10 閑話 顔も知らない隣人
ようやく仕事が終わり、俺は疲労感が残る身体を引きずるように屋根の上を駆ける。
夜明け前。正面に見える西の空は薄紫色に染まり、星が一つ、名残惜しく光っている。
春とはいえ、日も昇らない時間帯の気温はかなり低い。冷たい風が、刺すように首筋を鋭くなでていく。
マントの襟元をかき寄せ、俺は焦げ茶色と赤色の屋根が並ぶ通りに着地した。
裏通りの裏通り、それほど広くない石畳の路地はこの領都ではありふれた光景だ。その先は行き止まり。ほんの少し広くなっていて、古びたレンガ造りの建物がずらりと並んでいる。
俺は迷うことなく歩みを進め、右端の建物の外階段を上がった。
ドアの取っ手を掴み、少し持ち上げながら鍵を開ける。開錠にコツが要るこのドアも、俺にとっては馴染み深いものだ。自分の金で借りている、正真正銘の自分の城だと思えば余計に。
開錠しにくい鍵とは裏腹に、定期的に油をさしているドアは今日もとても静かに開いた。するりと室内に滑り込み、俺は内心安堵する。このドアを開けるのは周囲が寝静まっている時間帯のことが多いし、見咎められるわけにはいかないから、毎回身構えているのだ。
誰もいない室内は静かで、外と同じ、ひんやりとした空気が漂っている。備え付けの明かりをつけると、殺風景な廊下が浮かび上がった。
玄関で靴を脱ぎ、短い廊下を進むと、キッチンとリビングダイニング。といっても、一人暮らし前提の借家なので、実家に比べると正直かなり狭い。入ってすぐの所にあるキャビネットに装備を放り込み、向かって左側の窓に歩み寄る。
窓の外には、ほんの少しの空間を挟んで、全く同じ窓がある。隣家は、この家と同じ──恐らく左右対称の間取りの借家なのだ。
その隣家の窓の向こうには、こちら側に見えるように小さな黒板が置かれている。その文字を読み、俺は引き結んでいた口元を少しだけ緩めた。
「…ビールなら鶏の串焼きも捨てがたい…か」
こちら側の窓に吊り下げていた、同じくらいのサイズの黒板を外す。そこには、『唐揚げにはビール』と書かれていた。昨日、俺が書いたものだ。
俺は顔も知らない隣家の住民と、こうして黒板で取りとめのない会話を交わしている。
そのきっかけは、かなり前。隣家の窓際に、『パスタの乾麺、卵、ハード系チーズ、黒コショウ』と書かれた黒板が置かれていた。
多分、買い物リストでもメモして適当に置いてあっただけだろう。今のようにしっかりとこちらに向けてあるのではなく、斜めに傾いた状態だった。
その筆跡が男性的で整ったかなり読みやすい字だったのに対して、黒板自体の扱いが見るからにぞんざいだったことに興味を惹かれ、こちらにも小さい黒板を用意して、『カルボナーラ?』と書いて窓際に置いてみた。
以前から、隣家に人が住んでいるという認識はあった。ただ、俺は仕事柄、一般人とは生活のリズムが全く違う。だから隣人と顔を合わせることはなかったし、それでいいと思っていた。
──本音を言うと、心のどこかで寂しさを感じていた、というのもあるのだろう。
数日後、隣家の黒板に『残念ながらニンニクがなかった』と書かれているのを見た時、俺は久しぶりに──そう、本当に久しぶりに、自然と笑みを零していた。
そうして、顔も知らない隣人との交流が始まった。
ただ、黒板で会話をするだけ。それも、何が美味しいだの今日の天気はどうだの、本当に当たり障りのない内容だけだ。相手の名前も性別も職業も知らないし、相手がそういった内容を俺に聞いてくることもない。
──それが、どんなに嬉しいことか。
貴族家に特異な性質を持って生まれ、しかも立ち位置まで特殊だった俺は、有り体に言えば腫れもの扱いを受けて生きてきた。家でも、学校でもだ。正直、居心地はよくなかった。
今の仕事に就き、この家を借りてようやく、息ができるようになった。仕事場では自分のやるべきことははっきりしていて、他の誰かの視線に悩むこともない。そしてこの家では、普段の立ち位置も自分の性質も関係なく、ただの一個人でいられる。
素の状態でやり取りできる相手がいることは、いつしか俺の心の支えになっていた。
相手の顔も知らない。だからこそ、肩肘を張らずにいられる。──正体がバレたら、その限りではないだろうが。
この辺りは主に平民が住む居住区だから、恐らく隣人も平民だ。こういう特殊な間取りの借家に住んでいるあたり、一体何を生業にしているのか気になるところではあるが──訊いたら自分のことも明かさなければならなくなる。それだけは、どうしても避けたい。
自分が貴族だと知られたら、恐らく隣人と今までのような気安いやり取りはできなくなる。
「…さて、どう書くか…」
胸中に浮かんだ不安から目を逸らし、俺は黒板の文字に集中する。
鶏の串焼き。なるほど、確かにビールには合う。相手もそこそこ酒を嗜むらしい。
少し考え、俺は黒板に『串焼きは塩コショウ派』と書き込んだ。ハーブ焼きも捨てがたいが、ビールに合わせるならシンプルな方がいい。
黒板の文字面を窓側に向けて吊るし、俺は満足して寝室へ移動した。そしてそこで、足を止める。
「…忘れてた」
ベッドの上には、昨夕受け取った手紙が放り出されていた。これでは寝られない。
眠気をこらえ、一通り内容を確認する。近くの商店街のセールのお知らせ、借家のゴミ出し方法に関する注意喚起──またゴミの集積場をカラスに荒らされていたらしい。そろそろ見張り役のケットシーを雇ってもいいと思うのだが、平民にとってはあまり一般的な方法ではないのだろうか。
ほとんどの手紙はそういった流し読みで済む内容だった。だが、最後の一枚は──
「……」
ご立派な封蝋が押された上質な封筒を開封し、繊細なレースのような縁取りが施された便箋に書かれた流麗な文字を目で追う。
実家からの手紙だった。あちらにはここ数ヶ月、顔も見せていないので、帰ってこいということだろう。「たまには家族一緒に晩餐をいただきましょう」と、見覚えのある母の筆跡で書かれていた。
だが、俺には分かる。これは母が自主的に書いたものではなく、父の命令によるものだ。母が自分で書いたのならもっと砕けた文体で、「一緒にステーキでも食べましょ」とか書いてあるはずだ。
父の命令だとしたら、この呼び出しの意味も自ずと分かる。あの家の息子で、未婚かつ婚約者すら決まっていないのは俺だけ。息子の心配をしていると言えば聞こえはいいが、要するにさっさと腰を落ち着けてほしいということだろう。
希少な性質を持つ俺の血を絶やすのは惜しい──そんな、俺の感情を無視した冷徹な思考が透けて見える。
貴族家の当主としては当然の判断だ。だが、そこまで理解できても、俺には虚しさしか感じられなかった。
兄が爵位を継いだら、俺は市井に降りる。平民として生きていく。何度もそう言っているのに、父は納得していないらしい。
話し合いはどこまで行っても平行線。いつも徒労に終わる。正直、顔も合わせたくない。
──だが、こう書かれていては、呼び出しに応じないわけにもいかない。
重たい身体を引きずって小さなデスクの前に座り、シンプルな便箋に「一時帰宅する」と日付と共に走り書きする。ご丁寧に同封されていた薄い水色の封筒にそれを入れ、封をしてから、俺は改めてベッドに戻った。
適当に服を脱ぎ捨て、ゆったりとしたシャツとパンツに着替えて、羽毛布団を頭から被る。
夜通しの勤務で体力も精神力も限界。俺は疲れている。手紙を出すのは、眠って体力を回復させてからだ。
──決して、手紙が実家に届くのを遅らせたいわけでは、ない。
…さて、この御方は誰でしょう…?(意味深)




