめられて、一体誰が逆らえるというのだろう。さながらその目は遥かな空を映す猛禽のようでもある。

 それだけではない。齢十六を数える年頃になった今はその凛とした美しさも冴えわたり、その凛々しさは旅の芸人にも高く謳われた。真剣な面差しは鋭く尖った剣先かと思えば、柔らかな笑顔は咲き誇る真っ赤な花弁にも喩えられる。

 そしてアイリスはその眩しすぎる程の輝かしさを隠しもせずに満面の笑みを浮かべた。


「ユニ様がいらしたの。リオンもお会いしたいだろうと思って、わざわざ探しにきてあげたんだから」

「ユニ先生が城へ……」


 思わず表情の明るくなったリオンに気分を良くしたのか、アイリスはとぼけて眉間に皺を寄せる。


「魔導院からこーんなしかめっ面したお爺さん達がぞろぞろやってきて、今お父様とお話ししているわ。ユニ様も一緒よ」


 ユニ。その名が出たことに驚きながらも、込み上げた嬉しさを殺しきれず、リオンは頭を下げることで表情を押し隠す。懐かしい初老の男の柔和な微笑みと、その優しげな低い声は今でもありありと思い出せた。


「そうでしたか。……アイリス様、お気遣いいたみいります」

「リオン、一緒に会いに行きましょう」


 アイリスが自らも嬉しくてたまらない、という様子で笑ったちょうどその時だった。部屋の外で数人の足音が響き、リオンは続いて開きかけた口を止めた。


「アイリス様! アイリス様!」


 いくつもの足音とともにリオンもよく知る侍従長やらがアイリスを呼ぶ声が聞こえる。理由をすぐに察して咎めるリオンの視線を受け、アイリスは何も聞かれていないうちから肩をすくめた。


「作法の時間だったの。またリエンザ先生に怒られてしまうわ」

「作法に関しては先日王妃様より直々にお叱りがあったばかりではありませんか」


 思わず呆れた声が出て、リオンはまた現れた眉間の皺を押さえた。

 何しろカシン城のお転婆姫と、城下の民が口を揃えて呼ぶほどである。十六の誕生日もとっくに過ぎ、もう結婚の話が出てもおかしくない年齢だ。しかし毎日が毎日この調子である。幼さを残すアイリスの風聞は、王妃にもアイリスの近衛であるリオンにも頭の痛い、悩みの種になっている。

 しかし本人になんとも気にした様子がないのはどうしたものか。


「アイリス様、私からもリエンザ様には謝りましょう。さあ、戻るのです」

「えー、私、リオンと一緒にユニ様に会いに行くつもりだったのよ」

「いけません」


 リオンが逃げ出そうとするアイリスの肩を掴み部屋を出ると、すぐにその様子に気づいた侍従長が太った体を揺らして駆け寄ってきた。

 肩を怒らせてやってきた彼女は、そのふくよかな身体を存分に活かした太く通る声を、廊下中に響きわたらせる。


「まあ、アイリス様。また騎士の控え部屋なんかにいらして! ご自分の身を弁えてくださいまし! リオン、リオンと仰って懐かれるのも、もう子供染みたことと御控えくださいまし。王妃様が同じ年頃には、もう御婚礼のお話が断っても断っても尽きなかったといいますのに……。アイリス様はもう十六を数えられるのですよ。近衛とは正しい距離を以て接せられるよう。そして作法の御時間には……まあ! こんな狩猟服なんかをお召しになって!」

「マリー、そのくらいにしてはどうか」


 止まらない叱責に少しアイリスが可哀想になり、リオンが思わず仲裁を入れる。するとマリーの怒りの目はリオンに向かった。ぎらりと鋭い視線にたじろぐ。


「パドゥテ様、貴方様もです。アイリス様の年頃をお考えあそばせ。近衛の騎士と妙な噂でも立つようなことがあれば、本当に求婚者なんていなくなってしまいますわ。そんなことになりましたらカシンの王族はどうなってしまうのです。たったお一人の御子であらせられますのに」

「すまない」


 反駁もなく、リオンは下がるしかなかった。広い城内のすべての些事を取り仕切るマリーに頭が上がる者などいなかった。

 マリーは王妃が子供の頃から城に仕えている。しかし長く仕えていることだけで彼女が重んじられているわけではない。アイリスはもちろん下級の兵士たちまで、マリーに叱られたことがない者など城内にはいない。そして彼女の叱責は常に確かな優しさと愛情に裏づけられている。それを分かっているからこそ、誰も彼女には言葉を返すことが出来ないのである。

 リオンが大人しく黙ったのを見て、マリーは再びアイリスに向き直った。逃げだそうとしていたアイリスは、マリーの目が細くなったのに気づいて、右足を上げかけたまま硬直する。


「さあアイリス様、リエンザ様が御待ちですよ」

「待って、マリー。私、ユニ様にご挨拶を……」

「あら、先程ユニ様と楽しそうにお話ししていらっしゃったのは、どこの姫君なのでしょう。それに、ユニ様は陛下と謁見中ですよ」


 ぐうの音もでず、アイリスに出来る反抗といえば頬を膨らませることくらいだ。マリーに肩をがっしり捕まえられ、アイリスは大人しく廊下を歩いていった。

 リオンはそんな二人の背を見送りながら、ふっと息を吐き、小さく首を横に振る。呆れを含んだため息は、どこか幸せに似たものも内包していた。

 アイリスには初めて出会った時から手を焼かせられた。

 リオンがカシン城の騎士見習いとしてこの城に足を踏み入れたのは、十歳を過ぎた頃である。その時のカシンは大輪の華のように生まれ出でた王女の誕生に沸いていた。

 太陽の子と褒め讃えられた王女には、他の<城>や魔導院から多くの物が贈られた。彼女の誕生を祝わぬものがいただろうか。リオンもその贈り物の一つであるというのに。

 見習いに上がったばかりの少年は、将来アイリスの近衛騎士になるのだと示され、その尊顔を仰いだ。その時泣きだしたアイリスの大声に狼狽した思い出は、あれから十六年を過ぎた今も色褪せることはない。リオンにとって、守るべき愛されるべき者との衝撃とも言える出会いだった。

 アイリスは健やかに時を過ごした。美しく溌剌と成長していく王女の姿に、大人になりきれていなかった少年のリオンは愚かにも己の境遇と引き比べ、羨んだりもした。しかしそれも全て過去のことである。今はただ、命を賭しても守るべき主君に出会えたことを感謝するばかりだ。


 リオンはアイリスらが向かった方とは別の方向へ歩き出す。王との謁見が終わるのを待って、ユニを出迎えるつもりだった。

 久しぶりにユニの名を聞いたためだろうか。リオンの胸には次々に過去の記憶が去来していた。

 カシンでの訓練の日々。騎士として認められてからの日々。カシンを訪れる前の、ユニとの記憶。けして幸せな思い出ばかりではない。むしろ、忘れてしまいたい辛く澱んだ思い出の方がはっきりと輪郭を残している。

 カシン城に、アイリスに仕えてから、リオンは確かに幸せであった。恩師であるユニと出会ってから人生は幸せの方向に転じたのだとリオンは信じている。しかしその前はどうだっただろうか。リオンが生きてきた内のほんの僅かな期間。たった五歳を数える頃までの澱み。それはその後に積み重なっていった幸せを合わせても足りない質量を持っている。

 謁見の間に続く廊下には、秩序を守る衛兵たちの静寂があった。

 その静まり返ったさなかにも、リオンの足音は響かない。鍛え続けてきた彼の身体は、普段の身のこなしも変えていた。はたしてユニはこんなリオンの姿を想像しただろうか。


「こちらでお待ちしてもいいだろうか」


 リオンは謁見の間の手前の小部屋を守る衛兵に尋ねる。待機場所に使われるこの小部屋を通り抜けた先が謁見の間だ。召されてもいない場に近づくことは、アイリスの近衛といえど許されていない。ましてや魔導院と王の謁見は、どちらが上の立場なのか判断つきかねる程、雲の上の世界だ。近づきすぎなければ、覚えもないことを疑われることもない。その程度の心得はあった。


「王陛下ですか。それとも……」


 無表情を貫いていた衛兵が、憚りながら答える。


「メイシャン・ユニ導師だ」


 答えながらリオンは自身の頬が緩んだことに気づき、さっと表情を引き締めた。


「お静かに願います」


 衛兵の言葉を許しと受け取り、リオンは頷く。そして廊下の大きく採られた窓に近づいた。城の高い位置にある窓の外には、遠くは荒野と山々が望め、すぐ下には城下町の営みを望むことが出来る。反対側の西側に面した窓からは、太陽の光が深く差し込んでいた。

 これからあと迎えるのは夕暮れだけともなろう刻限に、突然の謁見とは何事であろうか。リオンの記憶ではこの日に魔導師との謁見の予定はない。

 今年の作物はけして不作ではなかったし、魔導の助力を感謝して贈り物もおくったはずだ。近衛騎士としてカシンの治安が安定していることは断言できる。ましてや今日は特に何を定められた日というわけでもない、まったくの平日である。

 魔導院が<城>をわざわざ訪ねてくる理由が思い当たらなかった。約五年間、十歳を過ぎるまでリオンは魔導院で暮らしていた。だからこそ、魔導院の魔導師たちが<城>を蔑んでおり、そこに生きる人間にも興味を抱いていないことは肌で感じて知っている。何か起こりでもしなければ、定期的な査察以外で魔導師が<城>を訪れるはずがないのである。

 なぜ、ユニはカシンを訪れたのだろう。なにか良くないことが起こるのではないだろうか。

 疑問と不安は際限なく胸に溢れた。しかしリオンの胸に湧きたつ喜びはそれを押し退けて余りある。いつしか疑問も不安も頭の奥へ追いやられ、リオンの口の端には期待と幸せばかりが浮かんだ。




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