6話 世界平和
天を衝くほどの巨大な噴煙、すべてを飲み込む津波あらゆるものをなぎ倒す竜巻、空を覆い尽くす砂塵。
テレビもネットも途絶える直前に映し出したのは、地球が迎えた集団的な死の瞬間だった。
巡也の願いは確かに「予言が外れる」ことを叶えた。だが、その結果として訪れたのは予言以上に破滅的な現実だった。
願った時間に世界は終わったのだ。
二人が立てこもっていたマンションも、轟音と共に崩れ落ち瓦礫の山に姿を変えた。
「…きゃあああああッ!」
凄まじい衝撃と粉塵に莉々愛の意識は一瞬途切れた。
次に目を覚ました時、世界は終わっていた。
ビルは折れ大地は裂け空は灰色の雲に閉ざされている。
生きているのが不思議なほどの惨状の中、奇跡的にできた隙間で、彼女はかろうじて身動きが取れた。
「…巡也くん…!どこ…っ!」
必死に声を張り上げる。
どこかで生き埋めになっているかもしれない。
煙と埃で喉が焼けつき、視界も悪い。
絶望的な状況で彼女は瓦礫の中を這い、愛しい人の名を呼び続けた。
「こ……ここだよ……」
「…!巡也くん!」
かすかに聞こえた声に、莉々愛ははっと顔を上げる。声のする方へ瓦礫をかき分け必死にもがいた。
「待ってて、今助けるから!」
指先が切れ服が破れるのも構わずに手を伸ばす。
やがて、ひっくり返った大きな家具の下敷きになり、脚から血を流している巡也を見つけた。
「巡也くん、しっかりして!」
泣きながら彼のそばに駆け寄る。傷口からはおびただしい量の血が流れ出ていた。
「どうしよう、血が…止まらない…!」
パニックになりながらも、持っていた上着の袖を引きちぎり、傷口に強く押し当てる。応急処置の知識なんて、ほとんどない。それでも、何もしないよりはマシだった。
「お願い死なないで…!私を一人にしないでよ…っ!」
巡也を助け出そうと躍起になる莉々愛。しかし、その時だった。
ミシリと不吉な音が頭上で響く。先ほどの衝撃でかろうであった均衡が崩れたのだろう。彼女の真上から、巨大なコンクリートの塊が、無慈悲な鉄槌のように落下した。
「あっ…」
声も出なかった。
回避する暇もなく彼女はその下にいる巡也ごと、圧倒的な質量の下へと沈んだ。
ゴシャッという鈍い音。
それは彼女の体が潰れる音だったのか、それとも…。
ただ視界が急速に暗転し、耳鳴りが全てをかき消していく。
最後に見たのは自分を庇うように覆いかぶさろうとした巡也のかすかな姿と、そこから広がっていくおびただしく赤い血の色だった。
温かい液体が頬を濡らす感触を最後に、彼女の世界は永遠に暗闇に閉ざされた。
それは奇跡と呼ぶにはあまりにも冒涜的で、悪夢と呼ぶには現実すぎた。
巡也を押し潰したはずの瓦礫が、ガラリと音を立てて動く。
そして、その下からゆっくりと「それ」は姿を現した。
「……え…?」
絶叫も涙も枯れ果てた莉々愛が、力なく顔を上げる。
そこに立っていたのは巡也だった。
いや巡也だった「何か」だった。
腕はありえない方向に折れ曲がり脚は千切れかけている。裂けた腹部からはピンク色の内臓やどろりとした腸がこぼれ落ちていた。その顔は苦痛に歪み片方の目は潰れていた。
「…こ…うき、くん…?
生きてる。
でも、これは生きていると言えるの?」
彼は莉々愛の声に反応するように、一歩こちらに足を踏み出す。そのたびにぐちゃりと嫌な音がして、さらに多くの血と肉片が足元に散らばった。
「あ…あ……こないで……。」
恐怖だった。
愛する人の変わり果てた姿への純粋な恐怖。
莉々愛は後ずさろうとするが、腰が抜けて動けない。
「なんで…そんな、かっこうに…?」
死なないでと願った。
でも、こんな姿になってほしかったわけじゃない。
こんなこんな地獄のような苦しみを、彼に与えたかったわけじゃない。
彼女の願いが、最悪の形で叶ってしまった。
「俺の……からだ……元に戻ってくれ……」
彼の途切れ途切れの願いは、世界の理をまたしても捻じ曲げた。
ありえない速度でしかし一瞬ではない、拷問のような時間をかけて、巡也の肉体が再生を始める。
骨が軋み繋がり皮膚が形成され飛び出した内臓が体内へと収まっていく。それは治癒というよりは壮絶な再構築だった。一ミリ戻るごとに神経を焼き切るような激痛が彼の全身を貫く。
「あ…ぁ……痛い…痛い…」
目の前の光景に莉々愛は言葉を失う。
先ほどまで死体だったものが、今度は人間の尊厳を踏み躙るような過程で「修復」されていく。
それは希望であると同時に、終わりのない苦痛のショーだった。
「痛いよね…苦しいよね…やめて…もうやめてあげて…!」
彼女は思わず叫び巡也に駆けよると、血まみれの体を抱きしめた。
お願いだから、もう元になんて戻らなくていい!そのままでいいから!これ以上苦しまないで!
しかし、彼女の願いも虚しく、彼女の腕の中で巡也は少しずつしかし確実に人間の形を取り戻していく。
その度に彼の口からは声にならない呻きが漏れ、体は激しく痙攣する。
数日が過ぎた。
奇跡的ともいえる巡也の回復は、しかし二人に安寧をもたらさなかった。
文明が崩壊した世界は弱肉強食の地獄へと変貌していた。食料や物資を巡って、あちこちで暴力沙汰が起こり、かつての隣人同士が奪い合う。そんな混乱の中を莉々愛はボロボロの巡也を支え、息を潜めて逃げ続けていた。
彼の傷はまだ完全には癒えていない。歩くこともままならずその体を莉々愛一人が支えるのは限界に近かった。それでも、彼女は彼の手を離さなかった。
「大丈夫…?もう少しだから…あそこのビルまで頑張って…。」
彼女の言葉は自分自身を鼓舞するようでもあった。
ビルの陰に身を隠し、荒い息をつく。背負っていたリュックから乾パンを一つ取り出し、半分に割って巡也の口元へ運んだ。貴重な食糧だったが、躊躇いはなかった。
「ほら口開けて。少しでも食べないと…。」
巡也が弱々しくそれを受け取るのを見届けると、莉々愛も残りの半分を口に放り込む。砂の味しかしない。
(これから、どうしよう…)
逃げ場はもうほとんど残されていない。
外から聞こえてくる怒号や悲鳴に、彼女は身を固くした。このままではいつか追いつかれる。
(私が、守らなきゃ…)
疲労困憊の体でそれでも莉々愛は彼の前に立ちはだかる全ての脅威を睨みつけていた。
「このままじゃ、莉々愛が危ない…。莉々愛の食事も困らない、安全な世界……世界を平和に……。」
その願いが発せられた瞬間、世界を覆っていた灰色の空が、突如として鮮やかな緑色に染まった。
いや空ではない。空を飛んでいた鳥が地に落ち、走り回っていた人々がその場に膝をつく。彼らの皮膚を突き破り体のあちこちから色とりどりの植物の根や枝が勢いよく生えだしたのだ。
「きゃあああああっ!?ななにこれ!?」
莉々愛も例外ではなかった。彼女の肩から、美しい青い花が芽吹く。驚きと恐怖で叫ぶ彼女自身の体からも、次々と蔦が伸びていく。
「いやっ!いやだ!からだが…私のからだが!」
世界中から人類の断末魔の叫びが響き渡った。
争いは終わった。飢えもなくなった。これこそが、究極の平和。巡也と莉々愛だけが望んだ、誰も傷つかない優しい世界。
だが、それは生命の死と同義だった。
ほんの数秒前まで人だったものたちは、今はただ風にそよぐ草花となり、静寂だけが支配する不気味な庭園と化していた。
「…うそ…。」
叫び声も悲鳴もやがて止んだ。
莉々愛の体を覆っていた蔦の成長が止まる。彼女自身も半身が植物と化し、足は地面に根を張っていた。
目の前には同じように植物へと変わった巡也が立っていた。その表情は安らかでまるで眠っているかのようだ。
「…これで…平和になったの…?」
静まり返った世界。
もう誰も彼女たちから何も奪わない。もう誰の血も流れない。
莉々愛はゆっくりと巡也だった木に近づき、その幹にそっと触れた。
「…私たちだけの…楽園…。」




