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第6話


 雪野と別れたあと、紅月が向かったのは高級感漂う呉服店だった。


 躊躇いなくなかへと入る紅月のうしろを、灯織は気遅れ気味におずおずと着いていく。


「いらっしゃいませ」


 客の来店に気付いた女将が声をかけてくる。目鼻立ちのはっきりとしたきれいなご婦人だ。歳の頃は四十手前くらいだろうか。背筋がしゃんと伸びていて、いかにも女将といった雰囲気を醸し出している。


「これは、本堂さま! いらっしゃいませ」


 女将は来店した紅月を見て、あらためて挨拶をしながら丁寧に頭を下げた。


「こんにちは、礼子(れいこ)さん」


 紅月は笑顔で挨拶をする。どうやら彼女もまた、紅月の知り合いらしい。

 紅月に次いで、灯織もぺこりと頭を下げる。


「あら。今日は可愛らしい子を連れているのね」


 礼子が灯織に気付き、微笑みかける。礼子の微笑みは、同性でもどきっとしてしまうほど美しい。自然と背筋が伸びた。


「灯織さん、こちらはこの呉服店の女将、礼子さんです」

「こんにちは、奥さま。女将の礼子と言います。本堂家のみなさまには、創業当時からご贔屓にしてもらってるんですよ」


 礼子がにっこりと微笑む。


「よ、よろしくお願いします」

「礼子さん、こちらは俺の婚約者の灯織さんです。今日は彼女の紹介ついでに、彼女に似合う呉服をいくつか仕立ててほしいんですが」

「まあ! それはおめでとうございます。もちろん、とびきりのお着物をひと揃えさせていただきますよ。さ、奥さまこちらへ」


 礼子は嬉しそうに言って、灯織の手を掴んだ。


「えっ!? いや、あの……!?」


 拒む間もなく、灯織は礼子にあちらこちらを採寸され、さまざまな柄の反物を合わせられていく。

 灯織は目を回しながらも、必死に応えた。

 しばらくしてようやく開放された灯織は、よろよろと紅月のもとへ戻った。


「お疲れさま」

「は、はい……」


 ぐったりとした灯織を見て、紅月が小さく笑う。


「どの反物も、とてもよく似合っていたよ。仕立て上がるのが楽しみだ」


 紅月に褒められながらも、灯織の心の内では嬉しさよりも申し訳なさのほうが勝っていた。


「……そうでしょうか」


 女将から『奥さま』と言われて思い出した。紅月の優しさにすっかり絆されていたが、灯織は灯織であって灯織ではないのだ。


 女将に『奥さま』と呼ばれるたび、冷水を浴びせられている気分になった。

 これからの季節にぴったりなうさぎ柄、大人っぽい椿柄に爽やかな流水、それからほたる暈しの小紋は淡く優しい雰囲気。

 どの反物もとても美しくて、いつまででも眺めていられる。けれどやっぱり、こんな高級な織物は灯織には不釣り合いだ。


「もしかして、興味なかった?」


 紅月が訊ねる。


「お洒落着を着てた子たちを嬉しそうに見ていたから、着物が好きなのかと思って急遽喫茶店から呉服屋に変更したんだけど」


 灯織は慌てて首を横に振った。


「もちろん嬉しいです! ……でも、どれも素敵過ぎて私には分不相応なんじゃないかって……」


 灯織も歳頃だ。お洒落にはそれなりに興味がある。


 今日ここへ来るまでに見かけた女性が着ていた着物だけでも、素敵だと思うものがたくさんあった。


 たとえば菊に楓。それから、雪輪の着物に幾何学模様の帯。袴はやはり薔薇柄が可愛いと思ったし、それから袴の代わりになるという洋服――スカートという履きものや、フリルたっぷりのブラウスも気になる。


 だが、灯織はこれまで、一度もじぶん用の着物など持ったことはない。今持っているものはすべて、本物の灯織のお下がりだった。


 そのため、実際にじぶんが着るとなるとどうしても気遅れしてしまうのだ。


 それに……。


「……灯織さん」


 俯いた灯織を見てなにやらじっと考え込んでいた紅月が、そっと呼びかけた。


「気になっていたんだけど……君は、どうしてそんなにじぶんに自信がないんだ? 昔の君はもっと……」


 紅月は言いかけて、口を閉じた。

 紅月の疑問はもっともだ。

 灯織はこの帝国に極小数しか存在しない華族のひとり娘であり、なかでも千家家は神職を生業にしている。表向きは立派な家柄だ。


 けれどそれは、灯織が本物の灯織だったら、の話である。


 本来ならここにいるのはじぶんではなく、灯織だった。紅月からの愛は、灯織が受け取るべきもの。じぶんがもらっていいものではない。そう思うと、紅月が似合うと言ってくれた反物も、向けられる笑顔も、素直に喜ぶことができないのだ。


 ――せめて……。


 せめて政略結婚らしく、紅月が灯織に冷たかったなら、ここまで罪悪感を感じずに済んだかもしれないのに。

 と、そんなふうに紅月のせいにしてしまいそうになるじぶんが、余計にいやになるのだった。


「無理にとは言わないけど……なにか話したいことがあったら、聞くから。いつでも」


 紅月が優しく言う。


 ――違うんです。


 本当に受け止めてくれそうな紅月の眼差しに、灯織は思わず口を開きかけて、けれど結局言えずに言葉を呑み込んだ。


 もし灯織が本当のことを言ったら、紅月はなんと言うだろう。


 優しい彼のことだ。きっと慰めてくれる。けれど、予定どおりに婚約とはいかないだろう。


 本堂家は千家家なんかよりもずっと格式が高い。華族の血どころか、あやかしである灯織との婚姻など、言語道断だろう。


 もし本当のことを話してこの家を追い出されたら、灯織は行き場を失ってしまう。

 灯織は、このうそを貫きとおすしかない。たとえ、この胸が引き裂かれるように痛んだとしても。

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