70 紫紺の空
ウィッカは浮遊魔法で器用に私の上着を脱がせて、ハンガーにかけてから収納した。
《帰りは送ってもらったみたいね?》
「うん…先週怪我を治してくれた回復術師のポーラ様が、何か…領主直下の特殊部隊の相談役? だったとかで…話をするついでに」
見た目は古い馬車だったが、乗り心地はとてもよかった。振動もほとんど感じなかったように思う…多分。
一緒にリビングへ移動しながら説明すると、ウィッカの目に呆れが浮かんだ。
《つくづく、変な人と知り合いになるわね…》
ウィッカがそれを言ってはおしまいだと思う。
とはいえそう突っ込む気力がなかったので、へらりと笑っておく。
リビングには折り畳み式の物干し台が設置され、シーツと衣類が干されていた。もう半分乾いているようで、空気はからりとしている。
平日のこの時間に家にいるのが、ものすごく変な感じだ。現実感がない。
《お昼はもう食べた?》
「…あ」
言われて気付く。バッグの中にお弁当がそのまま入っていた。
正直、全く空腹は感じていないのだが──ウィッカが温かい紅茶を用意してくれたので、それで流し込むように昼食を済ませる。
《片付けは私がやっておくから、貴女は寝なさい。細切れでも睡眠をとっておかないとキツイわよ。──念のために言っておくけど、今日の狩人のシフトも出勤禁止だからね》
「…うん…」
どうしても煮え切らない返事になってしまう。
私はのろのろと寝室へ向かい、何とか着替えを済ませてベッドに入った。
カーテンの隙間から、午後の日差しが差し込んでいる。通りを行き交う人々の声と気配がする。
明るいそれは、今はひどく遠く──部屋の中は、ひどく静かだった。
悪夢に追われながら、それでも何とか時をやり過ごし、ウィッカが買ってきてくれた屋台のサンドイッチで夕食を済ませて風呂に入れば、街はすっかり夜の様相を呈していた。
午後の数時間だけで、シーツと寝間着一式は洗濯行きになった。ここまでくるともはや笑えてくる──表情筋を動かす気力はないが。
《これ以上続くようなら、医者に強制連行するわよ》
「う…」
ウィッカの視線が痛い。
体力を回復させるためには寝るしかないのに、精神状態がそれを許してくれない。
自分で自分を追い詰めている。一応、その自覚はあった。
「………明日か明後日、『パイソン』のところに行きマス…」
《そうしなさい》
肩を落として呟くと、溜息が返ってきた。
そうして、改めてベッドに入ったのだが──当然、安眠できるはずもなく。
「──っ!」
夜中、一瞬眠りに落ちた瞬間にフラッシュバックが起き、私はまた飛び起きた。
一気に上体を起こしてしまい、完全に目が覚めたはずなのに目の前が真っ暗になる。ひどい耳鳴りがして、目が回って気持ち悪い。
顔を伏せて耐えていると、先ほど見た幻の光景が脳内再生される。
『私』を背後から刺した男の顔が、デイヴィッドに変わっていた。──最悪だ。
「……私、は、わたし…」
前世は前世。今生は今生。
理屈では分かっているのに、記憶が、意識が、どろどろに融けていく感じがする。
私が私でいられなくなる。足元から、崩壊していく。
──駄目だ。
眩暈が治まるのを待って、私はベッドから抜け出した。
ドアを開けると、棚の上のクッションに、緑色の目がきらりと光る。
《セラ?》
部屋の明かりがついた。クッションから降りようとするウィッカを、私は身振りで止める。
「ちょっと…外の空気吸ってくる」
《……あんまり遠くに行くんじゃないわよ》
ウィッカは眉間にしわを寄せたが、止めることはなかった。内心感謝しながら頷いて、私は寝間着のまま、外へ出る。
冷たい秋の風が吹いた。
深い紫紺色の空に、青み掛かった銀色の月が浮かんでいる。街の明かりはほぼ街灯だけで、星がよく見えた。
夜空の色も月の色も、前世とは少し違う。その事実に、少しだけホッとする。
熱を持っていた頭が、少しずつ冷えていく。それが心地良い。
足元に、背後の──家の明かりが投影されている。そこに、ケットシーのシルエットが映し出されていた。ウィッカが玄関上の明かり取りの窓から、見守ってくれているのだ。
早く戻らなければ。そう頭では分かっているのに、身体は動かなかった。寝ようとすればするほど、精神が疲弊していく。私が私でなくなっていく感じがする。それが、どうしようもなく怖い。
いつから私は、こんなに弱くなったのだろうか──いや、多分最初からだ。耐えられないと分かっていたから、無意識のうちに記憶に蓋をしていた。
それが解き放たれてしまった今、どうすればいいのか分からない。
「……」
身体が冷えてきた。それでも動く気にはなれずに立ち尽くしていると、少し離れた屋根の上から、黒い影が石畳に着地した。
「──セラフィナ?」
隠蔽魔法の効果でどこかぼんやりしていたシルエットが、仮面とマントを取ると鮮やかに浮かび上がる。
「…ルーカス…?」
黒い上下に身を包んだルーカスは、私が呆然と名前を呟くと瞬時に眉間にしわを寄せ、軽々と階段と柵を飛び越えて私の横に着地した。
「──いつからここにいた?」
私の頬に触れた途端、さらに表情が険しくなる。ルーカスの手の熱さで、身体がとっくの昔に冷え切っていたことを自覚した。
それは、と目を逸らしたら、ルーカスに抱き寄せられる。…温かい。
「……まだ『オウル』の仕事中じゃないの?」
狩人のオウルは、毎日夕方から明け方まで哨戒任務に就いている。少なくとも、この時間に帰ってくるのはおかしい。
くぐもった声で訊いたら、腕の力が強くなった。
「…お前こそ、何でこんな薄着でこんな時間に外に出てるんだ」
「…………眠れ、なくて」
かすれた呟きが落ちた。
ルーカスが深い溜息をつき、帰ってきて正解だったな、と呻く。
「とりあえず家に入れ。で、待ってろ」
「え?」
「すぐに行く」
ルーカスは私を部屋に押し込み、バタンと扉を閉めた。すぐに隣のドアが開閉する音が聞こえ、静かになる。
「…」
呆然としている私の目の前に、ウィッカが着地した。
《やれやれね…。ほら、リビングで待ってなさい》
「う、うん…?」
促されるまま、背もたれ付きの椅子に座って待っていると、10分ほどで玄関ドアがノックされた。私が立ち上がる前にウィッカが玄関に走り、ドアを開ける。
「邪魔するぞ」
入ってきたルーカスは、ややゆったりした黒い半袖シャツにグレーのズボンというラフな格好になっていた。
銀色の髪が湿っている。どうやら、シャワーでも浴びてきたらしい。
《ちょっと。髪、濡れてるわよ》
ウィッカが魔法を使い、ルーカスの髪を乾かした。すまないと頭を下げた後、ルーカスはすたすたとこちらに近付いてきて、
「え──」
あっさり私を横抱きにして、寝室へ向かった。
ウィッカが魔法でドアを開ける。止める暇もない。
私をベッドに降ろすと、ルーカスは当たり前の顔で隣に入ってきた。
《じゃ、よろしくね》
ウィッカが平然と言い放ってドアを閉める。あっという間に二人きりにされてしまったことに気付いて私が硬直していると、ルーカスは私をゆっくりと抱き寄せた。
「──寝ろ。俺も寝る」
「…へ」
ばさりと羽毛布団が掛けられる。頭まで包まれると、ふわりとシトラスの香りと──ルーカスの匂いがした。
「…大丈夫だ、セラフィナ。そばにいる」
その声は、どこか祈りのようにも聞こえて。
「…うん」
私は静かに、目を閉じた。
ルーカスの鼓動が聞こえる。
──私を私たらしめてくれる人の鼓動が。




